02 助言と勧誘
めぐると和緒は、再び『リペアショップ・ベンジー』に向かうことになった。
下校の途中であったので、時刻は午後の四時ていどとなる。二人はそろって制服姿で、めぐるだけが自転車を押している。こちらのショッピングエリアは、めぐるたちが利用している最寄り駅のすぐ近くに存在するのだった。
(きっと店主さんにも、呆れられるんだろうけど……他の楽器屋で弦を買ったら、このお店に顔を出しづらくなっちゃうもんな)
そんな思いを抱えながら、本日はめぐるが先頭に立って入店することになった。
相変わらず、店内は雑然としている。そして目指すカウンターには、本日も老齢の店主が待ち受けていた。
「いらっしゃい。……何だ、またお前さんがたか」
カウンターの上でファイルをめくっていた店主は、溜息をつきながら老眼鏡を外した。
「今日は何の用だ? まさか、二週間足らずでベースを壊したのではなかろうな?」
めぐるがベースを購入したのは先週の日曜日で、本日は金曜日となる。明後日の日曜日で、ようやくベースの購入から二週間となるのだ。この週末を楽しく過ごすためにも、めぐるは二度目の弦交換をやりとげなければならなかった。
「じ、実はまた弦が切れてしまったんです。今度は、1弦だったんですけど……だから、新しい弦を買わせていただけますか?」
めぐるの言葉に、店主はさっそく呆れた顔をした。
「もう弦を切りおったのか。何か無茶な真似でもしたのか?」
「い、いえ。きっと力みというのが取れていないんだと思います。今回も、スラップの練習中でしたので……」
「それにしても、たった二週間足らずで新品の弦を切っちまうとはな」
そう言って、店主は本日最初の溜息をついた。
それを申し訳なく思いながら、めぐるは言葉を重ねてみせる。
「あ、あの、他の弦は、まだ調子も悪くないみたいなんで……1弦だけ交換するというのは、可能でしょうか?」
「それでも二週間近くは経っているのだから、相応に劣化は進んでいるはずだ。それで1弦だけ交換したら、音のバランスが悪くなる。……それにな、バラ弦というのはそれなりに名の売れたメーカーしか出していないため、値が張るものなんだ。そいつを1弦だけ買うよりも、この前の弦をセットで買ったほうが安くつくぐらいだぞ」
「そうですか……それなら、セットで買うしかないですね。ご説明、ありがとうございます」
しかしそうすると、今後もこのペースで出費がかさんでいくということである。二週間足らずで八百八十円というのは、めぐるにとって決して小さな金額ではなかった。
そんな思いが顔に出てしまったのか、店主は二度目の溜息をつく。
「しかしやっぱり、弦が切れるのが早すぎる。たまたま外れの弦だったという可能性もなくはないが……何か弾き方に問題でもあるのではないか?」
「ど、どうでしょう。自分では、何とも言えないですけど……」
「だったらちょっと、そこのベースで弾いてみろ。問題がないか、確認してやる」
この申し出に、めぐるは大いに慌てることになった。
「い、いえ、とうてい人にお見せできるようなレベルではありませんし……それに、軍手もありませんので……」
「軍手? そんなもんが、どうして必要なんだ?」
「あ、ベースを弾くときは、いつも軍手をはめているんです。絆創膏だけだと、すぐに破れてしまうもので……」
店主は眉間に皺を寄せながら、めぐるの左右の手を見比べた。
「……あれから十日以上も経っているのに、どうして血豆が治っておらんのだ?」
「え、ええと、なかなか治るひまもないと申しますか……右手のほうは、もうそんなに血が出ることもないんですけど……」
「……左手ばかりでなく、右手にも軍手なんぞをはめているのか?」
「え? ああ、はい……スラップでは、まだちょっと人差し指が痛むんで……」
店主は三度目の溜息をつきながら、灰色の頭を引っかき回した。
「わかった。それが原因だ。おそらくは、軍手なんぞをはめているから余計な力みが取れんのだろう」
「え? ど、どういうことでしょう?」
「スラップというのは、パーカッシブな小気味好い音を鳴らすのが主眼となる。とりわけ親指で弦を叩く際には、軍手なんぞ邪魔にしかならんだろう。軍手の生地がクッションになってアタック音を弱めてしまうのだから、それを解消するには力を込めるのが手っ取り早かろうさ」
「そ、そうですか。でも、親指で叩いた弦が切れてしまったわけではないのですが……」
「親指で弦を叩き切れる人間など、この世に存在するものか。しかしスラップというのは、弦を叩くサムピングと弦を引っ掛けるプリングの動きが連動しているものだろうが? 叩く動作で力んでいたら、引っ張る動作も同様のはずだ」
それは確かに、店主の言う通りである。教則本の知識しかないめぐるにも、それが正論であることは理解できた。
「……そもそもな、軍手なんぞをつけておるのが間違いなのだ。左手に専用のグローブをはめる人間はいなくもないが、右手に余計なものをはめていたら細かいニュアンスを出すことも難しくなってしまうのだからな。早々に改善せんと、スラップ以外でもおかしなクセがついてしまいかねんぞ」
「そ、そうですか。でも、スラップでは軍手をつけていないと、また血が出てしまうかもしれませんし……ベースを汚したくはないのですよね」
「血豆なんぞ、数日もすれば回復するだろうが? そうして何回も血豆をつぶす内に、指先の皮膚が固くなっていくのだぞ。血豆が治るひまもないほど練習に明け暮れているのが、そもそもの間違いであるのだ」
めぐるは返す言葉を失い、口を閉ざすことになった。
すると、和緒がひさかたぶりに――というか、入店して初めて発言した。
「この子、都合が悪くなると黙っちゃうんです。で、家に帰ったらまた軍手で練習に明け暮れますよ。根っこの部分が、ゴーイングマイウェイですからね」
「……だったら、何だというのだ?」
「もうちょっと別の角度からアプローチしてくれませんか? ご店主だったら、きっと説得できると思います」
「……俺は親でも教師でもないのだぞ」
店主は何度目かの溜息をついてから、あらためてめぐるをにらみつけてきた。
「さっきも言ったが、軍手なんぞをはめていたら、おかしなクセがつく。この先一生軍手をはめてプレイしていく覚悟なら、それでもかまわんだろうがな。しかし、結果的には上達を遅くする結果になるだろう。痛い目を見て成長まで遅れるというのは、馬鹿らしいと思わんか?」
「…………」
「それでも、練習を休めんというのなら……まずは、軍手の親指を切り落とすことだな。そうすれば、サムピングの力みだけは解消されるはずだ。あとは軍手なんぞをはめていても、いずれは皮や肉が頑丈になっていくだろうから、それを気長に待つしかあるまい」
空虚になっていためぐるの心に、言語機能が蘇ってくる。
それで最初に出てきたのは、「ありがとうございます」という言葉であった。
「親指も、素手だと痛いことがあるんですけど……それはわたしが、初心者だからですよね。最終的には軍手を外して演奏できるように、あれこれ試してみます」
「お見事。さすがはあたしの見込んだご店主ですね」
和緒はすました顔で、ぺちぺちと拍手をした。
店主はくたびれきった面持ちで、また溜息をつく。
「どうして俺が、こんな面倒な客の相手をしなければならんのだ……用が済んだんなら、さっさと帰れ」
「あ、すみません。それじゃあ、弦を売っていただけますか? 今回は予備も合わせて、2セットお願いします」
めぐるはたいそう恐縮しながら、財布を取り出すべくブレザーのポケットをまさぐる。
背後の扉が開かれたのは、そのタイミングであった。
「あれぇ? 女子高生なんて、珍しい。隠し子に養育費でも請求されてるのかなぁ?」
めぐるがびっくりして背後を振り返ると、そこに立ちはだかっていたのは赤い髪をした女性店員であった。
本日は、黒いタンクトップに派手なスカジャン、ダメージデニムにエンジニアブーツといういでたちである。そしてその背中には、ダークブラウンのギターケースが抱えられていた。
「なんだ、もう帰ったのか。商売の邪魔だから、とっとと引っ込め」
店主がぶっきらぼうに言い捨てると、女性店員は「ふふん」と鼻で笑った。いつでも眠たげな目つきと相まって、ひどく人を食ったような態度だ。
「だったらもっと、店を片付けてよぉ。これじゃあ可愛い娘さんたちをなぎ倒さないと、奥に行けないじゃん」
そんな風に言ってから、女性店員は「あれれぇ?」と小首を傾げた。
「もしかして、そっちの子はリッケンベースを買った娘さんかなぁ?」
「あ、ど、どうも。おひさしぶりです」
めぐるが慌てて頭を下げると、女性店員はのんびりとした笑顔になりながら接近してきた。それで判明したのは、彼女と和緒がちょうど同じぐらいの背丈であるという事実である。
「どうしたのぉ? あのベースに何か問題でもあったのかなぁ? だったら遠慮はいらないから、好きなだけ文句をつけてあげるといいよぉ」
「おい、商売の邪魔をするな。営業妨害で訴えるぞ」
「営業妨害とは人聞きが悪いなぁ。不愛想な店主の代わりに、場を和ませてあげてるんだよぉ」
女性店員は悪びれた様子もなく、口の端をにんまりと上げる。
すると、和緒が落ち着きはらった態度で発言した。
「もしかして、お二人はご家族なんですか?」
「えー? どうしてそう思うのかなぁ? あたしとこのじーさまで、共通点なんてないと思うけどぉ?」
「そうでもありませんよ。……それにご店主が『もう帰ったのか』と仰ってましたし、あなたはあたしたちをなぎ倒してでも奥に行きたいみたいですしね。察するに、この奥が居住スペースというわけですか」
女性店員はくつくつと咽喉で笑ってから、めぐるに向きなおってきた。
「なんか、面白い子を連れてるねぇ。これ、あなたの彼氏さん?」
「い、いえいえ。たまに誤解されますけど、そういう関係ではありません」
「誤解されるんだぁ? あなたも面白さでは負けてないねぇ。で、今日はいったいどうしたのぉ?」
「そいつは、弦を買いに来ただけだ」と、店主が不愛想な声で応じる。
すると、女性店員はいぶかしそうに眉をひそめた。
「でも、ベースを買った翌日にも弦を買いに来たって話じゃなかったっけぇ? あれからまだ、二週間も経ってないよねぇ?」
「は、はい。下手くそだから、すぐに弦を切っちゃうみたいです」
めぐるが恐縮しながら答えると、女性店員はめぐるの指先に視線を走らせた。
「ふうん。練習熱心なんだねぇ。二週間足らずでベースの弦を切るなんて、あんまり普通の話じゃないと思うよぉ」
「い、いえ。それは練習の仕方に問題があったからで……」
「でも、熱心なのは事実でしょう? さすが、あたしの見込んだ娘さんだねぇ」
そんな風に言いながら、女性店員はスカジャンの懐に手を突っ込んだ。
そこから取り出されたのは、二枚の細長い紙片である。
「そんな熱心なあなたに、こいつをプレゼントしてあげようかぁ。よかったら、彼氏さんもどうぞぉ」
「な、なんですか、これ?」
「ライブのチケット。実は明後日がライブなんだけど、知り合いにドタキャンされちゃってさぁ。もう売るあてもないから、あなたにあげるよぉ」
めぐるは目を白黒させながら、鼻先に突きつけられた紙片ごしに女性店員の笑顔を見返すことになった。
「あ、いや、でも、わたし、音楽のこととか、まったくわからないんで……」
「わからないから、ひとつずつ学んでいくんでしょう? そんなに熱心だったら、きっと人様のステージもいい刺激になるはずだよぉ。好みに合わなきゃ合わないで、反面教師ぐらいにはなれるんじゃないかなぁ」
女性店員はのほほんと笑いながら、めぐるのブレザーの胸ポケットに二枚のチケットを差し込んできた。
「じゃ、よろしくねぇ。そっちも練習、頑張ってぇ」
「あ、ところであたしの名推理は如何でしたか?」
和緒が横から口をはさむと、女性店員はいっそう愉快げに笑った。
「大正解。あたしはそこのじーさまの孫娘で、
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