09 復調

 めぐるが熱を出して倒れたのはおそらくゴールデンウィークの最終日であり、復調したのは四日後の日曜日のことであった。

 実際に倒れた日付は曖昧であったが、ともあれ和緒が様子を見に来たのはゴールデンウィーク最終日の夕暮れ時であり、その翌日から丸三日間寝込むことで、めぐるはようやく健康な肉体を取り戻すことがかなったのだった。


「ってことは、一心不乱に練習してたのと同じぐらいの期間、寝込むことになったわけだよね。そんなに要領の悪い話はないし、苦しい思いをするだけ損でしょ」


 日曜日の朝からめぐるの離れを訪れた和緒は、クールな面持ちでそのように言いたてた。

 布団の上に正座をしためぐるは小さな体をいっそう小さくしながら、「うん」と頭を下げてみせる。


「かずちゃんにも、とんでもなく迷惑をかけちゃったよね。明日からは、中間試験なのに……」


「ふむふむ。試験の時期じゃなかったら、迷惑じゃなかったとでも?」


「ち、違うよ。本当に、心から申し訳なく思ってます。どうもごめんなさい。それに、感謝もしてるから……どうもありがとう」


 めぐるは精一杯の真情を込めてそのように伝えてみせたが、もちろん和緒は眉ひとつ動かさずに肩をすくめている。和緒はこういう際に、決して感情をこぼすような人間ではないのだ。


「それで、あの……かずちゃんは嫌がるだろうけど、薬とか食事とかのお金を払わせてくれない?」


「やだよ。それを受け取ったら、あんたの負い目がなくなっちゃうじゃん」


「そ、そんなことないよ。かずちゃんは毎日、食事を作りに来てくれたんだから……」


「そこに経費まで上乗せされるから、あんたの負い目も跳ね上がるんでしょ。こりゃもう一生、あたしに頭が上がらないね」


 和緒は取りすました顔でそんな風に言ってから、目だけで微笑んだ。


「でも、マイフレンドが下僕に成り下がるのは面白くないから、どこかで帳尻を合わせようか。今度どこかに遊びに行ったら、あんたが全額負担してよ。それで貸し借りなしってことにしてあげよう」


「うん、わかった。ステーキでもお寿司でも、何でも好きに食べてね」


 めぐるはとにかく和緒の気持ちを尊重したかったので、そのように答えるしかなかった。


「それで、あの……もう完全に熱は下がったし、どこも痛くなくなったから……今日からベースを弾いてもいいかなぁ?」


「ふうん? もしかして、今まで本当にベースを弾いてなかったの? 昨日ぐらいには、もうほとんど熱もひいてたよね?」


「うん。それでまた体調を崩したら、かずちゃんに顔向けできないから……ベースには、指一本さわらなかったよ」


「本当かなぁ。口では何とでも言えるよね」


「ほ、本当だってば! 証拠だってあるもん!」


 めぐるは膝の上に置いていた手の平を、和緒のほうに差し出してみせた。

 和緒は「へえ」と切れ長の目を見開く。


「右手も左手も、すっかり血豆が治ったみたいだね」


「うん。毎日少しずつ傷口がふさがってね。今日の朝、完全に治ったの」


 真っ赤な組織が剥き出しになっていた左手の指先にも、新しい皮膚が再生している。そしてその皮膚はごわごわと固い感触になっており、内側の肉が痛むこともなくなっていたのだった。


「やっぱりこれはベースの練習を休んだだけじゃなく、かずちゃんが栄養のあるものを食べさせてくれたからなんだろうね。本当に、今さらの話なんだけど……今後は食生活にも気をつけようと思うよ」


「それと、睡眠もね。健康に必要なのは、栄養と睡眠なんだから。あとは、適度な運動かな」


 その返答にめぐるが目を泳がせると、和緒はすぐさま頭を小突いてきた。


「まあ、まずは一歩ずつね。とにかく、相棒に挨拶をしてあげたら?」


「う、うん」と、めぐるは布団の脇に置いておいたベースのケースを取り上げた。

 ジッパーを開くと、ペパーミントグリーンの曲線美があらわになる。その姿を目にするのも、その身に触れるのも、きっかり三日ぶりである。ベースに対する熱情を封印するために、めぐるはケースを開くことさえ禁じていたのだった。


「それじゃあ寝てる間は、『SanZenon』ざんまいだったのかな?」


「ううん。あれを聴くと、どうしてもベースを弾きたくなっちゃうから……それも禁止にしてしてたの」


「へえ。つくづくオール・オア・ナッシングの精神だねぇ。じゃ、そんなあんたにご褒美をあげようか」


 和緒はスマホを操作してから、それをこたつのテーブルに置いた。

 スマホの小さな画面には、猫動画のサムネイルがずらりと並んでいる。それを目で追っためぐるは、「あっ」とベースを抱きすくめることになった。


 可愛らしい猫の姿にはさまれて、真っ黒なサムネイルが表示されている。よくよく目を凝らすと、それは暗がりの中でベースを構えている女性のシルエットであったのだった。


「か、かずちゃん、これって……」


「うん。山ほど存在する猫動画チャンネルの中から、ようやく発見できたよ。『ちぃ坊の猫屋敷』だってさ。……あんたはよくもまあ、こんなもんを偶然見つけられたもんだね」


 和緒が画面をタップすると、人々のざわめきが流され始めた。

 そして、暗い画面は真っ赤な照明で、人々のざわめきはベースの轟音で、それぞて木っ端微塵に打ち砕かれる。さらに、ギターとドラムが鮮烈な音色でベースの重低音を彩った。


 めぐるがあの日にネットカフェで目にした、ライブ映像である。

『SanZenon』の、『線路の脇の小さな花』だ。

 言葉を失うめぐるの眼前で、金髪の女性ベーシストはマイクに噛みつくような勢いで歌い始めた。


 スマホの小さなスピーカーでは、彼女たちの演奏もいっそう不明瞭にひび割れてしまう。

 しかし、その迫力が減じることはなかった。咆哮めいた歌声も、浮遊感のあるギターの音色も、荒々しく力強いドラムの音色も、稲妻のごときベースの音色も――何もかもが、あの日と同じ圧力でめぐるの心臓を締めつけてきた。


 わずか四分で、その夢のような時間は終わってしまう。

 それでもめぐるが動けずにいると、和緒が頭を小突いてきた。


「今日は泣く代わりにフリーズしちゃったね。ご感想は、いかがでしたか?」


「う、うん。やっぱりすごいね。CDの音源も、すごくかっこよかったけど……やっぱりわたしはこの映像を観たからこそ、我を失っちゃったんだと思うよ」


 めぐるはいっそう強い力でベースを抱きすくめながら、そんな風に答えてみせた。

 和緒は「ふーん」とショートヘアーの前髪をかきあげる。


「確かにまあ、音のバランスはわやくちゃだったけど、尋常じゃない迫力だったね。それに、音源以上にベースの音が際立ってたかな。……よくもまあ、あんなフレーズを弾きながら歌えるもんだよ」


「うん。わたしはベースだけでも真似したいんだけど……あんな風に弾きこなすのは、十年かけても無理だろうね」


「それは、練習しだいでしょ。この人だって、二十歳そこそこにしか見えないからさ」


 そう言って、和緒はこたつに頬杖をついた。


「じゃ、お好きに練習しなさいな。見飽きるまでは、黙って見物させていただくからさ」


「う、うん。それじゃあ、チューニングをしちゃうね」


 めぐるはかすかに震える手でチューナーとシールドを引っ張り出し、数日ぶりのチューニングに勤しんだ。


「あの、かずちゃん……よかったら、もう一回映像を流してくれる?」


「うん? あの曲を聴きたいなら、プレーヤーのほうで聴いたら?」


「うん。でも、あっちはイヤホンでしか聴けないから」


 和緒は小首を傾げつつ、ライブ動画を再生してくれた。

 そちらで爆音が鳴らされてから、めぐるは一小節遅れで追いかける。この複雑なフレーズを真似ることはできないので、E音のルート弾きである。なおかつ、十六分音符で追うことも難しかったため、半分の音数に落としてのことであった。


 せめてもの慰めとして、合間にGとBの音もさしはさむ。彼女はさまざまな音符でこのイントロを彩っていたが、基調となっているのはその三つの音であった。

 そしてAメロに入る直前では、3弦14フレットの高いB音にスライドしつつ、ビブラートで音を震わせる。そのいくぶん不安定な音のゆらめきこそが、これほどの昂揚をかきたてるのではないかと思われた。


 その後も、めぐるは懸命に彼女の演奏を追いかけた。

 極限まで簡略化した拙いフレーズであるが、コードの要となるルート音だけは合っているはずだ。あとは、リズムがずれないことに集中した。


 そうして演奏に没頭しながら、めぐるは頭の片隅で喜びを噛みしめる。

 指が、まったく痛まないのだ。

 弦を押さえる四本の指も、弦を弾く二本の指も、ただ硬くて冷たい弦の感触だけを知覚している。絆創膏や軍手に頼らないまま、めぐるは好きにベースを奏でることができた。


 その恩恵であるのか、丸三日以上ぶりの演奏であるはずなのに、調子は悪くない。指や手の筋が引きつることもなく、おおよそは心地好い音を鳴らすことができた。

 太くて重い芯に、金属的なきらめきがからみついた、めぐるがもっとも好ましく思う音色だ。

 こちらの弦も購入してから二週間以上は経過しているので、だいぶん高域のきらめきは薄らいでいたものの、本来的に落ち着いた音色を好むめぐるには不満の持ちようもなかった。


 Bメロではゆったりとしたフレーズになるので、そこでしばし指を休めることができる。

 そうしてサビに入ったならば、めぐるはスラップに切り替えた。

 これもまた、音数を半分ていどに減らした簡略版である。

 八分音符で、ルート弾きと同じリズムで、ただタイミングの合う場所にプリングを差し込んでいるだけのことであった。


 こんな弾き方は拙い限りであるし、何の魅力もないに違いない。

 しかしそれでも、『SanZenon』の素晴らしい演奏に合わせて弦を叩き、引っ張るだけで、めぐるは幸福な心地であったのだった。


 何より重要であるのは、やはりリズムである。

 きちんとリズムさえ合っていれば、たとえ半分ていどの音数であろうとも、『SanZenon』の彼女と同じタイミングで音を鳴らすことができるのだ。これこそ、メトロノームに合わせた練習では決して味わえない悦楽であった。


 間奏ではスラップを継続し、その後の変形したBメロ――あるいは、Cメロと呼ぶべきなのか。ともあれ、そこの部分はしばらくベースも消えるので、指を休ませる。そして最後のサビとアウトロも、休むことなくスラップで追いかけることができた。


『SanZenon』の演奏は終了し、めぐるも満足の吐息をつく。

 指を確認してみると、真新しい皮がさっそく白くささくれていた。

 しかし、痛みは感じられない。痛みに似た感触が残されているのは、スラップで酷使した親指の側面ぐらいであった。こちらは指板ごと弦を叩くので、皮膚ではなく骨のほうが疼くのだ。しかしそれも、これまでの痛みに比べればささやかなものであった。


「ありがとう、かずちゃん。下手は下手なりに、調子は落ちてないみたい」


「いやいや、ちょっと待ってよ。あんた、誰かが憑依してるんじゃない?」


 和緒は眉をひそめつつ、めぐるの背中を覗き込んできた。


「それとも、これは着ぐるみとか? 背中のジッパーを開いたら、別の誰かが出てくるんじゃない? 返してよ、あたしのぶきっちょで傲慢で恩知らずのマイフレンドを返してよ」


「そんな、大げさだよ。でも、かずちゃんの前で弾くのはひさしぶりだから、ちょっぴり上達できたのかな?」


「……あんたがベースを買ってから、今日でちょうど四週間だったっけ? あたしがあんたの演奏を聴くのは、その翌日以来のはずだけど……それにしても、異常でしょ。そもそもあんたがこの曲を練習してたなんて、あたしは聞いてないんだけど?」


「うん。だって、音源を手に入れたのは五連休の前日だったからね。それに、聞いての通り、限界いっぱいまでフレーズを簡単にしてるから……」


「それでもまさか、キャリア四週間の初心者が耳コピまでするとはね」


「みみこぴ?」


「耳で音を拾って、曲をコピーすることだよ。それなりの音感を持ってないと、そんな真似はできないはずだけど……ま、あんたの場合は執念でくらいついたのかな」


 そんな風に言いながら、和緒は小さく息をついた。


「ねえ。あんたはベースを買った日に、午前三時まで練習してたとか言ってたよね。それは過労でぶっ倒れるまで、毎日続けられてたわけ?」


「うーん、どうだろう……いっつも寝落ちしちゃうから、よくわかんないや」


「あっそう。それじゃあ仮に、それを毎日継続してたとすると……学校から戻るのは、だいたい午後の四時半ぐらいだよね。食事やシャワーに三十分使うとしても、午前三時まで弾き込めば、一日十時間になるわけだよ。普通の人間が二、三時間で練習を切り上げるとしたら、あんたは人の三倍から五倍ぐらいのペースで成長できるのかもね」


 和緒はめぐるの顔をじっと見つめてから、あらためてこたつのテーブルに頬杖をついた。


「ま、いいや。とにかく今日は、あんたがどれだけ上達したかをじっくり確認してから帰ることにするよ。あたしはいないものと思って、好きに練習しなさいな」


「うん、わかった。……それじゃあそれが一段落したら、一緒にお昼を食べに行かない? 例の全額負担とは別口で、わたしがお金を出すからさ」


「へえ? あんたから外食に誘ってくるなんて、珍しいじゃん」


「うん。お礼をしたいっていうのもあるし、それに……もっとかずちゃんとおしゃべりしたいからさ」


「そりゃまた珍しいこと尽くしだね」


 和緒はうっすらと苦笑しながら、めぐるの頭を小突いてきた。

 そうして健康を取り戻しためぐるは、ようやく和緒との平和な日常をも取り戻せたような気分であった。

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