03 期待と不安
「『V8チェンソー』って、なかなかケッタイなバンド名だよね。いったいどういう系のジャンルなんだろ」
日曜日の夕暮れ時、ほどほどに混雑した電車の中で、和緒がそのような感慨をこぼした。
そのすぐ隣で吊り革につかまっていためぐるは、溜息で応じる。普段は相手に溜息をつかせることの多いめぐるであったが、今日ばかりは自分の番であった。
「そんなに気が進まないなら、行かなきゃいいじゃん。道連れにされてるあたしのほうこそ、いい面の皮じゃない?」
「うん、ごめん……でも、チケットまでもらったのに無視したら、このさき気まずくなっちゃうから……」
「だったらもうあの店には近づかないで、普通の楽器屋を頼ればいいじゃん。得意でしょ、嫌なことから逃げるのは」
「……かずちゃん、やっぱり怒ってるの?」
「怒っちゃいないさ。ただ、ここまで来てうじうじ言われるのは、さすがに面倒くさいかな」
そんな風に語る和緒は、普段通りのクールな面持ちだ。四月も下旬に差し掛かり、だいぶん温かくなってきたので、七分袖の襟なしシャツにチノパンツにデッキシューズというラフな装いである。
いっぽうめぐるはオーバーサイズのパーカーにロングスカートという格好で、これはどちらも和緒のおさがりであった。めぐるは三年前から新しい衣服というものを購入していなかったが、それを見かねた和緒がずっと以前にダンボ-ル箱いっぱいの衣服をプレゼントしてくれたのだ。ただ、めぐるは衣服に頓着していないので、これらの衣服も和緒に押しつけられただけのことであるのだが――少しでもまともな格好をしようと思ったら、けっきょく和緒の厚意にすがるしかなかったのだった。
二人は浅川亜季なる女性のバンドを拝見するべく、『稲見ジェイズランド』なるライブハウスを目指しているさなかとなる。そちらの会場までは電車で四十五分という道のりであったため、一般的にはさしたる手間でもないのだろうが、出不精のめぐるとしては負担以外の何物でもなかった。
「ま、あんたとしては弦を張り替えたベースで、思うさま練習に没頭したいんだろうけどさ。あのお姉さまも言ってた通り、これもいい刺激になるんじゃない? ズタボロの指先を休ませる、いい機会にもなるだろうしさ」
「うん……それはそうかもしれないけど……」
「まだうじうじ言うようだったら、あたしは帰ろっかな。別にあたしは、誰に義理立てする筋合いもないしね」
「ご、ごめんごめん。もう泣き言を言ったりしないから、わたしを見捨てないでよぅ」
和緒は肩をすくめてから、めぐるの頭を小突いてきた。
そうこうする内に、電車は目的の駅に到着する。改札口を抜けた和緒は、さっそくスマホでライブハウスの所在地を確認した。
「駅から徒歩三分だってさ。千葉にもこんなあちこちに、ライブハウスなんてあるもんなんだね」
「う、うん……わたしには、ライブハウスっていうのが何なのかもよくわかんないんだけど……」
「ライブハウスは、ライブハウスでしょ。バンドやら何やらがライブをやる場所のことだよ。あたしらが向かってる『ジェイズランド』ってのはキャパ二百名ぐらいみたいだから、アマチュアがメインのライブハウスなんだろうね」
さすがに和緒は、これから向かう先についても調査済のようである。
そうして重い足を引きずって街路を進みつつ、めぐるはささやかな疑念を抱くことになった。
「そういえば……ライブハウスについては調べたのに、あの浅川さんっていう人のバンドに関しては何も調べなかったの?」
「うん。とりあえず、先入観なしで拝見しようと思ってね。そのほうが、あんたと対等に語らえるだろうからさ」
和緒はこのたびの行いを楽しんでいるのか面倒がっているのか、そのクールなたたずまいからは何とも推し量れなかった。
そうしてしばらく街路を進むと、すぐに目的地に到着した。駅裏と称するのに相応しい区域で、周囲に並ぶのも無機質な雑居ビルばかりである。もっと華やかで近寄りがたい場所をイメージしていためぐるは、いささかならず肩透かしをくったような心地であった。
ただし、ライブハウスの入ったビルの周囲には、いかにもな風体をした人々がたむろしている。派手なTシャツに金色の頭をした若者や、モノトーンのドレスみたいな格好をした女の子や、坊主頭で手首にまでタトゥーの入っている男性や――なかなかめぐるたちの地元ではお目にかかれない様相であった。
しかしまた、全員が全員そのような格好であったわけでもない。休日のOLといったつつましいファッションの女性や、どこにでもいそうな大学生風の若者や、めぐるたちと同世代の少年少女というものも決して少なくはなかった。
「あたしらも、そんなに浮かないで済むみたいね。この人らは、目当てのバンドの出番待ちなのかな? あたしらは出順もわからないし、とっとと入店しちゃおっか」
和緒はいっかな怯んだ様子もなく、ライブハウスの入り口へと歩を進めた。
めぐるも慌ててそれを追いかけると、店内は表よりも薄暗い。入ってすぐの場所に受付のカウンターがあり、その向こう側はバーか何かのような雰囲気であった。
「お願いします」と、和緒はカウンターの店員にチケットを差し出す。肩までのばした髪をちりちりにした女性店員は、やわらかい声音で「ドリンク代、ひとり五百円です」と告げてきた。
「あ、ワンドリンク制ってやつですか。じゃ、二人分まとめて」
「はい、千円ちょうどですね。フライヤーはどうします?」
それはめぐるの知らない単語であったが、女性店員が手にしているのはチラシの束である。和緒は一秒の半分ほど思案してから「いただきます」と応じた。
めぐるの分のチケットも差し出すと、半券とともに二枚のコインとチラシの束を差し出されてくる。このコインと引き換えに、ドリンクを一杯オーダーできるというシステムのようであった。
「あの、『V8チェンソー』っていうバンドの出番は、何時ぐらいですか?」
和緒がそのように尋ねると、女性店員は面倒がらずに答えてくれた。
「ブイハチは、トップバッターですよ。開演は、六時です」
「ありがとうございます」と、和緒は速やかに店内へと踏み入っていく。めぐるは大量のチラシを抱えながら、慌てて財布をまさぐることになった。
「かずちゃん、お金。わたしが二人分払うよ」
「おや、珍しい。でも、あたしとあんたじゃ貨幣価値が違ってるから、損得のバランスが取れないんだよなぁ」
「うん。だけど今日は、わたしのせいでかずちゃんまで引っ張り出すことになっちゃったから……」
「それは自分の影響力を過大評価してるんじゃない? あたしはあくまで、自分の自由意思で行動してるつもりだよ」
和緒がこういう大仰な物言いをするのは、機嫌が悪くない証拠である。めぐるは安堵の息をつきながら、五百円だけ支払うことになった。
「でもこれは、ちょっとばっかり大荷物だね。そこに座って、整理させてもらおうか」
店内には椅子とテーブルが点在しており、八割ぐらいがすでに埋められている。それで照明が薄暗く、テーブルにはグラスやジョッキが並べられており、あげくの果てにはバーカウンターまで存在するため、バーそのものの雰囲気であるのだ。
ただ店内には、それなりのボリュームで騒がしいBGMが流されている。海外のロックバンドの演奏であるのだろうか。めぐるにはまったく馴染みのない、暴力的なサウンドであった。
そんな落ち着かない環境の中、めぐると和緒は空いていたソファの席に並んで腰を落ち着ける。そうして和緒は、チラシの束を一枚ずつ検分し始めた。
「なるほど。出演バンドの広告とかかな。ほら、『V8チェンソー』のフライヤーとやらもあったよ」
それはモノクロのコピー用紙であった。毒々しい書体で書かれたバンド名の下に、日付やライブハウスの店名らしきものが記載されている。背景には、何かのエンジンと思しき機械の画像がプリントされていた。
「三月から六月まで、月に二、三回のペースでライブ活動してるみたいだね。アマチュアバンドとしては、まあそれなりにハイペースなのかな? 素人のあたしには、よくわからんけど」
「う、うん。でも、すごいね。浅川さんだってまだ若そうなのに、こんなにしょっちゅうライブをやってるなんて……」
「お、ちょっとはテンションが上がってきた?」
「そ、それはよくわかんないけど……場の空気に呑まれちゃったのかな」
めぐるの心臓は、少しずつ鼓動を速めていた。
これは期待感であるのか不安感であるのか、良い感情であるのか悪い感情であるのかも、よくわからない。あえて言うならば、チラシの画像の粒子の粗さや、店内に響きわたるBGMの猛々しい雰囲気が、あのネットカフェで視聴したライブ映像を連想させるのかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます