06 再会
『V8チェンソー』のライブを見届けた日曜日の翌日からも、めぐるの日常に大きな変化は見られなかった。
朝から夕刻までは学校で、離れに帰ったらひたすらベースの練習だ。何か変化が生じたとしたら、それは練習に対する熱意がいっそう上昇したぐらいのことであった。
『V8チェンソー』の演奏というのは決して望ましいものではなかったが、それでもめぐるは生まれて初めてロックバンドの生演奏というものを体感することがかなったのだ。演奏の内実はどうあれ、あの場所で五体に刻みつけられた爆音の感覚が、いつまでも余震のようにめぐるの心を震わせていたのだった。
言うまでもなく、エレキベースやエレキギターというものはアンプを通すことで本領を発揮できるのだ。腹の底に響くベースの重低音や鼓膜を引き裂かんとするギターの轟音というものは、それだけでめぐるを慄然とさせてやまなかった。
それに、『V8チェンソー』の演奏がしっくりこなかったことさえもが、めぐるの意欲に火をつけた。めぐるは心中に得体の知れない不満を抱いていたので、それを解消するためにもベースを弾かずにはいられなかったのだ。
そして――『SanZenon』というバンドに関しても、それは同様である。
めぐるの人生を一変させたあの女性は、すでにこの世の人ではなかったのだ。そんな事実を知らされためぐるは、わけもわからないままに涙をこぼすことになってしまったが――決して悲しいわけではなかった。ただ、悲しみと似て異なる激情に衝き動かされて、やっぱりベースを弾かずにはいられない心境に至ってしまったのだった。
めぐるにとってのベースというのは、やはり現実逃避の手段であったのだろうか。ベースの練習に没頭していると、めぐるはすべての雑念を打ち払うことができた。難しいフレーズをどのように弾きこなすか、どのようにして美しい音を鳴らすか――そんな思いで頭と心がいっぱいになって、他の感情の入り混じる余地がなくなってしまうのだ。
しかしめぐるは、何がどうでもかまわなかった。現実逃避だろうが何だろうが、めぐるは楽しくてたまらなかったのだ。家族を亡くす前の時代までさかのぼっても、めぐるがこれほどの熱心さで物事に取り組んだことは一度としてなかったはずだった。
そうして、あっという間に日々が過ぎて――四月の最終金曜日である。
ベースを購入してからは二週間と五日、二度目の弦交換に取り組んでからは一週間、『V8チェンソー』のライブからは五日が経過している。世間はすでにゴールデンウィークで、前日の木曜日も祭日だった。そして明日からは五月となり、学校も五連休となるのだった。
「あんたは五日間、朝から晩まで練習ざんまいってことだね。指から骨が飛び出ないように、せいぜい気をつけな」
その日の下校時間、ともに校門へと歩を進めながら、和緒はそのように言い捨てた。ライブの帰り道ではめぐるに謝罪するという常ならぬ姿を見せていた和緒であったが、この五日間はすっかり平常に戻っていた。
「かずちゃんは、また里帰り? 事故とかには気をつけてね」
「そんな言葉は、新幹線の車掌やら運転手やらにお願いするよ」
和緒は母方の故郷が京都であり、盆と正月とゴールデンウィークは必ず帰郷しなければならないようであるのだ。和緒は里帰りにまったく関心がない様子であったので、気の毒なばかりであった。
二人はいつもの調子で語らいながら、校門を踏み越える。
すると――思いも寄らぬ人物が、そこに待ち受けていた。
「おー、いたいたぁ。連休の中日にサボりもしないとは、感心なことだねぇ」
それは五日ぶりの再会となる、浅川亜季であった。
本日はタンクトップにミリタリーシャツを羽織っており、赤い頭にはキャップをのせている。ただでさえ目立つ容姿であるのにギターケースまで担いでいるものだから、下校中の生徒たちから存分に注目を集めてしまっていた。
「ど、どうしたんですか、浅川さん? この学校に、何かご用事でも?」
「あはは。そりゃあもちろん、めぐるっちに会いに来たんだよぉ。前に制服姿を拝見してたから、こうして学校を突き止めることができたのさぁ。こんな進学校に通ってるなんて、めぐるっちたちはすごいねぇ」
そうは言っても、『リペアショップ・ベンジー』とこちらの高校は、電車で二駅の距離である。ぶらりと立ち寄るには、微妙な距離感であるはずだった。
「あたしもこれからスタジオでリハだから、あんまりゆっくりしてられないんだよねぇ。でもとりあえず、これを渡しておきたくってさぁ」
浅川亜季はギターケースを下ろして、そちらの小物入れから一枚のCDを引っ張り出した。
そのジャケットを目にしためぐるは、思わず言葉を失ってしまう。そこには血のように赤い背景に、黒い文字で『SanZenon』とだけ記されていたのだった。
「こいつは、ハルの秘蔵コレクションねぇ。この『SanZenon』ってバンドはインディーズで、このミニアルバムしかリリースしてないんだってさぁ」
「ど……どうしてそれを、わたしなんかに……?」
「いやぁ、あたしもフユもこいつを聴いたら、インスピレーションばりばりでさぁ。今まで何を悩んでたんだろうって、吹っ切れちゃったわけだよぉ。ジャンル的には、まったく別方向なんだけど……うだうだ悩んでるんじゃねえって、頭をぶん殴られたような心地なんだよねぇ」
浅川亜季はのんびりと笑いながら、めぐるのほうにそのCDを差し出してきた。
「だからお礼に、めぐるっちにこいつを貸してあげようって話になったわけだよぉ。返すのは、次に会ったときでいいってさぁ。次のライブでは目に物を見せてやるから、楽しみにしててねぇ」
「で、でも……」
「めぐるっちは、ライブ映像を観ただけなんでしょう? あたしも観たけど、こいつはあの映像に負けないぐらいの迫力だよぉ。ガッカリすることは絶対にないから、試しに聴いてみなぁ」
浅川亜季はめぐるの胸もとにそのCDを押しつけると、ギターケースを担ぎなおして「じゃ」と手を上げた。
「次に会ったら、連絡先を教えてねぇ。あたしは週四ぐらいの割合で、あの店にいるからさぁ。めぐるっちも和緒っちも、楽しいゴールデンウィークをおすごしあれぇ」
そんな軽妙な言葉を残して、浅川亜季はさっさと立ち去ってしまった。
めぐるが呆然と立ち尽くしていると、和緒が肘で腕をつついてくる。
「とりあえず、あたしらも駅に向かおっか。こんなところに突っ立ってても、通行の邪魔になるだけだからさ」
「う、うん……」と応じつつ、めぐるはなかなか動くことができなかった。
その手には、『SanZenon』のCDが握られている。まるでそこから生えのびた不可視の触手が、めぐるの五体をからめ取ってしまったかのようであった。
◇
それから、数十分後――めぐるは帰り道で自宅の離れに立ち寄り、MP3プレーヤーを携えて、すぐさま和緒の家に出向くことになった。
「ずいぶん迷ってたみたいだけど、やっと覚悟が固まったんだね」
ノートパソコンを立ち上げながら、和緒がそのように問うてくる。
めぐるは騒ぐ心臓をなだめながら、「うん」とうなずいてみせた。
「このまま放っておいても、落ち着かないだけだから……それならもう、覚悟を固めるしかないかなって……」
「好きなバンドのCDを聴くのに、どうしてそんな覚悟が必要なのかって話だけどね」
和緒は肩をすくめながら、ノートパソコンにCDを差し込んだ。MP3プレイヤーにCDの音源を取り込むには、そうしていったんノートパソコンを経由させる必要があるのだそうだ。
「ミニアルバムで、全五曲か。……ねえ。ここで一曲、聴かせてもらってもいい?」
「えっ! ど、どうして?」
「あんたがまたボロボロ涙をこぼすんだったら、それは見届けておきたいじゃん」
「わ、わたしはネットカフェで動画を観たときも、泣いたりはしなかったよ?」
そんな風に応じつつ、めぐるはどんどん心臓が高鳴っていくのを抑えることができなかった。
怖いような、嬉しいような――あの、ライブ会場で味わわされたのと似て異なる感情が、めぐるの体内を駆け巡っているのだ。やはり今回も、それが良い感情であるのか悪い感情であるのかを見定めることはできなかった。
「じゃ、再生させていただくよ。一曲目は……『線路の脇の小さな花』だってさ。なかなかリリカルなタイトルだね」
和緒は素っ気なく言い捨てながら、ノートパソコンを操作した。
その瞬間――ひび割れた轟音が鳴り響く。ボリュームそのものは絞られていたのに、それはまるで落雷のようにめぐるの心を脅かした。
これは、めぐるがライブ映像で耳にした、あの曲である。
二週間と五日ぶりに聴くその音色が、めぐるに呼吸を忘れさせた。
あれは古い映像であるようだったので、それで音声が割れているのかと思っていたが、ノートパソコンのスピーカーから響くその音も、同じぐらい割れていた。
いや――これは、歪んでいると称するべきなのだろうか。ベースの重々しい重低音が、ギターのようなきらびやかさをも携えながら、めぐるの五体を震わせているのだ。
ベースの音色は、濁流のように渦を巻いている。
ギターの音色は、そこに流麗なる浮遊感を重ねているようだ。
そしてドラムは、自らも躍動しながらベースの音をがっしりと支えている。
三つの楽器はそれぞれまったく異なる音色を奏でながら、おたがいに絡み合い、複雑にもつれながら、極彩色の奔流を生み出しているかのようであった。
そこに今度は、歌声がかぶせられる。
その歌声もまた、演奏の音色と完全に調和していた。荒々しく、叩きつけるような歌声であるが、声質そのものは繊細で、飢えて痩せ細った獣が死に物狂いで咆哮をあげているような風情であった。
しばらくすると、歌声も演奏も力尽きたかのように圧力を弱める。
ベースは暗鬱に間延びした音を鳴らし、ギターはちろちろと細い雨粒めいたものに変じ、ドラムは不整脈めいた低音とシンバルのかすかな震えを響かせる。
しかしそれは、サビで爆発するための助走に過ぎなかった。
ひっそりとしたBメロが終了すると、ダムが決壊したかのような爆音が炸裂する。ベースはスラップ奏法で、そのプリングの音色などは一音ごとが鋼の牙のように鋭かった。
そして、演奏に負けない迫力で、女性の歌声が響きわたっている。
めぐるの観た動画との一番の違いは、歌声がくっきりと聴こえることだ。彼女はベースと同じぐらい歪んだ声で、線路の脇から人間の営みを見守る小さな花の悲しみを歌いあげていた。
これが、彼女たちの――『SanZenon』の、正しい姿であったのだ。
めぐるの心は、ベースの重低音に魅了されている。しかしこれは、歌とギターとドラムがあってこその魅力であった。それらのいずれが欠けていても、ベースの魅力は大きく損なわれているはずであった。
すべての存在が、おたがいを支え合い、おたがいを補い合っている。四つの音色はくっきりと分かれているはずであるのに、それらががっちりと絡み合うことで、ひとつの強大なうねりと化しているのだった。
サビが終わるとその勢いのまま間奏に突入し、その間も三種の音色が乱舞する。
ベースのスラップは火花のように弾け散り、ギターは透明感のある音色でそれを包み込み、ドラムはすべてを支えながら躍動した。
そんな轟音の奔流が、ふっと失墜し――囁くような歌声が響きわたる。
ベースの重低音は完全に消失し、淡い雪花のようなギターと死にかけた動物の鼓動めいたドラムだけが歌声に寄り添った。
そんな静謐なる時間が十数秒ほど続き、そして再度の爆発である。
これまで以上の迫力で二回のサビが繰り返されて、あとはその勢いのままエンディングになだれこんだ。
時間にして、わずか四分――その四分間だけ、めぐるは別の世界を覗き込んでいるような心地であった。
そうしてめぐるが呆けていると、和緒がいきなりタオル地のハンカチを投げつけてきた。
「やっぱり泣いてるじゃん。今日は謝らないからね」
和緒はどこか、ふてくされているような口調であった。
めぐるは半ば無意識のまま、ハンカチで顔をぬぐい――そうして『SanZenon』との再会は、まためぐるの心に大きな波紋をもたらしたのだった。
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