08 悪夢
いったいどれだけの時間が過ぎたのか――めぐるは手ひどい悪寒に耐えかねて、目覚めることになった。
目覚めるなり、視界にペパーミントグリーンの美しきボディラインが映される。それはとても幸福な心地であったが、悪寒のほうは幸福どころの騒ぎではなかった。
(まずいな、これ……本格的に、熱が出ちゃったんだ)
こたつは電源を入れていなかったので、これでは暖が足りていないようだ。ただ、ここでこたつの電源を入れるのは、あまりに危険であるように思えた。
(怖いのは、脱水症状だから……とにかく、水分は取っておかないと……)
めぐるは全身にのしかかってくる虚脱感に耐えながら、こたつの外に這いずり出た。
そしてまず、ベースをケースに仕舞い込む。さすがに使用後のクリーニングをするほどの力はひねり出せなかったが、大事なベースを剥き出しで放置する気にはなれなかったのだ。
(布団を敷くのも、無理っぽいなぁ……いいや、とにかく水分を……)
めぐるは四つん這いになって、キッチンへと前進する。それでも気をぬくと倒れてしまいそうなぐらい、頭が熱で浮かされていた。これは本当に、一年半ぶりの窮地であるようだ。
キッチンには、小ぶりの冷蔵庫が設置されている。実家の調度はすべて処分されてしまったので、これは離れの備えつけだ。そうしてめぐるはぜいぜいと息をつきながら、冷蔵庫を開いてみたが――そこには、生米の袋が保存されているばかりであった。
(そっか……卵も納豆も食べつくしちゃったし、スポドリも麦茶も新しいのを作ってなかったっけ……)
それならば、水道水を摂取するしかない。
めぐるはシンク台をよじのぼるようにして身を起こし、水道水をグラスで二杯飲み干した。
そうして床にへたりこみ、ぼやけた頭で思案する。現在このキッチンに残されている食材は、生米および麦茶のパックとスポーツドリンクの粉末のみであった。
米を炊く気力などは微塵もなかったため、めぐるはスポーツドリンクの粉末をあさることにした。ドラッグストアで叩き売りされていた名も知れぬメーカーの品であったが、塩分や糖分ぐらいは含まれていることだろう。それをさきほどのグラスにぶちこみ、水道水を注ぎ、かきまぜる手間もはぶいて飲み干した。
(よし……あとは、寝て治す)
めぐるは一昨年のインフルエンザも、こうして力ずくで乗り越えたのだ。時節が冬でない分、まだ条件はいいはずだった。
しかしやっぱり、布団を敷く力は残されていない。めぐるは大切なMP3プレーヤーとイヤホンをベースのかたわらに移動させてから、こたつのテーブルを向こう側に押しやって、こたつ布団を引き剥がした。
そうして今度はこたつ布団にくるまって、身を横たえる。ベースがすぐ隣で横たわっているのが、せめてもの慰めであった。
(今日って何日なんだろう……たぶん、四日目か五日目ぐらいだよね……もし学校を休む羽目になったら、こっちから連絡を入れないと……)
こちらの離れにも、電話の子機というものは存在する。しかし、もしもめぐるが連絡を入れずに休んでしまったら、学校のほうから連絡が来てしまうかもしれない。それを祖父母が親機で出てしまったら、あれこれ面倒な事態になってしまうはずであった。
(でも高校は義務教育じゃないし、休んだぐらいで学校のほうから連絡をしたりはしないのかな……? まあいいや……あとは、起きてから考えよう……)
めぐるは芋虫のように丸くなり、最後にベースの姿を目に焼きつけてから、再び泥のような眠りに落ちた。
だが――そうして眠りに落ちてなお、めぐるの心が休まることはなかった。めぐるの意識は赤黒いどろどろとした色彩の中に突き落とされて、さまざまな悪夢に苛まれることになったのだった。
熱で寝込んだめぐるを置き去りにして、家族旅行に出かけようとする両親と弟の姿――汚いものでも見るような目つきで、罵言をあびせかけてくる祖父――いっさい口をきこうとせず、めぐるのほうを見ようともしない祖母の横顔――憐れみと蔑みの入り混じった顔をした、中学時代のクラスメートたち――ゴミ箱に捨てられていた、教科書と上履き――面倒くさそうな顔をした、担任教師――そんな光景がちかちかとフラッシュバックする中、脈絡のない言葉が次々と響きわたった。
(きちんと弟の面倒を見なさい。それがあなたの役目でしょ)
(母さんを怒らせるなよ。お前は本当に要領が悪いな)
(僕が先に生まれてたら、お姉ちゃんはいらなかったのにね)
(何だ、その目は。クズの子供はやっぱりクズだな)
(遠藤さんって、なんか感じ悪いよね)
(自分のこと、悲劇のヒロインだとでも思ってるんじゃない?)
(ふざけんなよ。せっかく仲良くしてやろうと思ったのによ)
(大変なのは、お前だけじゃないんだ。クラスの輪を乱すんじゃない)
そんな言葉を聞かされても、めぐるは(うるさいな)と思うだけだった。
誰の言葉も、めぐるの心には届かない。今にして思えば、それは家族が存命であった頃からそうであったのかもしれなかった。
両親と弟を失って、自分は悲しいと思ったのか。それもまったく、定かではない。めぐるは高熱にうなされながら訃報を聞かされ、祖父に罵倒され、そしてこの離れに押し込められることになったのだ。自分がぼんやりとしている間にすべてが過ぎ去ってしまったため、めぐるには自分の気持ちを見定める猶予も存在しなかったのだった。
それからめぐるは、起伏のない人生を歩んでいる。
そんな中――二年前に、和緒と巡りあったのだ。
(何それ? ずいぶん貧相な弁当だね。成長期の真っ只中に、それじゃあ栄養が足りないんじゃない?)
初めて出会ったときの和緒は、他のクラスメートと大差のない存在であった。そのクールな物腰には、むしろ威圧感を覚えるほどであったのだ。
ただし和緒は、誰に対しても同じような態度だった。めぐると違って誰からも好かれているようであったのに、不愛想で、無遠慮で、気に入らないことがあるとぷいっと立ち去ってしまうような人間であった。
そして――何故かしら、めぐるにやたらとかまってきたのだった。
(あんた、両親がいないんだって? それはそれで、面倒が少ないのかもね)
(へえ、成績は優秀なんだね。他に何かやることはないわけ?)
(だから、白米にふりかけって弁当はどうなのよ。肉を食え肉を)
めぐるは面倒だったので、いつも適当に言葉を返していた。
こんな無遠慮な人間を相手に取りつくろう必要は感じなかったので、いつも頭に浮かんだ言葉をそのまま投げ返していたのだ。
図らずも、それは本音で語っているのと同義であった。
そして和緒は、いつでも簡単にめぐるの本音を受け止めて、時には軽妙に、時には乱暴に、容赦も遠慮もなく言葉を返してきて――それでいつしか、今のような関係性が構築されたのだった。
「どうしてかずちゃんは、わたしなんかにかまってくれるの?」
めぐるがそんな疑問を口にしたのは、おそらく去年の春ごろであった。
その返答は、「楽だから」である。
そのひと言で、めぐるも一気に気持ちが楽になった。自分の存在が和緒の負担になっていないということが、めぐるにはありがたくてたまらなかったのだ。
(でもあなたは、彼女に甘えてるだけなんじゃない?)
と――聞き覚えのない声が、悪夢の中で反響した。
(彼女はすごく頭がいいから、あなたが楽になれるような返事を準備してくれたんじゃないかなぁ?)
(あなたは薄々それに気づきながら、彼女の厚意に甘えてきた)
(彼女のお説教も話半分で聞き流して、嫌なことから逃げ続けてきたんでしょう?)
そのように語っているのは、いったい何者であったのか。それは母親のようでもあり、名も知れぬクラスメートのようでもあり、浅川亜季のようでもあり――あるいは、金髪の女性ベーシストのようでもあった。
(今回も、けっきょく同じことの繰り返しだよね)
(彼女はあなたが無茶をするんじゃないかって、あんなに心配してたのにさ)
(それでも彼女があなたを見捨てることはないって、あなたはそんな風に考えているんだよね)
(でも、本当にそうなのかなぁ?)
(まあ、あなたは他の逃げ場所を確保できたから、もう彼女を失っても痛くも痒くもないんだろうね)
「そんなことないよ」と、めぐるは言い返した。
すると――「何が?」という冷ややかな声が返ってきた。
「おっと、寝言に反応しちゃったよ。レム睡眠のお邪魔をしちゃったかな?」
めぐるは重いまぶたを開いて、声のあがった方向に視線を巡らせた。
開け放しであったガラス戸の向こう側に、キッチンに立った和緒の背中が見える。めぐるとしては、まだ夢の続きを見ているような心地であった。
「もうすぐ完成だから、そのまま待ってな。ったく、世話の焼けるマイフレンドだよ」
めぐるに背中を向けたまま、和緒はそのように言い捨てた。
そしてめぐるは、我が身を顧みる。こたつ布団にくるまっていたはずのめぐるは、きちんと布団の上に寝かされており、額に冷却シートを貼られていた。
「かずちゃん……なんで……?」
「さあ、なんでだろうね。魔がさしたとしか言いようはないかな」
そんな風に応じながら、和緒がこちらに向きなおってきた。その手には、深皿をのせたお盆が携えられている。
「あたしもついさっき、忌々しい里帰りを終えたところなんだけどさ。あんたが餓死でもしてないかと思って覗いてみたら、案の定だったわけよ。まあ、あんたの行動パターンが単純だって証拠かな」
和緒はいつも通りの颯爽とした足取りでこちらにやってきて、こたつのテーブルにお盆を置いた。テーブルもこたつ布団も、きっちり定位置に戻されていたのだ。
めぐるのかたわらに膝を折った和緒は、額ではなく首筋に手をあててくる。そのひんやりとした手の平の感触が、冷却シートよりも心地好かった。
「まだけっこう熱いね。薬を飲む前に、少しでも食べておきな」
和緒の手が首筋から背中に移動して、めぐるの上半身を力強く起こしてくれた。
お盆の上の深皿からは、白い湯気があがっている。それはどうやら、卵のおじやであるようだった。
めぐるの部屋には、卵も薬も冷却シートも存在しない。だからそれらは、すべて和緒が持ち込んだものであるはずだった。
「何を呆けてんのさ? まさか、あたしに食べさせろってんじゃないだろうね?」
「う、ううん……でも……」
「でもじゃないでしょ。今日のあんたに、拒否権はないよ」
和緒はめぐるの頭に手を置いて、髪をわしゃわしゃとかき回してきた。
「どうせあんたはあのCDのせいで、暴走したんでしょ? これであんたがくたばったら、あたしにも責任の20パーセントぐらいが降りかかってきそうじゃん。もう30パーセントはあのお姉さまがたで、半分は自業自得だけどさ」
「うん……ごめんなさい……」
「謝るひまがあったら、さっさと食べなって。過労でぶっ倒れたんなら、栄養と睡眠を取るしかないんだからさ」
そんな風に言いながら、和緒は皮肉っぽく口の端を上げた。
「だけどまあ、あんたがどれだけピンチでも、ベースに手足が生えて面倒を見てくれることはないだろうからね。これはひさびさに、1ポイント先取かな?」
めぐるは熱に浮かされながら、「あはは」と笑うことになった。
そして止めようもなく、熱いものが頬を濡らしていく。わずか数日の間に三度も涙を流すというのは、めぐるの人生においても初めてのことであったのだった。
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