04 オレンジ色のギタリスト

「何をぼーっと突っ立ってんのさ? ドアを開けっぱにしてると、ご近所に迷惑なんじゃない?」


 ギターを荒々しくかき鳴らしながら、その女子生徒はそのように言い放った。

 めぐるが慌てて入室すると、和緒も音もなく追従してくる。そうしてドアが閉められると、謎の女子生徒は愉快そうに白い歯をこぼした。


「いらっしゃーい! センパイがたじゃなく、ウチに用事? 見かけない顔だけど、何の用?」


「あ、あの、用事ってわけじゃないんですけど……」


「えー? 聞こえないよー! もっと近づくか、大きな声でしゃべってくれないと!」


 めぐるはひとつ息を整えてから、部室の奥へと歩を進めることになった。

 確かにこちらは、バンド活動を行うための空間であるのだろう。入ってすぐの場所には折り畳み式の細長いテーブルやパイプ椅子などが並べられていたが、部屋の奥にはギターやベースや複数のアンプや、ドラムセットにマイクスタンドに正体の知れない機材などが、どっさり準備されていたのだった。


 それらの様相にいっそう鼓動を速めながらめぐるが前進していくと、そちらで待ちかまえている女子生徒の個性的な容姿が、いっそうくっきりと見て取れる。オレンジ色の髪でオレンジ色のギターを弾く彼女は、その音色と同じぐらい鮮烈な存在であった。


 ただし、この学校は髪の極端な染色を校則で禁じている。彼女は天然の赤毛であり、それが窓から差し込む陽光によってオレンジ色にきらめいていたのだった。

 それにしても、見事な赤毛である。浅川亜季のように人工的な赤ではなく、何かの花を思わせる鮮やかなオレンジ色だ。長さは肩にかかるていどであるが、ボリューミーな髪質である上にうねうねとウェーブしているために、まるでライオンのたてがみのようでもあった。


 それに、肌の色もとても白くて、頬にはそばかすが目立っている。なおかつ瞳の色も淡い鳶色であったため、もとより色素が薄いのだろう。顔立ちも、欧米人のようにくっきりとしていた。

 それほど大柄ではないようだが、しなやかな肢体からは生命力があふれかえっている。白いブラウスの上に羽織っているのはブレザーではなく体育用のジャージで、プリーツスカートの下にはハーフパンツの裾も覗いていた。そんな活動的なファッションで、彼女は机の上にあぐらをかき、オレンジ色のギターをかき鳴らしているのだ。長い前髪をヘアピンで留めて白い面をあらわにしているのも、彼女のアクティブな気性を如実に物語っていた。


「あ、あの……しばらく演奏を見学させてもらってもいいですか……?」


 めぐるがあらためて呼びかけると、その女子生徒は「えー?」と首を傾げた。それでオレンジ色の髪がまたきらめき、まるで火の粉を散らしたかのようだ。


「だから、聞こえないってばー! もー、せっかくノってきたところなのにさー!」


 そんな風に言いながら、彼女はギターを弾く手をゆるめた。

 ただし、演奏を止めたわけではない。弦を撫でるような指づかいで、優しくやわらかいフレーズに移行したのだ。そうすると、歪んだ音色さえもがクリアーになって、別種の魅力をかもし出した。


「で、なんなの? ここの部員ってわけじゃないんでしょ?」


「は、はい。わたしは……いちおう、入部希望者です。それで、見学をさせてもらおうかと思って……」


「入部希望者かー! いいじゃんいいじゃん! 一年生は、ウチしかいなかったんだよねー!」


 彼女は内心の昂りを示すようにひとたびだけ激しくギターをかき鳴らし、すぐにまた繊細なフレーズに舞い戻る。しかしどれだけゆったりとしたフレーズでも、その奥側には力強い脈動が感じられてならなかった。


「ウチはB組の、町田アンナだよー! どうぞよろしくねー!」


「わ、わたしはE組の、遠藤めぐるです」


「めぐるかー! かっちょいー名前じゃん!」


 町田アンナと名乗った彼女はにこにこと笑いながら、和緒のほうに向きなおった。


「そっちのあんたは体育の授業で一緒だったから、A組だよね! クラスの連中が、すっげー美人だーって騒いでたよ! ただ、名前までは聞いてなかったなー!」


「へえ。そう」


「……今のは名を名乗れって意味なんだけど、伝わらなかったかなー?」


「あたしは見物人の見物人だから、名乗る理由はないんじゃないのかな」


 和緒は、相変わらずの調子である。町田アンナはいくぶん唇をとがらせながら、まためぐるに向きなおってきた。


「ま、いーや。それで、めぐるのパートは?」


「わ、わたしはベースを買ったけど、まだ初心者で……」


「ベースかー! いいじゃんいいじゃん! じゃ、そっちのベースで、一緒に弾こーよ!」


 町田アンナは演奏を止めないまま、ギターのヘッドで部室の片隅を指し示してくる。それにつられて顔を動かしためぐるは、スタンドに立てかけられたベースとミニアンプの存在を見出すことになった。


「で、でも、わたしはまだ入部したわけでもないですし……それに、ベースを始めてひと月ていどの初心者ですから……」


「初心者だったら、いっぱい弾かないと! 楽器なんて、弾かなきゃ上達しないんだからさ! ウチだって、そのために入部したんだよー!」


 町田アンナは顔中で笑いながら、そのように言い放った。


「もちろんウチは、家でもどこでも弾きまくってるけどさ! でも、家だとそんなに馬鹿でかい音は出せないじゃん? ここなら遠慮なくアンプを鳴らせるから、楽しいよねー! こんなに楽しいのに、センパイがたはどーして練習しないんだろ! ミーティングなんて、いつでもできるだろうにさー!」


 町田アンナの言葉は、いちいちめぐるの心に食い入ってやまなかった。彼女はめぐると同じ思いを抱いており――そしてそれを誰にはばかることもなく、周囲にぶちまけているのである。


 めぐるはしばし逡巡してから、ベースのほうに歩を進めた。

 ベースアンプのかたわらには大きな収納ボックスが置かれており、そこにチューナーやシールドも保管されている。めぐるさえ望めば、ここでベースを弾くことがかなうのだ。町田アンナのようにギターの上手い人間の前で自分のお粗末な腕を披露するというのは、あまりに気が引けてならなかったが――最後には、体内に渦巻く欲求が勝つことになった。


 めぐるは『SanZenon』の音源を聴くたびに、ベースを弾きたいという欲求にとらわれる。そして今は、町田アンナの演奏によって同じ思いをかきたてられていたのだ。実際に彼女の技量がどれほどのものであるのかは判然としなかったが、とにかく彼女の演奏はめぐるの何かをかきたててやまなかったのだった。


 めぐるは空いていた机に学生鞄と入部届けを置き、誰のものとも知れないベースをつかみ取った。

 カラーリングは黒で、昨日浅川亜季が弾いていたのと同じ形状をしている。つまりは、プレシジョン・ベースというタイプであるのだろう。リッケンバッカーのベースに比べると、丸っこくて可愛らしいボディシェイプである。


 めぐるは動悸をこらえながらチューニングを完了させて、チューナーから抜いたプラグをベースアンプのインプットジャックに差し込んだ。アンプの扱い方に関しても、教則本に多少ながら解説があったのだ。

 アンプには、ボリュームとトーン・コントロールのツマミが存在する。トーン・コントロールはベース、ミドル、トレブルの三種であり、それを調整することで望みの音を作るのだ。

 ただし、めぐるに音作りの知識はない。教則本の内容を記憶の中から引っ張り出して、「指引きに適した温かい音」というサンプル通りに、ベースを7,ミドルを8、トレブルを4に設定するしかなかった。


 そして問題は、ボリュームである。

 ボリュームというのは環境によって適正値が変わるため、サンプルもへったくれもないのだろう。町田アンナのギターに合わせて、めぐる自身が正しい音量を探すしかなかった。


(まあ、彼女と一緒に弾くなんてのは無理だけど……同じぐらいのボリュームにしておけば、近所迷惑になることはないよね)


 めぐるはボリュームを1に設定して、4弦を弾いてみた。

 しかし何も聴こえなかったので、ツマミを2にまで上昇させる。すると、遠いどこかからボーン……と、かすかな低音が響いた。


 めぐるの指が、アンプでベースの音を鳴らしたのだ。

 めぐるはいっそう心臓を騒がせながら、ツマミを3にまで上昇させた。

 さきほどよりもはっきりと、やわらかい低音が響きわたる。まだまだギターのボリュームには届いていなかったが、めぐるにはこれで十分であるように思えた。


 めぐるはアンプの前にしゃがみこみ、和緒や町田アンナに背を向けたまま、ルート弾きの練習フレーズを弾いてみる。

 アンプで増幅された低音が、優しくめぐるの耳を撫でた。使い古しの弦であるのか、あるいはアンプの設定の効果か、金属的な響きのいっさい感じられない、至極やわらかな音色だ。


 ただ――めぐるのベースとは、あまりに弾き心地が異なっていた。

 まず、ネックのサイズ感からしてまったく違っている。こういったベースもリペアショップでさんざん間近から拝見していたのに、自分で手にするとその差異は想像以上であった。


(そういえば店主さんも、リッケンバッカーはネックが細いって言ってたっけ……)


 ネックの先端部の1フレット目などは五センチ足らずの幅で、ほとんど差は感じられない。しかし、こちらのベースはネックが末広がりであり、最終の20フレット目などはリッケンバッカーよりも一センチは幅があるように感じられた。そうしてネックが幅広であれば、そこに張られた弦と弦の間隔も広くなるため、ハイ・フレットにいくにつれて弾き心地が異なってしまうようであった。


 そしてそれ以上に気になるのは、弦の張り具合である。こちらのベースはやたらと弦高が低く、どれだけしっかりと押弦しても音がビビってしまい――さらに、7フレット以降のミドルからハイ・ポジションでは、すぐに音が詰まってしまうのだった。


(これって、教則本に載ってた『ハイ起き』っていう症状なのかなぁ)


 ギターやベースというのはおおよそ木材でできているため、環境や扱い方によってはネックが反ってしまうことになる。そして、ネックが付け根から反ってしまうと調整することも難しくなり、さまざまな弊害が起きることがある――その状態を、『ハイ起き』と称するという話であったのだった。


 左手でしっかり押弦しつつ、弦を弾く右手を力まないように調節すれば、多少は音のビビりも抑制できるようである。しかし、ハイ・ポジションの音詰まりだけは、どのような力加減でも解消されない。音ののびがまったく得られず、すぐにブン……と消えてしまうのだ。その厄介さに比べれば、ネックの握り心地の違いなど些細な話であった。


(きちんとメンテされてないなんて、可哀想なベースだな……でも、こんなに弾きにくかったら、わたしも余計へたくそに……)


 そのとき、突如として雷鳴のようなギターサウンドが鳴り響き、めぐるの身をすくませた。


「それじゃあ、ぜんぜん聴こえないよー! 遠慮しないで、ぶちかましなってばー!」


 町田アンナは、楽しそうにギターをかき鳴らしている。

 めぐるは唇を噛みながら、ボリュームを6まで引き上げた。


 ボンボンと、低音が鳴り響く。

 やっぱり音はのびないし、弾きにくいことに変わりはなかったが――それでも多少は、音色の弱々しさを誤魔化せたような気がした。


「じゃ、CとGの進行でリピートしよっかー! この進行で、なんか展開を考えたいんだよねー!」


 めぐるの意思などおかまいなしで、町田アンナがこれまでと異なるフレーズをかき鳴らす。それなりにテンポの速い、コードのバッキングというやつだ。Cをルートにするコードを二小節弾いたらGに移行するというシンプルな内容であったが、彼女のプレイは躍動感と疾走感に満ちあふれていた。


 めぐるはなすすべもなく、ベースの手を止めてその演奏を見守る。

 すると、同じパターンを二度弾き終えるタイミングで、町田アンナが目配せしてきたため――その視線に胸ぐらをつかまれたような心地で、めぐるはCにあたる3弦3フレットの音を鳴らすことになった。


 町田アンナの軽妙なリズムに従って、めぐるも八分のルート弾きにいそしむ。

 Cを二小節、合計十六回引いたならば、4弦3フレットのGに移行する。さすがにこのていどのルート弾きであれば、めぐるも苦労することはなかった。

 すると、町田アンナが同じテンポのまま、リズムに変化をつけ始めた。

 小節の真ん中にシンコペーションのリズムを差し込みつつ、十六分音符の細かい音色でもって、フレーズに彩りを加えたのだ。


 それは何だか、めぐるにも馴染みのある変化であった。教則本の練習フレーズや『SanZenon』の楽曲でも、こういうリズムパターンは数多く使われていたのだ。

 めぐるは何だかむやみに昂揚してしまったが、自分は八分のルート弾きに勤しむばかりである。このテンポで十六分の音符を差し込むというのは荷が重かったし、ちょっとしたリズムの変化もテンポを乱してしまいそうで怖かった。


 そんな中、町田アンナはさらにフレーズを変化させていった。

 基本のリズムは変えないまま、さらに細かく装飾の音符を差し込んでいく。ベースの知識しかないめぐるには、それが何という名の技法であるのかもわからない。ただ、めぐるの知るチョーキングやハンマリングやプリングといった技法も、その中には確かに含まれていた。


 気づけば町田アンナは、自由自在にギターをかき鳴らしている。ルートの流れは固定されているのに、彼女はそうまで自由にフレーズを動かすことができるのだ。彼女のプレイは荒々しく、やはり浅川亜季や『SanZenon』のギタリストに比べればミスタッチやリズムの乱れも多いようであったが、しかしそれすらもが生々しい魅力であるように感じられた。


 そんな彼女の演奏を聴きながら、ひたすら八分のルート弾きに徹していると、めぐるの内に不可思議な欲求が渦巻いてきた。

 自分ももっと、自由に動いてみたい――そんな思いが、急激に突き上げてきたのである。

 教則本の練習フレーズばかりでなく、『SanZenon』のフレーズをも耳で拾うようになっためぐるは、多少なりとも音楽的な知識が増えている。ベースのフレーズはどういった動きで飾りたてるものか、ルートの切り替わりではどの音を経過音として使用するべきか、ハンマリングやプリングやスライドなどはどういったポイントで使うと効果的であるか――そういった事柄も、経験則から学ぶことがかなったのだった。


 しかし、今のめぐるはメトロノームと同様の存在である。

 めぐるはそれが、物足りなくてならなかった。自由奔放にギターをかき鳴らす町田アンナの存在が、めぐるをそのような衝動に駆り立てたのだ。


 その衝動に従って、めぐるは指先を動かした。

 ルートがCの小節では、2弦のEやF♯やGの音も織り込んでみる。教則本のランニング・フレーズに即した動きであったが、町田アンナの奏でるフレーズとぶつかったりはしないようであった。

 Gのほうでも同じように、BとCとDの音を織り込んでみる。そちらも致命的な矛盾は感じなかったが――ただどうも、指の動き的にはCのフレーズと同一であったため、単調に感じられてならなかった。


(それよりもっと、スライドとか入れてみたほうが……ルートの切り替わりでハイ・フレットに移るのはどうだろう)


 めぐるはそのように思案したが、2弦の10フレット目まで指をすべらせると、たちまち音が詰まってしまった。

 勢いや迫力を増したいという思いであったのに、これでは余計に音がしぼんでしまう。7フレットよりハイのポジションは、使い物にならないようであった。


 そういった弾きにくさが気になると、テンポを安定させることさえ難しくなっていく。

 それに、町田アンナはもはや自由にリズムを変化させているために、ともすればそちらに引きずられてしまいそうであった。


 焦ると、指先も力んでしまう。

 まだ演奏を始めてから何十秒も経っていないのに、めぐるは左手の小指が引きつってしまっていた。

 それでついにはミスタッチをして、実に情けない音を鳴らしてしまう。

 あとはもう、坂道を転げ落ちるようにして調子を乱してしまい――めぐるは演奏の手を止めることになってしまった。


「……ごめんなさい。もう弾けません」


 町田アンナは演奏のボリュームを落としつつ、小首を傾げた。


「疲れちゃった? ま、初心者だったら、しかたないかー。回復したら、また遊ぼーよ」


「……いえ。もう弾けません」


 めぐるは目もとに熱いものがこみあげてくるのを懸命にこらえながら、机の上であぐらをかいている町田アンナの姿を振り仰いだ。


「このベース、わたしのベースとは弾き心地が違うんです。だから……思うように弾けません」


「あ、そーなの? だったら、自分のベースを持ってくればー? ウチも五時までは居残るつもりだからさ!」


 めぐるが慌てて壁の時計を振り返ると、すでに午後四時を過ぎていた。


「……今からベースを取りに帰ったら、五時には間に合わないと思います」


「そっかー。でも、今日はバイトだから、五時がリミットなんだよねー」


 そんな風に言いながら、町田アンナは白い歯をこぼした。


「じゃ、明日は? 明日も昼からバイトだけど、それまでだったらつきあえるよー」


「明日? 明日は、土曜日ですよね?」


「うん。この軽音部、土曜日の活動は認められてるんだってさ。運動部の連中は日曜日にだって練習してるんだから、こっちだって認めてほしいぐらいだけどねー!」


 あくまでギターの手は止めないまま、町田アンナはいっそう愉快そうに笑った。


「で、どーする? あんまり早いのは勘弁だけど、十時から十一時ぐらいまでならオッケーだよん」


「え……たった一時間のために、わざわざ学校まで来てくれるんですか?」


「うん。だってそっちは、やる気まんまんじゃん。週明けまで待てるってんなら、ウチはそれでもかまわないけど?」


 めぐるは衝動のおもむくままに、「お願いします」と言ってしまった。

 すると、オレンジ色の髪をした少女は、返事をする代わりに雷鳴のようなギターサウンドを響かせたのだった。

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