06 夢のあと

 その後の舞台裏は、なかなかの大騒ぎであった。

 何せ、出演者がステージ上で失神してしまったのである。さしてバンド業界に通じていない和緒でも、それが常ならぬ事態であることは察して余りあった。


「だ、大丈夫ですか? 熱中症か何かでしょうか?」


 ステージの幕が閉まると同時に、まずはライブハウスのスタッフが駆けこんでくる。遠藤めぐるの身を床に横たえながら、和緒は「いえ」と答えてみせた。


「呼吸は安定してるみたいだし、苦しそうな様子もありません。寝不足からくる貧血か何かじゃないですかね。もちろん、きちんと診察してもらわないと、確かなことはわかりませんけど」


「そ、そうですか……とりあえず、事務室まで運びましょうか? 動かすのが危険なようだったら、このまま救急車を呼ぶしかないですけど……」


 すると、スタッフに続いて駆け込んできた人物が「救急車!?」とひっくり返った声をあげた。


「そ、そんなに深刻な事態なんですか? 救急車なんて呼んだら、今日のイベントが……」


「人命より、イベントのほうが重要なんですか?」


 和緒がすかさず反問すると、その人物は押し黙った。その人物は、ライブハウスではなくイベントの主催者たるシバウラ楽器店の関係者であったのだ。

 そうして気まずい静寂が立ち込めるのと同時に、町田アンナがぴょこんと近づいてきた。


「とにかく、事務室に運んだら? 和緒のおかげで頭を打ったりはしてないから、移動させても危ないことはないっしょ!」


 そのように告げるなり、町田アンナは遠藤めぐるのもとに手をのばした。その白い指先がストラップを外して、遠藤めぐるの身にのしかかっていたベースを持ち上げる。


「たぶん、エネルギーを使い果たして寝ちゃっただけなんじゃないかなー! 撤収作業はウチらでやっとくから、和緒はめぐるをお願いね! 」


 和緒は無言のまま、遠藤めぐるの身を抱きあげた。

 和緒の腕力であれば、お姫様だっこも苦にはならない。土台、遠藤めぐるは小さすぎるのだ。そして、この役目を他の人間に任せる気持ちにはとうていなれなかった。


 和緒の手の中で、遠藤めぐるは安らかな寝顔を見せている。

 それが、どくどくと脈打つ和緒の心臓を少しだけなだめてくれた。


「それじゃあ、事務室はこちらです」


 スタッフの案内で、和緒はステージから楽屋に移動した。

 楽屋では、次の出番であるバンドのメンバーたちがきょとんと目を丸くしている。遠藤めぐるが倒れかかった頃にはもう幕が閉まりかけていたので、楽屋のモニターでは何が起きたのかも見て取れなかったのだろう。和緒は意味もなく会釈をしつつ、スタッフの誘導で楽屋を出た。


 通路を真っ直ぐ進むと客席に通ずる扉に至り、それとは別の面の壁にドアが設えられている。そこが、事務室への入り口であった。

 六畳もないような、雑然とした部屋である。スタッフは奥の物入から古びた毛布を引っ張り出して、それを床に敷きつめた。


「とりあえず、ここに寝かせてあげてください。こっちは店長の指示を仰ぎます」


「はい。ありがとうございます」


 スタッフが事務室を出ていってから、和緒は遠藤めぐるの身を毛布に横たえた。

 すると遠藤めぐるはすぐさま横向きの姿勢になって、胎児のように丸くなってしまう。その横顔は、やっぱり赤ん坊のような安らかさだ。

 和緒がその汗に濡れた頬をつついてみると――遠藤めぐるはくすぐったそうに、「ううん」とむずかる赤ん坊のような声をあげた。


(なんだよ、もう……人の心をかき乱しやがって)


 和緒がさらにその頬をつつき回すと、しまいには「ふふ」と笑い声をこぼす始末であった。

 少なくとも、苦しんでいる様子はまったくない。それで和緒も、ようやく脱力することができた。


(……あたしを置いて死んだりしたら、地獄の底まで追いかけてやるからね)


 和緒はそのように考えたが、遠藤めぐるは楽しい夢でも見ているかのような寝顔であった。

 しばらくすると、壁ごしに演奏の音色が聴こえてくる。イベントは中止にされることもなく、次の出演者の演奏が開始されたのだ。まあ、たとえ救急車を呼ばれることになろうとも、イベントの続行に支障はないのだろう。多少の苛立ちを覚えつつ、和緒は遠藤めぐるの安らかな寝顔を見守るしかなかった。


 それからすぐに、事務室のドアが開かれる。そこから踏み込んできたのは、町田アンナと栗原理乃であった。


「めぐるは、どんな感じ? ……ありゃりゃ、気持ちよさそうに眠ってるみたいだねー」


 オレンジ色の頭にスポーツタオルをかぶった町田アンナは白い歯をこぼしながら、遠藤めぐるの上にそっとパーカーを掛けた。かつて和緒が遠藤めぐるに押しつけた衣類のひとつである。

 そして、まだリィ様の姿をした栗原理乃が、二枚のスポーツタオルを和緒のほうに差し出してきた。


「失礼ながら、お二人の荷物にさわらせていただきました。どうぞ汗をおふきください」


 和緒も遠藤めぐるも、汗だくの姿であったのだ。和緒は「ありがとう」と応じてから自分のタオルを首にひっかけ、まずは遠藤めぐるの顔の汗をぬぐってあげた。


「んー、やっぱ眠ってるだけみたいだねー。これなら、救急車は必要ないんじゃない?」


 和緒の隣にあぐらをかいた町田アンナは、遠藤めぐるの寝顔を覗き込んでからそう言った。


「……あんたは、医術の心得があるのかな?」


「そんなもんはありゃしないけど、失神の応急処置ぐらいはね。立ち技でも寝技でも、意識を失った人間はその場できちんとケアしないと危ないからさ」


 そう言って、町田アンナは朗らかな笑みをこぼした。それでも声量を落としているのは、遠藤めぐるに対する配慮であるのだろう。


「状況からして一番おっかないのは脳卒中だけど、その症状も出てないみたいだしね。めぐるも昨日は寝てないって話だったから、力尽きて寝入っちゃっただけだと思うよー」


「……それでも病院で診てもらったほうがいいと思うのは、過保護の極みってわけかい?」


「いやいや。心配なのは、ウチだって一緒さ。でも、ただ寝てるだけなのに救急車なんて呼んじゃったら、めぐるが気まずさのキョクチっしょ?」


 和緒は唇を噛みながら、遠藤めぐるの寝顔に視線を戻した。

 すると――遠藤めぐるの小さな口から、「かずちゃん、ありがとう……」という寝ぼけた声がこぼされる。

 町田アンナはぷっとふきだし、栗原理乃は無表情のままわずかに身じろいだ。


「なんか、いい夢を見てるみたいだねー。このまま寝かせておくのが、一番なんじゃないかなー」


 和緒は溜息をつきながら、遠藤めぐるの頭に手を置いた。

 すると遠藤めぐるはいっそう心地よさそうに、すうすうと寝息をたてたのだった。


                 ◇


 けっきょくそのまま安静に寝かせておくと、三十分ていどで遠藤めぐるは目覚めた。


「あー、起きた起きた! めぐる、だいじょーぶ?」


 町田アンナが覗き込むと、遠藤めぐるは「わっ」とかぼそい声をあげた。


「ど、どうしたんですか、町田さん……?」


「どーしたはこっちのセリフでしょー? もー、あんまり心配させないでよねー!」


 町田アンナが深々と息をつきながら首を引っ込めると、遠藤めぐるも目をこすりながら半身を起こした。


「こ……ここはどこですか?」


「ここはライブハウスの事務室だよー! めぐるがぶっ倒れちゃったから、とりあえず休む場所を貸してもらったのさ! もー、このまま起きなかったら、救急車を呼ばれるところだったんだからねー!」


 そんな風に言ってから、町田アンナはにぱっと笑った。


「だけどまあ、めぐるはすやすや眠ってるだけだったから、そこまで心配はしてなかったけどさー! ウチらをこんなに心配させて、ノンキなもんだよねー!」


「わ、わたしは倒れちゃったんですか? それじゃあ、あの……ライブのほうは……?」


「覚えてないのー? 演奏が終わると同時に、バターンって倒れそうになっちゃったんだよー! スイッチが切れたみたいな勢いだったから、ホントにびっくりしちゃったよー!」


「ああ……それじゃあ、演奏は最後までできたんですね。夢じゃなくて、よかったです……」


 そこまでが、和緒の我慢の限界であった。


「演奏のことより、自分の心配をしなさいな」


 町田アンナたちの目があるにも関わらず、和緒は遠藤めぐるの頭をくしゃくしゃにかき回してしまう。九十九パーセントは大丈夫だと信じながら、最後の一パーセントの不安だけはどうしても打ち消すことができなかったのだ。それがこの三十分間で熟成された結果であった。


 ともあれ、町田アンナの見立てに間違いはなかった。遠藤めぐるは元気そのもので、いくらかの言葉を交わしたのちにスポーツドリンクを口にすると完全に復調したようであった。


「……わたしはどれぐらいの間、意識を失ってたんだろう?」


「ざっと三十分ってところかね。今は八番目のバンドが演奏を始めたところだよ」


 和緒がそのように答えると、遠藤めぐるは「三十分……」と繰り返してから、にわかに焦りと不安の表情を浮かべた。


「あっ! わ、わたしのベースは……?」


「ベースやエフェクターなんかは、ウチとリィ様で片付けておいたよー! 和緒のおかげでベースも無事だったから、心配はいらないって!」


 遠藤めぐるはほっと安堵の息をついてから、また「ありがとうございます」と頭を下げた。


「そんな何べんも頭を下げなくていいってばー! それより、楽しかったねー!」


 町田アンナは真夏の太陽のように輝く笑顔を、遠藤めぐるに近づけた。


「ウチ、こんなに楽しいライブは生まれて初めてだったよー! リハ無しでたった二曲のステージだったのに、カンゼンネンショーの気分だもん! めぐるもリィ様も和緒も、いつも以上にバッチリだったねー!」


「はい。これまででもっとも完成度の高い演奏であったかと思います。本番では練習の半分も力を出せないものだと聞いていたのですが、一概にそうとは言い切れないようですね」


 栗原理乃が感情の欠落した声音で応じると、町田アンナは「ほんとだねー!」といっそうにこやかに声を張り上げた。


「ミスとかそんなのは最初っから気にしてなかったけど、とにかくノリノリで気持ちよかったー! ね、めぐるもそう思うでしょ?」


「は、はい。普段以上に、気持ちよく演奏することができました」


「だよねー! めぐるのベースも、うねりまくってたもん! 相変わらず、指板とにらめっこだったけどさー! あんな黙々と極悪な音を鳴らすんだから、あれはあれでかっちょいーかもねー!」


 町田アンナはけらけらと笑いながら、和緒のほうに向きなおってきた。


「和緒も、楽しかったでしょー? プレイはいつも通りケンジツだったけど、音がイキイキしてたもん!」


「さて、どうだかね。緊張のあまり記憶が曖昧で、なんとも判断がつかないところだよ」


 和緒がそんな風に答えると、町田アンナは「またまたー!」といっそう相好を崩した。


「どんなにクールぶったって、音でバレバレなんだからねー! とにかく今日は、最高だったよー! ……リィ様も、これで吹っ切れたっしょ? あーんなすごいステージができたら、もう何にも気にする必要はないって! これからも、『KAMERIA』を頑張っていこうねー!」


「……はい。私もプレッシャーに屈することなく、現時点におけるベストのプレイを披露することができたように思います。でも……すべての判断は、みなさんに託したく思います」


 栗原理乃は人形のような無表情のまま、わずかに声を震わせた。


「私は……今後もこちらのバンドを続けていくことを許されますでしょうか?」


「あったりまえじゃーん! 失敗したってよかったのに、大成功だったんだからねー!」


「は、はい。わたしも栗原さんと――あ、いえ、リィさんとバンドを続けていきたいです」


 町田アンナと遠藤めぐるがそのように答えたので、和緒も肩をすくめつつ口を開くことにした。


「本人にやる気があるんなら、文句をつける理由はないでしょうよ。トラウマ克服、おめでとさん」


 栗原理乃が「ありがとうございます」と一礼すると、黒いレースの目隠しからにじんだものが、床に落ちた。

 彼女はあれほどの実力を見せつけながら、まだそれほどの不安を抱え込んでいたのだ。彼女は彼女で遠藤めぐると同じぐらい、自分の化け物っぷりを自覚できていないようであった。


 そんな栗原理乃の横顔を、遠藤めぐるはとても幸福そうな眼差しで見守っている。

 きっと、ステージ上での楽しさがぶり返したのだろう。和緒とて、遠藤めぐるが倒れるというアクシデントがなければ、もっと純然たる喜びにひたっていたはずであった。


 そして、遠藤めぐるの幸福そうな顔を眺めていると、その喜びがじわじわとせりあがってくる。

 さきほど町田アンナや栗原理乃が語っていた通り、今日の『KAMERIA』は練習のときよりもさらに完成度の高い演奏を実現させることがかなったのだ。最初のきっかけは遠藤めぐるであったが、町田アンナも栗原理乃もそれに触発されて凄まじいまでの爆発力を見せていたし――和緒とて、そこから大きくこぼれ落ちてはいないはずであった。


(なんとか今日の勝負もくぐり抜けられたってところかな)


 和緒がそんな風に考えていると、遠藤めぐるがふっと振り返ってきた。

 その大きくて丸い目は、まだ幸せそうにきらめいている。そして遠藤めぐるが子供のようにあどけない口調で「楽しかったね?」と語りかけてきたので、和緒は「そうかもね」と答えながらその頭を小突くことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る