07 没入
『SanZenon』との再会で、めぐるの生活は再び一変した。
これまではひたすらベースの練習に打ち込む日々であったのだが、そこに『SanZenon』の音源を聴く時間というものが差し込まれることになったのだ。
ベースを弾いていると、『SanZenon』の音源を聴きたくなる。『SanZenon』の音源を聴いていると、ベースを弾きたくなる。その繰り返しである。めぐるは何かとんでもない中毒でも患ってしまったような、少し怖いぐらいの心地であった。
(そういえばかずちゃんも事あるごとに、怖い感じがするとか言ってたっけ。冗談めかした口調だったけど、あれは本音だったのかな)
しかしめぐるは、その永久運動から脱しようという気持ちにはなれなかった。どれだけ不毛な行いであろうとも、めぐるは楽しくてたまらなかったのだ。また、ベースの練習よりも有意義な行いなど、めぐるの生活には一片たりとも存在しなかったのだった。
あえて言うなら、学業であるが――めぐるは目当ての高校に入学した時点で、すでに目標に達してしまっていた。めぐるは経済的な事情で大学に進学することが難しかったため、とにかく近場でもっとも優秀な公立高校に入学し、その後の就職を有利に進めたかっただけであったのだ。あとは留年などをせずにほどほどの成績で卒業できれば、他に望むものもなかった。
そして折しも、世間はゴールデンウィークである。
『SanZenon』の音源を入手した翌日から五連休を迎えためぐるは、何をはばかることなくベースの練習に打ち込むことができた。その翌週には高校に入学して初めての中間試験というものも待ち受けているわけであるが、それもまためぐるの心を制御する材料にはなり得なかった。
本当にもう、寝るのも食べるのもシャワーを浴びるのも、時間がもったいないほどである。なおかつ、食事やシャワーの最中に音源を聴くというのも、めぐるにとっては我慢がならなかった。『SanZenon』の音源というのは、そんな片手間で耳にするべきではない――と、そんな思いにとらわれてしまうのだ。であれば、いかなる雑事も可能な限り手早く済ませて、すぐさま『SanZenon』の演奏かベースの音色にひたるしかなかった。
めぐるがこうまで切迫した思いを抱え込むことになったのは、やはり自分の不甲斐なさを心底から思い知らされたという面もあるのだろう。いまだベースを購入してから三週間ていどのめぐるがこのような思いを抱くのは、不遜の極みであるのだろうが――めぐるは『SanZenon』と自分の差というものを痛感させられてしまったのだった。
これが本当に同じ楽器であるのかと疑いたくなってしまうほど、『SanZenon』では素晴らしいベースの音が鳴らされている。それに比べたら、めぐるの紡ぐ音などはナメクジのいびきみたいなものであった。
もちろん、音そのものが異なるのは、どうしようもない話である。『SanZenon』のベースというのは、おそらくアンプばかりでなくエフェクターというものも繋げられているのだ。
教則本には、エフェクターについても多少ばかり解説されていた。見開き2ページに、エフェクターの基本的な概要が記載されていたのである。
エフェクターとは、ベース本体とアンプの間に接続して、音色に効果をかける機材のことであった。ギターのように音を派手にする歪み系、音を綺麗に響かせる空間系、音の強弱を制御するダイナミクス系――教則本のちょっとした解説だけではまったく全容もつかめなかったが、とにかくベースの音色を大幅に飾りたてるには、それらのエフェクターというものが必須であるようであった。
おそらく『SanZenon』のベーシストは、エフェクターを多用するプレイヤーであるのだろう。めぐるを最初に魅了した一曲目の『線路の脇の小さな花』では明らかに歪み系のエフェクターを使っているようであったし、それ以外の曲目でもベースはギターに負けないぐらいさまざまな音色を使い分けていたのだった。
ただし、めぐるが衝撃を受けたのは、そういった音そのものについてのことではない。もちろんアンプやエフェクターの効果もあって、『SanZenon』のベースはあれほどの迫力であるのだろうが――それと同じかそれ以上に、フレーズの構成や指づかいなどが重要であるように思えてならないのだ。
『SanZenon』のベーシストは、楽曲の中でさまざまなテクニックを駆使している。もっとも顕著であるのは、スラップとスライドとチョーキングだ。暴風雨のごときスラップはもちろん、弦を押さえたまま横にすべらせるスライドも、押さえた弦を上下に引っ張って音程を高くするチョーキングも、演奏にまたとないうねりを与えていたのだった。
それに――もしかしたら、そういったテクニックさえもが、本質ではないのかもしれない。
エフェクターもテクニックも、おそらくは「手段」に過ぎないのだ。彼女はエフェクターやテクニックを駆使することによって、体内に渦巻く何かを世界にぶちまけているのだった。
彼女にとっては、歌うこともベースを弾くことも、同じものであるのかもしれない。彼女は悲痛な歌詞を叫ぶように、ベースを弾いていた。それはどちらもまさり劣りのない、感情の爆発であった。めぐるの心を圧迫するのは、彼女の感情そのものなのかもしれなかった。
あるいはこれこそが、和緒がかつて語っていたグルーブやフィーリングといったものに通じているのだろうか。
彼女のベースサウンドは、歌声と同じぐらい生々しい。このようなものは、決して機械では再現できないように思える。ベースやエフェクターやアンプだってまぎれもなく電子機器であるはずなのに、その音色は熱く煮えたぎった血肉で構成されているように思えるほどであった。
ただ――そんな話も、後付けの理屈に過ぎなかった。
めぐるは『SanZenon』の音楽に、深く魅了されている。その得体の知れない激情を言葉で説明するには、そういった理屈をこねくり回すしかなかったのだ。
だからめぐるは、おおよそ無心で『SanZenon』の音源を聴き、そしてベースの練習に励んだ。
それは何故かと問われたならば、ただ楽しいからであるとしか答えようがない。あれこれ理屈をこねるのは、その楽しさを無理やり言語化しているに過ぎなかった。
そうしてめぐるは、取り憑かれたようにベースを弾きたおしていたが――『SanZenon』の音源を入手した日の夜から、新たな境地に踏み入っていた。教則本の練習フレーズを弾くばかりでなく、『SanZenon』のベースのフレーズをなぞり始めたのだ。
むろん、めぐるごときの力量で彼女の真似をすることはかなわない。ただ、彼女の奏でる音を探して、それを懸命に追いかけることで、めぐるはさらなる悦楽を覚えることがかなったのだった。
『SanZenon』はテンポの速い楽曲がメインであったし、彼女のベースサウンドはエフェクターで加工されているので、正確な音を拾うことも難しい。しかしその難しさこそが、めぐるを夢中にさせた。一曲目のイントロとAメロはE音を基調にしているようだとか、ここで音がうねるのはチョーキングの効果のようであるだとか、スラップでは時おり二本の弦を同時にプリングしているようであるだとか――そんな発見をするたびに、めぐるは昂揚した。
そしてめぐるは、リペアショップの店主の言葉をようやく正しく理解できたような気がした。
軍手や絆創膏の存在が、煩わしくてたまらないように思えてきたのである。
とりわけ強く感じたのは、右手のほうだ。弦を弾く右手の指先を軍手や絆創膏で保護していると、弦の存在をうまく知覚できない。弦の硬さや強いテンションを生身で味わわない限り、自分の出したい音を目指すことなどとうていかなわないように思えた。
幸いなことに、右手の血豆はだいぶん収まってきている。スラップで使用する親指の側面と人差し指の先端は常に赤くなっていたが、もはや皮が破れることはなく、むしろ内側の肉がじくじくと痛んでいるような感覚であった。
しかし、痛いだけなら我慢することができる。さすがに皮膚が破けてしまったら何らかの処置を施すしかないが、皮膚の内側で肉が疼く分にはいくらでもこらえることができた。
(理想を言えば、左手の軍手も外したいけど……こっちは血豆が潰れた状態で、治る気配もないもんなぁ)
左手の指先は四本とも、完全に皮膚が破けてしまっている。それを保護するために絆創膏を巻き、絆創膏が破れないように軍手をはめているのだ。ただその軍手も寿命はせいぜい一日で、すぐに生地が擦り切れてしまうのだった。
軍手を外すと、おおよそ絆創膏の内側は血に染まってしまっている。皮膚が破けたまま延々とベースを弾いているのだから、それが当然の話だ。ただ、一日や二日休んだていどで、この皮膚が回復するとは思えなかったし――今のめぐるには、一日だってベースを手放すことは不可能であった。
(どうせ学校が始まったら、また昼間はベースにさわれなくなっちゃうんだ。この五連休ぐらいは、好きにさせてもらおう)
そんな放埓な気持ちで、めぐるは練習に打ち込んだ。
『SanZenon』の音を拾う作業を始めてからは、いっそう不規則な生活になってしまっている。空腹になったら白米を食べて、眠くなったらシャワーを浴び、意識を失うまでベースを弾きたおす。カーテンはずっと閉めたままであったので、しまいには昼と夜の区分も曖昧になってしまった。
よって――めぐるは、自分の肉体がいつ限界を迎えたのかも判然としなかった。
ベースを弾いている内に頭が重くなってきたため、シャワーでも浴びようかと立ち上がりかけたとき、膝が抜けたように転倒してしまったのである。
(あれ……まずいかな?)
視界が、急速に暗くなっていた。
症状としては、立ち眩みのようなものだが――何か、よくない感覚が背筋を這いあがってくる。それが脳天にまで達したとき、頭蓋の中身が一気に沸騰した。
(なんだよ、もっと練習したいのに……)
これは、発熱の兆候である。一昨年の冬休みにインフルエンザを発症したときも、めぐるはこういった兆候に見舞われていたのだった。
(でも、もう数日は外に出てないんだから、ただの疲れのはずだよね)
めぐるは何とか手探りで、こたつの中にもぐりこんだ。
ベースはめぐるのすぐかたわらで、そっと横たえられている。きちんとケースに仕舞ってあげたかったが、今はまともに体が動きそうになかった。睡魔と倦怠感が『SanZenon』の演奏にも負けない勢いで渦を巻いて、めぐるに襲いかかってきたのだ。
(……おやすみ。次に起きたら、きちんと仕舞ってあげるから……ちょっとだけ待っててね)
そんな思念を最後に、めぐるの意識は泥のような眠りの底に引きずり込まれていったのだった。
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