07 二つの問いかけ
「じゃ、部室の鍵は、ウチが返しておくから! また週明けにねー!」
その後、一時間ていどの演奏を楽しんだのち、ギターケースを抱えた町田アンナは職員室を目指して駆け去っていった。
めぐるがまごまごしていると、和緒はさっさと裏門に向かって歩き始めてしまう。めぐるは大慌てでそれを追いかけることになった。
「か、かずちゃん、あの……」
「理想のメンバーと巡りあえて、よかったね。あんたには、あれぐらい強引な相手がお似合いだと思うよ」
真っ直ぐに前を向いて歩きながら、和緒はそのように言い捨てた。
楽しい演奏の余熱にひたっていためぐるは、それで急速に現実へと引き戻されてしまう。
「で、でもわたしは、まだ返事をしたわけじゃないから……」
「断る理由が、どこにあるっての? 軽音楽部に入部すればアンプも使い放題だし、あんな頼もしいメンバーとバンドを組めたら万々歳でしょ。ひとりで孤独にベースを弾いてるより、よっぽど健全だと思うよ」
「で、でも……かずちゃんだって、バンドに誘われてるよね?」
めぐるがそのように言葉を重ねても、和緒は正面を向いたままであった。
彫像のように端整なその横顔には、何の表情も浮かべられていない。
「あたしなんて、あんたのオマケでしょ。そもそもあたしは入部するつもりもなかったんだから、あんなお誘いは論外だよ」
「それじゃあ……かずちゃんは、断っちゃうの?」
「どうしてあたしが、あんなやつの言いなりにならなくちゃならないのさ。そもそもあいつは、あたしの名前すら知らないわけだしね」
「そ、それはかずちゃんが名乗らなかったからじゃん」
そんな風に答えつつ、めぐるはどんどん大きな不安にとらわれてしまった。
「あの……かずちゃんは、何か怒ってるの?」
「怒ってないよ。怒る理由がないでしょ」
「でも……さっきから、こっちを向いてくれないし……」
「そんなプレイは、これが初めてじゃないでしょ」
和緒は、取りつく島もない。
それでめぐるは、いよいよ覚悟を固めることになった。
「わ、わたしはたぶん、町田さんとバンドを組むことになると思うよ。さっきの演奏は、すごく楽しかったし……町田さんに、かっこいいベースだって言ってもらえたのも嬉しかったから……」
「うん、おめでとう。こんなすぐさま理想のメンバーが見つかって、よかったね。今のペースで練習を続ければ、技術的な面でもすぐに追いつけるだろうしさ。楽しいバンド活動をエンジョイしなさいな」
「う、うん。ありがとう。でも……さっきの演奏が楽しかったのは、かずちゃんも参加してくれたからなんだよね」
「へえ。まさか、あんたまであたしを勧誘しようっての?」
「う、ううん。わたしは、かずちゃんの気持ちを尊重したいから……」
和緒は「へえ」と言い捨てて、ようやく横目でめぐるを見返してきた。
「それじゃあお言葉に甘えて、あたしは辞退させていただくよ。ライブでも決まったら、声をかけてね」
「……かずちゃんはやっぱり、ドラムをやりたくないんだよね?」
和緒は同じペースで歩きながら、切れ長の目を半分だけまぶたに隠した。
「あんたはあたしの気持ちを尊重するんじゃなかったの?」
「う、うん。だから、かずちゃんの気持ちを確認しておきたいんだよ」
「あっそう。まあ、あたしがそれに応える義理はないけどね」
それだけ言って、和緒はまた進行方向に視線を戻してしまった。
その腕に取りすがりたいのを懸命にこらえながえら、めぐるはさらに言葉を重ねる。
「かずちゃんは、何をそんなに怒ってるの? わたしは馬鹿だから、はっきり言ってもらわないとわからないよ」
「だから、怒ってないって言ってるじゃん」
「で、でも……いつものかずちゃんの態度じゃないし……」
「そりゃあ、あんたの態度が鼻につくからじゃない? あたしの気持ちを尊重するとか言って、そんなすがるような目で見られたらさ。こっちは嫌な気分になるだけだよ」
「だって、わたしはそうするしかないじゃん!」
めぐるは呆気なく自制を失って、大きな声をあげてしまった。
すると、涙までこぼれてきてしまう。町田アンナとの出会いや悦楽に満ちた演奏の影響で、もとよりめぐるは情緒がしっちゃかめっちゃかであったのだった。
「わたしだって、かずちゃんと一緒にバンドをやれたら嬉しいけど、そんな無理強いはできないし……だから、かずちゃんの好きなようにしてほしいのに……それでも目つきが気に食わないとか言われたら、わたしはどうしたらいいの?」
「あのさぁ……こんな往来で、泣かないでよ」
「泣いてないよ。涙は出てるけど」
「世間では、それを泣くって表現するんだよ」
和緒は深々と溜息をつき、手の甲でめぐるの頭を小突いてきた。
その手の感触と温かさに、めぐるはいっそうの涙をこぼしてしまう。
「……あたしが絵画の楽しみに目覚めたとしようか」
「え? な、なんの話?」
「あたしがモナリザの原画か何かを目にして、絵画の素晴らしさに目覚めちゃったの。それで一心不乱に絵を描き始めて、恍惚としてるわけよ。しまいにゃ寝食を忘れて、ぶっ倒れる始末ね。そんな姿を想像してみなさいな」
「う、うん……?」
「それであたしは一念発起して、絵画コンクールにチャレンジすることにした。題材は、あんたのヌード」
「ええっ!? や、やだよ、そんなの」
「うん。あたしもあんたの気持ちを尊重したい。あんたは大事な大事なマイフレンドだからね。だけどあきらめきれなくって、じとーっとあんたのことを見てるの。あんたは、どんな気分?」
「そ、それは……ものすごく困っちゃうけど……」
「なんで? あたしは絶対、無理強いなんてしないよ」
「で、でも、かずちゃんの力になれないのは心苦しいし……それでかずちゃんに嫌われたら、どうしようって思うから……」
「あたしはそんなことで、あんたのことを嫌ったりしないよ。あんたは今、あたしのことを嫌ってるの?」
「き、嫌ってないよ! かずちゃんのことは、大好きだよ!」
「だから、ここは往来だっての」
足だけは止めないまま、和緒は再びめぐるの頭を小突いてきた。
「そんなある日、別の場所からあんたに匹敵するぐらい魅力的なモデルさんが登場いたしました」
「えっ! ま、まだ続くの?」
「そのモデルさんは、ヌードでも何でもござれ。あたしは無事に理想的な絵を仕上げることができて、モデルさんとも仲良くなれました。今後もそのモデルさんを相手にバシバシ作品を仕上げていくつもりだから、もうあんまりあんたにかまってる時間は取れないけど、どうかそれはご勘弁くださいませ」
「う、うん……それはしかたのないことだけど……」
そんな風に言いかけて、めぐるは慌てて口をつぐむことになった。これはめぐると和緒の立場を逆転させたたとえ話なのであろうから、それをしかたないのひと言で済ませるのは何かが間違っているはずだった。
「え……そ、それじゃあわたしは、どうしたらいんだろう……?」
「知らんよ。模範解答があるってんなら、あたしが聞かせてほしいぐらいだね」
そんな風に言いながら、和緒はハンカチを差し出してきた。
それをきょとんと見返してから、めぐるは自分の頬が滂沱たる涙に濡れたままであることに気づかされた。めぐるはそんな情けない姿で、ずっと和緒と言葉を交わしていたのだ。
めぐるはそのハンカチで涙をぬぐいながら、頭が焼き切れるぐらい思案した。
情緒が定まっていないため、なかなか考えがまとまらない。ただそれでも、腹の底ではずっと抑えつけていた感情が頭をもたげようとしていた。
「わたし……かずちゃんに、ドラムをやってほしい」
やがてめぐるがそのように伝えると、和緒は再び横目でねめつけてきた。
「それがあんたの、模範解答ってわけ?」
「も、模範解答かどうかはわからないけど……何も気持ちを伝えないまま、かずちゃんとの関係がおかしくなっちゃうなんて……そんなのは、嫌だから」
そんな風に言いながら、めぐるは無理やり笑ってみせた。
「それに……何も気持ちを伝えないまま、決定権を相手にゆだねるっていうのは……きっと、卑怯なことだよね。わたしはいつもそうやって、かずちゃんに甘えてきちゃったんだ。だからかずちゃんも、あんなに怒ってたんじゃないの?」
「だから、怒っちゃいないってのに」
「でも、わたしの態度が鼻について、嫌な気分になってたんでしょ? それは、わたしが甘ったれだからだよ。自分では何の責任も負おうとしないで、かずちゃんに判断をまかせちゃってたから」
「それで、自分の欲求をあきらめるんじゃなく、それを押しつける方向にシフトしたってわけ?」
「うん。だってこのままじゃ、絶対に後悔するもん。もしもこの先、どんなドラムの人と巡りあったって……どうしてかずちゃんに本当の気持ちを伝えなかったんだろうって、わたしは後悔すると思う」
「その後悔を回避するために、あたしに無茶な要求をしようってわけか」
「うん。わたしは、かずちゃんとバンドを組みたい。わたしがさっき、あんなにのびのび演奏できたのは、かずちゃんが一緒だったからなんだよ。それに、バンド活動のせいでかずちゃんに会えなくなっちゃうのも、嫌だ。わたしにとって大事なのは、この世でかずちゃんとベースだけだから……かずちゃんと一緒にバンドを組めたら、どんなに幸せだろうって考えちゃうの」
「ああもう、通りすがりの人らに誤解されまくりだね、こりゃ」
「通りすがりの人なんて、どうでもいいよ」
和緒は苦笑をこらえているような表情で、めぐるの髪をかき回してきた。
「それでは、第二問です」
「だ、だいにもん?」
「この二年間、あたしらはつかず離れずの絶妙な距離感で過ごしてきたよね。バンドなんか組んだ日には、その絶妙な距離感も木っ端微塵だろうけど、あんたは不安に感じたりしないのかな?」
その言葉は、思わぬ鋭さでめぐるの心に食い入ってきたが――それでもめぐるは、「うん」と答えてみせた。
「わたしと毎日顔をあわせてたら、かずちゃんはうんざりしちゃうかもしれないけど……なるべくかずちゃんの負担にならないように、わたしもしっかり気をつけるよ」
「……ずいぶん的外れな回答だね。誰もそんな話を心配しちゃいないよ」
「え? それじゃあ何を……?」
「うんざりするのは、あたしじゃなくってあんたの役割でしょうが? あたしみたいなヘンクツ者と毎日顔をあわせることこそ、負担以外の何物でもないでしょうよ」
そのように語る和緒は、いつも通りのポーカーフェイスだ。
ただ――その切れ長の目には、どこか迷うような感情がわずかにこぼれている。その事実が、めぐるを激しく驚かせたのだった。
「よ、よくわかんないけど……わたしがかずちゃんにうんざりするなんて、絶対にありえないと思うよ?」
「へえ。顔をあわせるたびに頭を小突かれてるのに、そんな風に言い切れるもんかね」
「う、うん。だってわたしはできることなら、毎日だってかずちゃんに会いたいと思ってたし……でも、そんなのはかずちゃんにとって迷惑だろうから……だから、ずっと我慢してたんだよ?」
「その我慢が、長いつきあいの秘訣だったのかもよ。あたしみたいな人間に深入りしたら、たいていの人間は音をあげるだろうからね」
「そ、それこそ、わたしの台詞だよ。わたしは絶対、かずちゃんにうんざりしたりしないよ」
そうしてめぐるは、精一杯の思いで和緒の瞳を見つめ返してみせた。
「わたしもかずちゃんをうんざりさせないように、気をつけるよ。だから……一緒にバンドを組んでくれない? わたしは、かずちゃんのドラムでベースを弾きたいの」
和緒はしばらく無言のまま、めぐるの瞳を見つめていたが――やおら正面に向きなおって、深々と息をついた。
「本当に、厄介な人間をマイフレンドにしたもんだよ。……それじゃああたしが絵画の喜びに目覚めたあかつきには、あんたがうんって言うまでヌードモデルをお願いし続けるからね」
「うん。でもきっと、絵画よりドラムのほうが楽しいと思うよ」
「あいにくあたしは、あんたほどMッ気はないんだよ」
そんな風に語りながら、和緒はめぐるの目の前に右の手の平をかざしてきた。
親指と人差し指の間で血豆が破けて、赤く血がにじんでいる。わずか一時間の演奏で、和緒も初心者の洗礼を受けていたのだ。めぐるは、心から驚かされてしまったが――それ以上に大きな喜びが心の底からわきあがってくるのを、どうしても止めることがかなわなかったのだった。
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