05 下準備

 翌日――めぐるは休校日たる土曜日に、朝から学校に向かうことになった。

 制服姿で鞄も持たず、背中にベースのケースを背負っているのが、何とも奇妙な心地である。しかしめぐるの心に満ちるのは、大いなる不安感と期待感ばかりであった。


「このひと月ちょっとで、あんたの暴走を見るのは何度目だろうね。なんかすっかり、イメージが変わっちゃったよ」


 ともに通学路を歩みながら、和緒が皮肉っぽい言葉をもらす。今日はめぐるのほうから頼むまでもなく、自主的に同行を申し出てくれたのだ。


「ま、骨は拾ってあげるから、好きに爆散しなさいな」


「うん。ありがとう」


 めぐるは和緒と連れだって、学校の敷地内に踏み入った。何となく人目をはばかって、裏門からの入場である。そのすぐそばに位置する部室棟の前に、オレンジ色の頭が見えた。


「おー、来た来た。じゃ、さっそく始めよっか」


 ドアにもたれて座り込んでいた町田アンナはあくびを噛み殺しながら立ち上がり、かたわらのギターケースを担ぎ上げた。めぐるが使用している物よりずっと立派な、分厚くて頑丈そうなケースだ。

 町田アンナの立ち姿を拝見するのは、これが初めてのことである。彼女の背丈は、ちょうどめぐると和緒の中間ぐらいであった。


「あの、町田さん……今日はわざわざ、ありがとうございます」


「いいよいいよ。アンプで遠慮なく音を鳴らせるのは、ウチも楽しいからさ」


 町田アンナはひどく眠たげで、昨日ほどは昂揚していない。ただそのしなやかな肢体からあふれかえる生命力には、何の変わりもなかった。

 町田アンナがドアを開錠し、三人で無人の部室に足を踏み入れる。時刻は午前の十時であったが、分厚いカーテンが閉められているために室内は薄暗かった。


「このカーテンは防音仕様で、土曜日は開けちゃいけないんだってさー。アンプを鳴らせるのはありがたいけど、いちいちルールが細かいよねー」


 壁のスイッチで照明をつけた町田アンナは、ずかずかとギターアンプのほうに近づいていく。そうしてそちらにギターケースをたてかけると、やおら笑顔でめぐるのほうに向きなおってきた。


「ところで、めぐるはどんなベースを使ってるの? 部室のベースは弾きにくいって話だったけど、プレベってけっこうスタンダードなはずだよね」


「あ、いえ、部室のベースが弾きにくかったのは、たぶんネックが反っているせいで……わ、わたしのベースは、リッケンバッカーっていうメーカーです」


「へー! 渋いじゃん! 見せて見せてー!」


 めぐるは恐縮しながら、ケースのジッパーを開いてリッケンバッカーのベースを取り出した。

 すると町田アンナはいっそう瞳を輝かせながら、身を寄せてくる。


「いいねいいね! 色はポップだけど、年季が入ってるねー! こんなの、けっこう値が張るんじゃない?」


「あ、いえ……中古で、八万円でした」


「八万かー! 意外に、お手頃価格だねー! ウチのは新品で十万近くして、親に立て替えてもらったから返済が大変でさー!」


 町田アンナはいそいそとケースを開帳して、オレンジ色のギターを抜き取った。


「これ、フェンダーのテレキャスターね! ウチはオレンジ色のギターを探してたから、もうひと目惚れでさー! ネットで見つけて、お茶の水まで飛んでいっちゃった!」


「そ、そうですか。……あの、町田さんはいつからギターを練習してるんですか?」


「ウチは中二になってすぐだから、ちょうど二年ぐらいだねー!」


 二年前――それでは、めぐるが和緒と出会った頃、彼女はこのギターに巡りあったということであった。


「それで地元の連中とすぐにバンドを組んだんだけど、ウチもふくめてみんな初心者だから、全然うまくいかなくてさー! ちょっとマシになってきた頃にはもう受験生で、みーんなバンドをやめちゃったの! で、その後はネットのメンボとかで探して色んな連中と組んでみたんだけど、なーんかしっくりこなかったんだよねー!」


「そ、そうですか。受験と並行してバンド活動なんて、すごいですね」


「あはは! この学校に入るってのが、ギターの代金を立て替えてもらう条件だったからさ! そりゃもう、必死だったよー!」


 こちらの高校は市内で有数の進学校なのだから、まったくもって大した話である。もしもめぐるが受験シーズンに『SanZenon』と出会っていたならば、道を踏み外していたに違いなかった。


「おっと! ついつい盛り上がっちゃったね! 十一時には出ないとまずいから、さっさと始めちゃおっかー!」


 町田アンナは空いていたスタンドにギターを立てかけると、ケースの小物入れからエフェクターを取り出した。そのエフェクターも、鮮やかなオレンジ色である。


「これ、いいっしょ? ボスのダイナドライブね! オレンジ色のエフェクターを片っ端から弾き比べてみたら、これが一番しっくりきたんだー!」


「エ、エフェクターも、色で選んだんですか?」


「うん! エフェクターなんて山ほどあるから、選びようがなくってさ! だったら大事なのは、やっぱ見た目っしょ!」


 どうやらこれは、めぐるに負けないぐらい衝動的な娘さんであるようだ。

 そんな感慨を噛みしめながら、めぐるも準備を進めることにした。


 昨日と同じ手順でチューニングをして、アンプに繋ぐ。ついに自分のベースをアンプで鳴らすのだと思うと、胸が高鳴ってならなかった。

 が――アンプのセッティングを完了させて弦を弾くと、びっくりするぐらい硬質の音色が響きわたる。慌ててアウトプットのジャックを確認すると、案の定、プラグを差し込む位置を間違えていた。


「リッケンバッカーの4001シリーズには、アウトプットのジャックが二つ存在する。『RICK-O-SOUND』と刻印されているこちらのジャックは専用のキットを接続せんと、リアのピックアップの音しか鳴らんのだ。なおかつ、この年代のリアピックアップにはハイパスのコンデンサーが組み込まれているため、ローの成分がカットされてしまう。それでまともな音を作るのは至難の業だから、アンプに繋ぐ際にはくれぐれも間違えないようにな」


 最初の弦交換をリペアショップの店先で行った際に、店主がそのように説明してくれたのだ。めぐるはほとんど理解できていなかったが、確かにこれはずいぶん特殊な音色であるようであった。

 プラグを入れ替えてからアンプを操作すると、今度はきちんと好ましい低音が響く。それでめぐるが安堵の息をつくと、背後から「あはは!」と笑い声が聞こえてきた。


「そんなキンキンの音が好きなのかと思って、びっくりしちゃったよ! ま、どんな音を出しても、めぐるの勝手だけどさー!」


 言い訳をしようと思ってそちらを振り返っためぐるは、ぎょっと身をすくめることになった。町田アンナがギターを肩から吊るして立ちはだかっていたのである。


「ま、町田さんは、立って弾くんですか?」


「うん! めぐるが本気なら、こっちも本気で受けて立たないとね! 立ってないと、エフェクターも踏めないからさー!」


 言いざまに、町田アンナはギターをかき鳴らした。

 昨日と同じ轟音が、朝の部室に響きわたる。それで足もとを確認してみると、エフェクターのランプはしっかり点灯していた。


「あ、あれ? 昨日も、エフェクターをかけた状態だったんですか?」


「そりゃーそーでしょ! 部室のミニアンプだとクリーンの音もイマイチなんで、そうそうエフェクターを切ろうって気になれないしさー!」


 町田アンナがエフェクターを踏んでオフにすると、今度はジャキジャキとした歯切れのいい音色が響きわたった。こちらのリアピックアップのみのサウンドと大差ないぐらい、きわめて硬質で軽やかな音色だ。ただそれでも、彼女が弾くと独特の躍動感が生じるようであった。


「そ、そうだったんですね。昨日も優しく弾いてるときは、すごくやわらかい音でしたけど……あれもエフェクターのかかった音だったんですか?」


「うん! このダイナドライブって、こっちの力加減で歪み具合がすっごく変わるんだよ! で、ピッキングのニュアンスがモロに出るのが、最大の特徴なんだってさー!」


 それもまためぐるには難しい話であったが、何となく、この町田アンナにはとても相応しいエフェクターであるのかもしれない。彼女は出会うべくして、それらのギターやエフェクターに出会ったのかもしれなかった。


「そっちも準備は整ったかなー? じゃ、4弦開放の音をくれる?」


「え? は、はい、わかりました」


 めぐるが4弦の開放弦を鳴らすと、町田アンナも6弦の開放弦を鳴らし、さらにペグで微調整をした。そういえば、彼女はチューナーを使っていなかったのだ。


「やっぱりちょっと高かったかー。どうもウチって、ペグを締めすぎちゃうみたいなんだよねー」


「そ、そうですか。でも、耳でチューニングできるなんて、すごいですね」


「音が合ってないんだから、全然すごくないよー! でも、チューナーでちまちま音を合わせるのって、なーんか苦手でさー!」


 町田アンナは6弦を基本にして、残りの五本も手早く音を合わせた。

 そうしてひとたびすべての開放弦をかき鳴らすと、音を消してから笑顔になる。


「よーし、準備は万端だね! ……ところであんたは、今日も見物人なの?」


「そりゃあそうでしょ」と、和緒は初めて発言する。

 すると、町田アンナはにやりと不敵に微笑んだ。


「今日はたっぷり一時間も遊ぶつもりなんだから、あんたも見てるだけじゃ退屈でしょ。せっかくだから、参加してよ」


「あいにく、タンバリンやマラカスの持ち合わせはないもんでね」


「そんなのより、もっと立派な楽器があるじゃん」


 町田アンナはギターのヘッドでもって、部室の奥側を指し示した。

 そちらに鎮座ましましているのは、部室の備品であるギターやキーボードやドラムセットなどである。


「こんなもん、あたしはさわったこともないよ」


「ギターやキーボードは無理だろうけど、ドラムでメトロノームの代わりぐらいは務まるんじゃない? ほらほら、そっちにスティックも転がってるしさ!」


「何が悲しくて、あたしが人間メトロノームを演じなきゃいけないのさ?」


「そしたら、めぐるの負担が減るじゃん。ウチが好き勝手に弾くと、めぐるはテンポキープだけでもひと苦労だろうしねー」


 和緒は半分まぶたを下げながら、めぐるのほうに視線を転じてきた。


「か、かずちゃんは無理しなくていいよ。ここまでついてきてくれただけで、わたしは感謝してるから」


「……あんたが素直に引き下がると、あたしのヘンクツ魂に火がついちゃうんだよね」


 和緒は颯爽ときびすを返し、収納ボックスからスティックを拾いあげると、ドラムセットに着席した。

 そして――二本のスティックでもって、目にもとまらぬ連打を見せる。それでめぐるは言葉を失い、町田アンナは口笛を吹くことになった。


「さわったこともないとか言って、明らかに経験者の手つきじゃん! あんた、ドラマーだったのー?」


「馬鹿を言いなさんな。小学生の頃、鼓笛隊で太鼓の役目を押しつけられただけのことだよ」


 そんな風に言いながら、和緒は二種類の太鼓を両手で交互に打ち鳴らした。その片方は重く低い音色で、もう片方が高く抜けるような音色だ。


「こっちがフロアタムで、こっちがスネアか。でもドラムってのは、ハイハットで八分やら十六分やらのリズムを刻むもんだよね」


 和緒の左手の側に、小さなシンバルを上下で重ねたような器具が存在する。和緒がスティックでそれを叩くと、くぐもった金属音が鳴らされた。さらに足もとを動かすと、シンバルが上下に分かれて派手な音になる。


「うわー、足のペダルでオープンとクローズを操作するのか。バスドラを踏みながらそんな真似をするなんて、想像したくもない労力だね」


「そのバスドラは? ベースにとっては、一番重要っしょ!」


「そんな重役は、ぜひとも辞退させていただきたいところだけどね」


 和緒が右足を動かすと、ドンッと重い打撃音が響いた。先刻のフロアタムよりも、さらに重々しい音色である。きっとそれが、ベースと絡み合う重低音であるのだ。和緒が連続でペダルを踏むと、まさしく心臓の鼓動めいたリズムが体現された。


「マーチングの足踏みと思えば、案外無理はないかな。ま、あくまで小学生の鼓笛隊レベルの話だけどね」


「いいじゃんいいじゃん! こりゃー楽しいセッションになりそうだ!」


 町田アンナは声高く言い放ち、エフェクトをかけたギターサウンドを響かせた。


「それじゃあ、始めよっか! 二人とも、本気でかかってきてよー?」

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