04 V8チェンソー

 開演時間が近づいてきたので、めぐると和緒はライブ会場に移動した。一階のバーのような空間は休憩スペースであり、ライブ会場は地下に存在したのだ。


「きっと地下のほうが、防音するのに都合がいいんだろうね。……なかなか雰囲気が出てきたじゃん」


 地下への階段はコンクリートの打ちっぱなしで、壁にはべたべたとポスターやフライヤーが張られている。和緒いわく、多少ながらプロミュージシャンのポスターなども張られていたようである。


 そうして映画館のように分厚くて重いドアを開けると、そちらは一階以上の薄暗さで、やはり暴力的な音楽が鳴らされていた。

 めぐるが想像していたよりも狭い空間で、このような場所に二百名も詰め込んだらさぞかし息苦しいことだろう。現時点では二十名ていどの人間があちこちに散って、それぞれおしゃべりに興じていた。


 ドアを開いてすぐの場所にはまたバーカウンターが設えられており、奥の面には黒い幕が下げられている。左右の壁沿いにいくつかの椅子が置かれていたが、それらはすべて他のお客に占領されていた。客層は――やはり、年齢も性別もファッションもさまざまであるようだ。


「とりあえず、ドリンクでもいただこっか」


 和緒も初めてのライブハウスであるはずなのに、手慣れた様子でカウンターの店員にジンジャーエールをオーダーする。メニュー表を確認したところ、ソフトドリンクよりもアルコールのほうが充実しているようだ。ビールやワインやウイスキーばかりでなく、各種のカクテルまで取り揃えられている。さらに、パスタやカレーやフライドポテトなど、フード類も存在した。


「……オーダー、何にします?」


「あ、すみません。それじゃあ……ト、トマトジュースをお願いします」


 不愛想な店員が、細長いグラスにトマトジュースを注いで差し出してくる。コインと引き換えにそれを手にしためぐるが息をついていると、和緒が横から頭を小突いてきた。


「こんな場所でも、栄養補給に余念がないね。それよりも、基本的な食生活を見直すべきだろうけどさ」


 めぐるは「あはは」と笑って誤魔化しながら、トマトジュースで口を潤した。

 薄暗い場所で耳に馴染みのない音楽に身をひたしていると、非現実的な感覚が背中にたちのぼってくる。それでもめぐるは(家でベースの練習をしたいなぁ)という思いを忘れることができなかったが――ただ、期待とも不安ともつかない感情は、時間を重ねるごとに高まっていくようであった。


「……なかなか始まらないね」と、和緒がスマホの画面をめぐるのほうに差し出してくる。いつの間にやら、開演時間の六時から五分ばかりが過ぎ去っていたのだ。

 しかしその間に、お客の数は増えてきている。すでに最初の倍ぐらいにはなっているだろう。しかしこの人数では、まだまだ空白のスペースのほうが目立っていた。


 それからさらに数分ばかりが経過して、お客の数が五十名ていどに達したとき――ただでさえ薄暗かった照明が、ほとんど真っ暗に落とされた。

 それと同時に洋楽のBGMも消失し、今度は何やらエスニックな民族音楽のようなものが流され始める。


 あちこちに散っていたお客の半分ぐらいが、幕の前まで進み出た。

 黒い幕の上下や左右から、白い光がこぼれている。幕の向こう側にだけ、まばゆい光が灯されたのだ。

 そうして黒い幕が、ゆっくりと左右に開いていき――無人のステージがあらわにされた。


 ステージは、一メートルほどの高い壇になっている。そこに、ドラムセットと二台のアンプと、そして二本の楽器が並べられていた。

 向かって右側は赤いギター、左側は木目のベースである。それらの楽器を目にしたとたん、めぐるの心臓がいっそう高鳴った。


 そうしてしばらく無人の状態で民族音楽が鳴らされた後、楽器の主たちが横合いから姿を現す。その先頭に立っていたのが、浅川亜季であった。

 浅川亜季はタンクトップの上にワークシャツを羽織っており、ダメージデニムにごついブーツという普段と大差のない格好だ。ただ、ステージ上は民族音楽に合わせて青や緑のスポットがうねるようにきらめいており、彼女を別人のように見せていた。


 小さからぬ歓声や口笛などを浴びながら、浅川亜季は赤いギターを取り上げる。

 その間に、残りの二名もそれぞれの楽器の場所に到着していた。ドラムセットに腰を落ち着けたのは、男の子のようなショートヘアーで、Tシャツにハーフパンツというラフな格好をした小柄な女性だ。そして木目のベースをつかみ取ったのは、細かくスパイラルした黒髪を頭の天辺で結いあげた、民族衣装のようなワンピース姿の女性であった。


 そして――何の前触れもなく、浅川亜季がギターをかき鳴らした。

 ゆったりとした民族音楽は跡形もなく消え失せて、そこにベースとドラムの音色も重ねられる。そうして忽然と解き放たれた爆音によって、めぐるの心は大きく脅かされることになった。


 耳ばかりでなく、全身の皮膚が波打っている。

 それに、ベースとドラムの重低音が、めぐるの腹にまで響いていた。


 もっとも耳につくのはギターの金属的なサウンドであったが、めぐるの心はすみやかにベースの音色に捕獲されてしまう。

 自らの手でベースを弾くようになったためか、もはやめぐるもギターとベースの音色を聞き違えることはなかった。この耳をつんざくような轟音がギターで、その下からすくいあげるように響く重低音が、ベースの音色であるのだ。もちろんそれはアンプで増幅されたサウンドであるのだから、めぐるが部屋で爪弾くベースの音色とは似ても似つかなかったのだが――それは確かに、めぐるがネットカフェで魅了されたあのサウンドと同質の存在であったのだった。


 そしてそこに、今度は歌声が重ねられる。

 歌っているのは、浅川亜季だ。

 もともとハスキーな声をしている浅川亜季は、迫力のある格好いい歌声をしていた。普段の眠たげな面持ちからは想像もつかないような、雄々しい歌唱である。

 しかし――それでもやっぱり、めぐるの心はベースの音色にとらわれたままであった。


 ともすれば、ベースのフレーズは曖昧にぼやけてしまう。重低音のうねりはそのままに、ギターやドラムの音と混然一体となってしまうのだ。

 ただそれでも、めぐるがベースの音を見失うことはなかった。

 時にはギターサウンドの裏側にへばりつき、時にはドラムの打撃音に押し潰されながら、ベースの重低音は常に渦を巻いていた。ぼやけているのは輪郭だけで、その圧力はギターやドラムをも圧倒しているように思えるのだ。


 それにめぐるは、視覚でもベースの音を追うことができていた。

 そちらの女性の細長い指先の動きは、めぐるの五体を震撼させる重低音と完全にリンクしていたのだった。


 いったい何と優美な動きだろう。

 指板の上を駆け巡る左手の指先などは、まるで機械のようななめらかさである。軍手などをはめる必要もなく、小指や薬指の運指に苦痛を覚えることもなく、その女性は淡々としたたたずまいで難解なフレーズを弾きこなしていた。


 ただ――めぐるは心の片隅で、小さからぬ違和感を覚えていた。

 まったくもって、正体の知れない感覚である。めぐるとしては、ライブの開始前に抱いていた期待感とも不安感ともつかない気持ちをアンプで増幅されたような心地であった。


 自分がこの時間を楽しんでいるのか、あるいは苦しんでいるのか、めぐるにはそれも判然としない。

 生まれて初めて目にするロックバンドの生演奏というものに、めぐるは大きく昂揚しているはずであるのだが――それと同じぐらいの質量で、もどかしさのようなものも抱いているように思えてならなかった。


(なんだろう……浅川さんたちは、こんなに演奏が上手なのに……わたしはどうして、こんなに落ち着かない心地なんだろう)


 もとより音楽の素養など持ち合わせていないめぐるには、このバンドの善し悪しもわからない。それゆえに、演奏のレベルに不服の持ちようはなかった。めぐるにとってはプロとの違いもわからないぐらい、彼女たちは演奏が巧みであるように思えたのだ。

 そうであるにも拘わらず、めぐるは何かしらの不満を抱いている。

 自分が欲しているものとすごくよく似通っているのに、根本の部分で大きく違っている――そんな、不可解な感覚であった。


 めぐるがその正体を突き止める前に、最初の曲は終了する。

 客席には、歓声や拍手が巻き起こった。それぐらい、見事な演奏であったのだ。


『こんばんはー! 「V8チェンソー」でーす! みんな、最後まで楽しんでいってねー!』


 マイク越しにそんな言葉を届けてきたのは、ドラムの女性である。その言葉が終わるか終わらないかというタイミングで、浅川亜季が次の曲のイントロを奏でた。

 今度はさきほどよりも、さらに激しい楽曲だ。ドラムもすぐさま力強くリズムを刻み、ベースがそこに重低音を重ねた。


 めぐるにはとうてい真似のできないような、アップテンポの曲調である。

 ベースのフレーズも、さらに難解なものに変じた。左手の指先は目まぐるしく指板の上を行き交い、右手の指先はなめらかかつスピーディーに弦を弾いている。


 それでめぐるの違和感が、一気に膨れ上がることになった。

 曲調が変化したことにより、めぐるの違和感が明確な形を取り始めたのだ。

 ベースやギターやドラムの音が、これまで以上に激しくせめぎ合っている。それは何だか、三種の音色が居場所を奪い合っているかのような様相であったのだった。


 そこに歌声までかぶせられると、いっそう収拾がつかなくなっていく。彼女たちの演奏は的確で、ミスタッチもなく、テンポがずれることもなく、不協和音を奏でることもないように思えたが――しかしそれでも、何かが食い違っているように思えてならなかった。


 その中でもひときわめぐるの心を騒がせるのは、やはりベースの音色である。

 艶やかさと力強さをあわせ持ったベースの重低音が、一秒の空白も許さんとばかりに激しく響きわたっている。それはまるで、歌やギターやドラムの音色を叩き壊そうとしているかのようであった。


 ステージ上の三名は一心に演奏をしているし、客席のほうも大いに盛り上がっている。

 だけどめぐるには、そんな彼女たちがすごく不自由で、すごく窮屈そうで、苦悶のあまりに身をよじっているように思えるほどであった。


 今はもう、めぐるの心も昂揚と無縁である。

 相変わらず心臓は高鳴っていたが、それはひとえに爆音に揺さぶられてのことであろう。めぐるとしては、健康体であるのに心臓マッサージをされているような心地であった。


(これって、何なんだろう……ただわたしの好みに合わないっていうだけの話なのかな……)


 そうしてめぐるは猛烈なる音と光に五体を翻弄されながら、空虚な気持ちで数十分ばかりの時間を過ごすことに相成ったのだった。

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