02 扇動

「それであの、今日はご相談があるのですが……ベースアンプって、いくらぐらいするものなんでしょう?」


 めぐるがそのように切り出すと、浅川亜季は「ベーアンかぁ」とにまにま笑った。


「そりゃあベースを弾いてたら、アンプだって欲しくなっちゃうよねぇ。高校生だと、スタジオ代も馬鹿にならないだろうしさぁ」


「は、はい。それで、ベースアンプの種類だとか値段だとかを教えていただけたらと……」


「そいつは、用途にもよるけどねぇ。ちなみに、あくまで自宅の練習用かなぁ? ゆくゆくはライブで使いたいとか考えてるぅ?」


「い、いえいえ。そもそもわたしなんかに、ライブができるとは思いませんし……」


「なぁに言ってんのさぁ。でもまあ、ライブでも使えるアンプなんて言ったら値段も馬鹿にならないし、置く場所にだって困っちゃうもんねぇ。ただ……自宅の練習用だとしても、ざっくり2パターンあるかなぁ」


 そんな風に言いながら、浅川亜季はめぐるにピースサインを送ってきた。


「まあ簡単に言うと、ヘッドホンを使うかどうかだねぇ。家の事情で大きな音を鳴らせないなら、ヘッドホンアンプでも十分だと思うよぉ」


「へっどほんあんぷ?」


「うん。アンプのヘッド部分を極限まで小型化したタイプのやつだねぇ。まあ、説明するより見せるほうが早いかぁ」


 浅川亜季はカウンターの裏側をまさぐって、小さな器具を取り出した。チューナーよりもさらに小さい、手の平サイズの器具である。横は十センチ足らず、縦は五センチ足らずの長方形で、背面からプラグが生えのびていた。


「これをこう、ギターのジャックに差し込むわけだよぉ。えーと、ヘッドホンは……あったあったぁ。ちょっとこいつをはめてごらぁん」


 浅川亜季はその器具をギターのジャックに差し込み、さらにその器具にヘッドホンのプラグを差した。そうしてめぐるがヘッドホンを装着し、浅川亜季がギターをかき鳴らすと、まごうことなきエレキサウンドが響きわたったのだった。


「す、すごいですね! こんなに小さなアンプが存在するとは思いませんでした!」


「あはは。そんな大声を出さなくても聞こえてるよぉ」


 めぐるは赤面しながらヘッドホンを外し、それを和緒に手渡した。和緒は興味なさげにそれを装着し、めぐると体験を共有する。


「ベース用は在庫がないんで、そいつが欲しいなら楽器屋にゴーだねぇ。値段はたぶん、四、五千円じゃないかなぁ。……ただし、こいつはヘッドホン専用だからねぇ。ヘッドホン無しで音を鳴らすには、キャビネット……つまりスピーカーが必要になるんで、そのおつもりでぇ」


「わ、わかりました。それで、もうひとつのパターンというのは……?」


「だから、ヘッドホン無しで音を鳴らしたい場合だねぇ。こいつにスピーカーまで買い足すぐらいなら、最初からコンボタイプのミニアンプを買ったほうが安くつくからさぁ。そっちだって、ヘッドホンは使えるわけだからねぇ」


 浅川亜季はギターを壁に立てかけて、カウンターの向こうからこちら側にやってきた。そして、通路の脇に並べられていた機材のひとつを指し示す。


「これは売り物じゃなくって試奏用のベーアンだけど、定価はやっぱり五千円ぐらいかなぁ。そんなにかさばるもんではないでしょう?」


 そちらのアンプは一辺が三十センチていどの正方形で、厚みは二十センチていどであった。スイッチ類の配列などは教則本に記載されていたものとさして変わらないようだが、こじんまりとした可愛らしいサイズである。


「こんなていどでも、家で鳴らすには十分だしねぇ。試しに、弾いてみるぅ?」


「い、いえ。まだ人にお聴かせできるようなレベルではありませんので……」


「人に聴かせたほうが、上達が早いよぉ? それじゃあまあ、あたしのへっぽこプレイでも聴いていただこうかぁ」


 浅川亜季は楽しげに笑いながらカウンターの奥に舞い戻り、壁に掛けられていたベースを取り上げた。楽器屋でも似たようなデザインがたくさん取りそろえられている、メタリックブルーのベースである。


「ちなみにこれは、フェンダーのプレシジョン・ベースねぇ。こいつもネットなんかで売りに出したら、速攻で買い手がつくだろうにさぁ」


 浅川亜季は指で弦を弾きながら、ヘッドのペグを回していく。その姿に、めぐるは息を呑むことになった。


「あ、浅川さんは、チューナーを使わないでチューニングすることができるんですか?」


「そりゃまあ、多少はねぇ。でも、そこまで耳に自信はないから、リハや本番ではチューナーを使ってるよぉ」


 そうして浅川亜季はベースとさきほどのアンプをシールドで繋ぎ、スイッチ類を操作した。それから指で弦を弾くと、まぎれもないエレキサウンドが響きわたる。

 ボリュームはずいぶん抑えられているものの、めぐるを幸福な心地にさせる温かくてやわらかい重低音である。ただし、使い古しの弦であるのか、金属的な響きはほとんど感じられなかった。


「ね? 家で弾くには、十分でしょう? ベースの生音って体に響く割には耳で聴き取りづらいから、どうしたってアンプに繋ぎたくなっちゃうよねぇ」


 そんな風に語りながら、浅川亜季はおもむろにスラップ奏法を披露した。

 これまでとは打って変わって攻撃的な音色が、せまい店内に反響する。そのしなやかな指づかいに、めぐるはがっくりと肩を落とすことになった。


「浅川さんはギタリストなのに、ベースもすごくお上手なんですね。当たり前の話ですけど、わたしなんかとは比べ物になりません」


「いやいや。あたしはハッタリをきかせてるだけだよぉ。いっつもフユには鼻で笑われてるからねぇ」


 浅川亜季は試奏の手を止めて、めぐるにのんびりと笑いかけてきた。


「まあとにかく、初心者におすすめなのはこの二種類かなぁ。ヘッドホンが欠かせないならさっきのヘッドホンアンプで、少しぐらいは音を鳴らせるっていうんならこっちのミニアンプだねぇ。値段はどっちも、新品で五千円前後。残念ながら、当店に中古の在庫はございませぇん」


「そうですか……本当なら、そのミニアンプというやつにしたいところですけど……このていどの音量でも、家で弾いたら外にまで響いちゃいますか?」


「うーん。それは住宅事情によるかなぁ。ベースの低音は響くけど、これぐらいボリュームを抑えておけば、それほど近所迷惑にはならないと思うよぉ。防音設備のないマンションやアパートとかだと、ちょっとばっかり厳しいだろうけどねぇ」


「……一戸建てで、すぐ隣に家がある場合はどうでしょう?」


「んー。迷惑にならないていどには聴こえちゃうって感じかなぁ。そんな夜遅くとかじゃなければ、文句は言われないんじゃなぁい?」


 たとえ文句を言われなくとも、祖父母にベースの音を聴かれるというのは絶対に避けたいところである。であれば、選択肢は限られるようであった。


「それじゃあやっぱり、ヘッドホンアンプのほうになっちゃうんですけど……でも……ヘッドホンだと、耳にしか響かないですよね」


「そりゃまあ当然のことだねぇ。やっぱりベースの低音を、肌で感じたいのかなぁ?」


「はい。わたしはそのために、アンプが欲しいと思ったので。……わかりました。今回はあきらめます。ご丁寧な説明、ありがとうございました」


 めぐるが頭を下げると、浅川亜季はミニアンプに座ったままきょとんとした。


「なんか、ものすごく残念そうなお顔だねぇ。それでも妥協はできないのかなぁ?」


「はい。経済的にも、余裕がありませんので……妥協してまでヘッドホンアンプを買おうという気持ちにはなれないみたいです」


「そっかぁ。そりゃあしかたのないことだけど、めぐるっちのそんなお顔を見せられると、こっちまで胸が痛んじゃうなぁ」


 そんな風に言ってから、浅川亜季は「そうだぁ」と手を打った。


「だったら、軽音部にでも入っちゃったらぁ? そうしたら、きっとアンプも使い放題だよぉ」


「け、けいおんぶ?」


「うん。ついこの間、社会人バンドのお人らと対バンする機会があったんだけどさぁ。それがたまたま、めぐるっちたちの通ってる学校のOBさんだったんだよぉ。で、その人らが、高校時代は軽音部で活動してたって言ってたんだよねぇ」


「よ、よくわからないんですけど……学校の部活動で、バンド活動をしてたってことですか?」


「うん。文化祭だとか卒業ライブだとか、いろいろ盛り上がってたらしいよぉ。軽音部だったら初心者も優しく迎え入れてくれるだろうし、めぐるっちにはうってつけなんじゃないかなぁ?」


 思わぬ言葉を聞かされためぐるは、たちまち思考停止してしまった。

 和緒は溜息をつきながら、そんなめぐるの頭を小突いてくる。


「おーい、戻ってきなさいな。浅川さんは何も強制できるような立場じゃないんだから、あんたがフリーズする必要はないって」


「あれぇ? あたし何か、地雷でも踏んじゃったぁ?」


「この子は学校でお地蔵だから、そんな場所でバンド活動なんて想像力がおっつかないんでしょう。今のところ、この子にとってのベースってのは、ひとり遊びの道具なんでしょうしね」


「ひとり遊びかぁ。それはちょっと、不健全かなぁ」


 浅川亜季はようやくミニアンプの電源を切り、ベースからシールドを引き抜いた。


「いや、不健全は不健全で、大いにけっこうなんだけどさぁ。不健全の方向性が、いまひとつ腑に落ちないというか……あのさぁ、めぐるっちは何でベースを弾いてるのぉ?」


「それは……ベースを弾くのが、楽しいからです」


 ようよう言語機能を回復させためぐるがそのように答えると、浅川亜季は壁にベースを吊るしながら「そっかぁ」と笑った。


「じゃ、おせっかいな年寄りからのアドバイスねぇ。バンドを組んだら、もっとベースが楽しくなるはずだよぉ」


「で、でも……わたしなんて、初心者ですし……それ以前に、バンドを組めるような人間ではありませんから……」


「バンドを組む気もないのに、ベースを買ったのぉ? それじゃあ、動画配信者でも目指してるのかなぁ?」


「ど、どうがはいしんしゃ?」


「うん。CDの音源とかリズムマシーンに合わせて、自分のプレイを動画で配信する人らのことだよぉ。今時は、そういう動画配信が目的でベースの練習をする人間も山ほどいるみたいだからねぇ。めぐるっちは、そういう方向性で頑張るつもりなのかなぁ?」


「い、いえいえ。自分が動画を配信するなんて、想像するだけで息が止まりそうです。それに……そもそもわたしの家には、動画を観る設備すらありませんし……」


「なるほどぉ。だったらあたしも、本腰を入れておせっかいを焼かせていただこうかなぁ」


 いよいよ楽しげに口の端を上げながら、浅川亜季はそのように言いつのった。


「あのねぇ、本来ベースってのはバンドありきの楽器なんだよぉ。ギターやピアノだったら個人プレイでも弾き語りでも思うぞんぶん楽しめるけど、ベースってのはバンドのアンサンブルを楽しむ楽器なわけだからさぁ。ドラムと一緒にリズムを支えて、ギターと一緒に彩りまで加えられる、すっごく贅沢なポジションなんだよねぇ」


「はあ……」


「それにこれは私見だけど、音楽のプロデューサーにはベーシストあがりが多いように思うんだよねぇ。それはきっとベーシストってのが、バンドのバランサーだからなんじゃないのかなぁ。ベースの低音って楽曲の中で埋もれがちだから、みんな音作りにも苦労させられるしねぇ。それでバンド全体のサウンドを把握しようって意識が高いから、プロデューサーとしての資質ってもんも育まれていくんだと思うわけだよぉ。……つまりそれだけベースってのは重要で、やりがいのあるパートってことさぁ」


 カウンターの向こう側に腰を落ち着けた浅川亜季は、最後にとびきりやわらかい笑顔を覗かせた。


「まあ、そんな講釈を垂れる以前に、あたしはめぐるっちにバンド活動を楽しんでほしいし、そのバンドを見てみたいと思うよぉ。だからまあ、胃潰瘍にならないていどに考えてみたらどうかなぁ? 軽音部に入部したらベーアンを使い放題っていう特典もお忘れなくねぇ」

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