10 ディーバ

 その後、めぐるたちはさらなる手直しに取り組むことに相成った。

 楽曲のこういった手直しのことを、アレンジというらしい。さすが町田アンナはバンド活動の経験があるため、関連用語についても詳しかった。


 ともあれ、楽曲のアレンジである。

 めぐるが個別に練習をして、何とかかんとか本来のテンポで合奏してみたところ、やっぱりスラップの音量の大きさがネックとなってしまったのだ。イントロで派手に音を鳴らしてAメロでルート弾きに移行すると、今度はそちらで必要な迫力が損なわれてしまったわけであった。


「だったらさ、Aメロもスラップにしちゃおーよ! リフじゃなくって、ルートの進行でスラップするの! ただし音数はひかえめにして、リフとの差をつける感じでね!」


 町田アンナの要求は高かったが、その内容にはめぐるも異存はなかったので、全力で応じたいと願うことになった。

 それに、和緒のほうもめぐるに負けないぐらい過酷な要求をされている。パートごとに音圧の強弱をつけろだの、ハイハットのオープンとクローズを使い分けろだの、Bメロではライドシンバルでゆったり八分を刻めだの――和緒よりもドラムの知識がないめぐるには、全容も計り知れないほどであった。


 そんな試行錯誤を繰り返している間に、刻々と時間は過ぎていく。めぐるがベースを持ってくるのに一時間近くを使っていたため、完全下校時間である午後の六時があっという間に近づいてきてしまった。

 その時間、栗原理乃はずっと無言でこちらの騒ぎを見守っている。いったいどのような心境であるのか、彼女はひたすら切なげな表情を浮かべるばかりであった。


「よーしよし! だいぶまとまってきたねー! これでいっぺん、最後まで通してみよっかー!」


「別にどうでもかまわないけど、時間的にこれが最後のテイクじゃない?」


「えーっ、もうそんな時間なの!? じゃ、録音させてもらわないとねー!」


 町田アンナはうきうきとした表情で、ミキサーという機材にスマホを接続させた。彼女は土曜日にもそのようにして、めぐるたちの演奏を録音していたのだ。このミキサーという立派な機材が部室に完備されているのも、この軽音学部がかつて隆盛を極めた証拠であるとの話であった。


 そうして録音の準備を整えた町田アンナは、跳ねるような足取りでこちらに舞い戻ってくる。

 そして彼女は、マイクスタンドを設置した。ギターアンプとベースアンプとドラムセットが描く三角形の、中央に位置する場所である。


「そろそろ理乃も、退屈になってきたでしょ? 最後に一発、歌ってくれない?」


 町田アンナは満面の笑みで、栗原理乃のほうを振り返った。

 力ない表情をした栗原理乃は、すげなく断るかと思われたが――同じ表情のまま起立して、マイクスタンドのほうにしずしずと歩み寄る。そして、めぐるたちに弱々しく微笑みかけてきたのだった。


「……一度だけ、歌わせていただきます。きっとみなさんの演奏を台無しにしてしまうと思いますけど……どうか許してくださいね」


 町田アンナは何も語らぬまま、ただ笑顔で栗原理乃のほっそりとした肩をぽんと叩いた。


「じゃ、始めよーか! めぐる、よろしくねー!」


 めぐるは「はい」と答えてから、大きく深呼吸した。

 そうして頭の中でメトロノームを鳴らしながら、右手の親指を4弦に叩き込む。リフを受け持ちたいと志願しためぐるは、単独の演奏で楽曲を開始しなければならなかったのだった。


 町田アンナの作りあげた勇ましいリフが、ベースの重低音で響きわたる。

 それも、暴力的なスラップの音色だ。めぐるの心残りは、この音色が中途半端に抑制を欠いていることであった。

 きっと何かしらのエフェクターを使用すれば、もっと心地好い音色になるのだろう。ダイナミクス系のエフェクターで音を整えるか、あるいは歪み系のエフェクターでもっと暴力的にしてしまうか――めぐるとしては、むしろ後者のほうが望ましいように思えてならなかった。


 ともあれ、現状はこの音色で挑むしかない。

 めぐるが四小節を弾き終えると、ギターとドラムが同時にかぶさってきた。

 ギターは激しいバッキング、ドラムもオープンハイハットの力強い演奏だ。

 めぐるは同じリフを弾き続けているのに、町田アンナは四つのコードで進行していく。このリフは、それらのコードすべてと調和するような音符で作られているのだ。素人のめぐるには、それがどういった理論のもとに構築されているのか見当もつかなかった。


 そうしてAメロに差しかかり、めぐるがルート進行に従ったスラップに移行すると――栗原理乃の歌声が響きわたった。

 その不可思議な歌声に、めぐるは思わず息を呑んでしまう。手もとが狂わなかったのは、ほとんど奇跡のようなものであった。


 彼女の歌声は、普段の喋り声とまったく異なっていた。

 普段の声はかぼそくて、小さな鈴が鳴るような風情であったのに――その歌声は、ヒステリックなバイオリンのように甲高くて艶やかであった。


 ともすれば、キンキンと耳に突き刺さってきそうな声音である。

 この歌はキーが高い上に、歌声そのものが鋭く尖っているのだ。あの繊細な容姿をした栗原理乃がこのような歌声を張り上げているなどとは、とうてい信じられないぐらいであった。


 しかしまた――それはただ甲高いだけの歌声でもなかった。

 ものすごく鋭利に鼓膜を刺激してくる反面、どこかねっとりと絡みついてくるような響きをも帯びている。それに、メロディの流れが不可解なほどになめらかで、それこそ機械のような正確さで然るべき音程を発しているように感じられた。


 この歌声には、何か両極端な要素が混在している。

 機械仕掛けの人形であるかのような――それでいて、妙に生々しいような――やはり音楽の素養が足りていないめぐるには、何とも説明し難かった。


 ただひとつ、はっきりわかっていることがある。

 その歌声は、この楽曲のメロディにしっくりと馴染んでいた。

 まるでこの歌声のために曲が作られたかのような――あるいは、この曲のためにこの歌声が作られたかのようであった。


 Bメロに移っても、その印象に変わりはない。

 メロディはがくんとキーが落ちるのに、彼女の歌声は相変わらず機械的で、そして生々しかった。


 そしてサビでは、その印象がさらに強まる。

 ベースはリフに移行して、ギターはイントロやAメロよりも激しいバッキングを刻んでいるのに、歌声はそれ以上の荒々しさであった。

 まるで稲妻が、人の意思を持って暴れ回っているかのようである。

 町田アンナのギターも雷鳴を連想させる迫力であるが、そちらとも印象は異なっている。めぐるとしては、オレンジとアイスブルーの閃光が狂おしくもつれあっているようなイメージであった。


 そうしてサビが終わったならば、めぐるはAの音を長くのばす。

 その間に、今度は町田アンナがギターでリフを奏で始めた。

 和緒は音量と音数を抑えて、ギターのリフをそっと支えている。この小一時間ばかりで、町田アンナが提唱した新しいアレンジであった。

 めぐるはコード進行に従って、ただルート音を長くのばす。どこかに装飾の音符を入れたいところであったが、今はまだ望ましいフレーズを思いついていなかった。


 そんなアレンジを施された演奏の上で、栗原理乃はAメロを歌っている。演奏の圧力が抑えられているため、彼女の歌声はいっそう際立っていた。

 そのままひっそりとBメロに移行して、ワンコーラス目よりも派手なスネアの乱打によって、二度目のサビだ。

 基本のリフに舞い戻っためぐるは、背筋が粟立つぐらいの迫力を感じていた。

 栗原理乃の歌声も、町田アンナのギターも、和緒のドラムも――そしてめぐる自身のベースも、これまでで一番の獰猛さを剥き出しにしていた。


 これが本当に、めぐるの紡いでいる音色であるのだろうか?

 それを確かめるために、めぐるは演奏の手を止めようかという思いをよぎらせてしまったが――そんな思いは、一瞬のことであった。こんな心の躍る場所から離脱してしまうことなど、とうてい我慢ならなかったのだ。


 そうして二度目のサビが終わったならば、めぐるはルート進行に従ったスラップに移行する。ワンコーラス目のAメロよりも音数を詰め込んだ、今のめぐるには荷の重いフレーズだ。しかしめぐるはミスタッチを恐れず、ただリズムのキープだけを心がけた。

 その上で、今度は町田アンナのギターが縦横無尽に暴れている。彼女の本領である、無軌道なギターソロだ。そちらは最初からミスタッチなど念頭にない様子で、ただ暴風雨のように吹き荒れた。


 そしてコード進行の変化するCメロでは、また全員が圧力を抑える。栗原理乃もまた囁くような歌声になっていたが、むしろ生々しさが上乗せされるぐらいで、基本の甲高さと粘り気に変化はなかった。


 そうして最後の大サビから、アウトロである。

 大サビはこれまで以上の迫力であったし、町田アンナがギターをかきむしるアウトロでは栗原理乃も機械人形の悲鳴めいたシャウトをほとばしらせていた。


 それでようやく、演奏が終了し――めぐるは、一気に脱力した。

 和緒のほうを振り返ると、そちらもスネアの上に突っ伏している。それが和緒ならではのオーバーリアクションであるのか、あるいは本当に力尽きているのかは、何とも判然としなかった。


「あー……たぶん後から聴きなおしたら、あちこちボロはあるんだろうけど……」


 と、町田アンナが放心気味の声音で、そのようにつぶやいた。

 めぐるがそちらを振り返ると、町田アンナは白い頬にひと筋の汗を垂らしながら、無邪気に口もとをほころばせる。


「でも、サイコーに気持ちよかったね! ウチ、人生で一番のプレイだったかも!」


「そりゃよござんした」と、和緒は素っ気ない声を返した。


「こっちは一瞬も気が休まらなくって、おつむの神経が焼き切れそうだよ。そろそろ引退を考えようかな」


「なーに言ってんのさ! 和緒だって、気持ちよかったっしょー? めぐるだって、理乃だってさ!」


 めぐるは高鳴る心臓に呼吸を圧迫されながら、栗原理乃のほうを振り返った。

 栗原理乃はマイクスタンドを支えにして、ぜいぜいと息をついている。彼女こそ、疲労困憊の様相であった。


「……ひどい歌声だったでしょう? 私、大きな声で歌おうとすると……どうしても、あんな声になっちゃうんです」


「それが、理乃の持ち味じゃん! あんなすっげー歌声を出せるやつなんて、他にはいないって!」


 町田アンナは栗原理乃の肩を抱き、オレンジ色の髪を幼馴染の黒髪にすりつけた。


「みんなも、そう思うっしょ? 理乃の歌声って、すごいよねー!」


「うん。素直に驚かされたよ。なんか、ボカロみたいに無機質な歌声なのに、やたらと生々しいんだよね。たぶん、メロディや歌詞のせいもあるんだろうけどさ」


 歌詞――めぐるは歌声にばかり衝撃を受けて、歌詞まではまったく意識を向けられていなかった。しかし確かに、彼女は日本語で何かを歌っていたようであった。


「それじゃー、めぐるは? 遠慮とかいらないから、本音で語っちゃってよ!」


「あ、はい……わたしも、かずちゃんと同じように思いました」


 めぐるがそのように答えると、和緒が「おい」と勇ましい声を投げかけてきた。


「あたしに便乗しないでよ。少なくとも、あたしよりは一ヶ月ぶん責任のある立場なんだからさ」


「で、でも本当にそう思ったんだよ。ボカロとかは、よくわかんないけど……機械が必死に歌ってるみたいな雰囲気で……」


「えーっ! それって、ほめてるのー? なんか、愛を感じないんだけど!」


「ご、ごめんなさい! 気持ちをうまく、言葉にできなくて……」


 めぐるは大いに慌てながら、無言の栗原理乃を見つめた。


「ただ……絶対に、ひどい歌声なんかじゃありませんでした。栗原さんの歌声は、ものすごく格好いいです。町田さんのギターと同じぐらい、素敵だと思いました」


「あはは! それはサイコーのほめ言葉かもねー!」


 町田アンナはおどけた顔で笑いながら、今度はそっと栗原理乃のこめかみに自分のこめかみを押し当てた。


「でも、ウチも本気でそう思ってるよ。だから、理乃に歌ってほしいの。……ウチらのバンドに入ってくれない?」


 栗原理乃はきゅっと唇を噛み、自分の胸もとを白い指先でわしづかみにした。


「でも、私は……あんな汚い歌声をしてるし……」


「だから、汚くなんかないってば! 理乃の歌がへっぽこだったら、バンドに誘うわけないっしょー?」


「でも、アンナちゃんは優しいから……いっつもそうやって、私を気づかってくれるし……」


「だったら、めぐるたちはどーなのさ! この二人が、理乃に気を使う理由はないっしょ!」


 町田アンナの鳶色の瞳が、食い入るようにめぐるを見つめてきた。

 その強い眼差しに心をつかまれて、めぐるは「はい」とうなずいてみせる。


「わたしも素人なので、こまかい技術についてはまったくわかりません。でも、栗原さんの歌声はすごく素敵だから……できれば、一緒にバンドをやりたいです」


「……本当ですか?」


「本当です。町田さんだって、本気でそう言ってるんだと思います」


 めぐるが和緒以外の人間にこうまで本心をさらすのは、かつてなかったことであった。

 しかしこれは、和緒とバンドについて語らったときと同じ状況であるのだ。ここで本心をさらさなければ、めぐるはとてつもない後悔を抱え込んでしまうはずであった。


「あたしだって、栗原さんの歌はすごいと思うよ。現時点で足を引っ張ってるのは、どう考えてもド素人のあたしだろうね」


 そんな風に言いたてながら、和緒は誰かを茶化すようにハイハットを小気味好く打ち鳴らした。

 町田アンナは無言のまま、栗原理乃の肩を抱いた手にぎゅっと力を込める。

 すると、その力に押し出されるようにして、栗原理乃は透明の涙と言葉をこぼした。


「私も……みなさんと一緒に、バンドをしたいです」


 めぐるは全力で安堵の息をつき、和緒は拍手をするようにハイハットを鳴らし、町田アンナは「やったー!」とギターごと栗原理乃の身を抱きすくめる。

 かくして、この名もなきバンドは四人目のメンバーを迎え入れることに相成ったわけであった。

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