-Track 2-

01 熱中とアクシデント

『リペアショップ・ベンジー』で弦を交換してからしばらくは、あっという間に日々が過ぎていった。

 夜を徹してベースの練習に励み、眠たい目をこすって学校に通う。その繰り返しである。そして唯一の友人である和緒も、その期間はめぐるに干渉しようとしなかったのだった。


「ちょっと期間を空けたほうが、あんたの上達っぷりを実感できるだろうからね。あたしはしばらく、静観させていただくよ」


 和緒は、そんな風に言っていた。

 ただ、干渉しないというのはベースの練習についてであり、登下校や昼休みなどは50パーセントぐらいの確率で一緒に行動していたため、めぐるが物寂しさを覚えることはなかった。


「かずちゃんが貸してくれたMP3プレーヤーってやつのおかげで、すごく助かってるよ。やっぱりメトロノームがあるのとないのじゃ、全然ちがうね」


「そりゃよござんした。せいぜいあいつをあたしだと思って、こき使ってやってくださいな」


 めぐるの行動に関心があるのやらないのやら、ひとたび距離を取ると決めた和緒はクールそのものであった。まあ、たとえ今回のようなケースでなくとも、これがめぐると和緒の距離感であるのだ。二人は常にべったりと行動をともにしているわけではなく、ついたり離れたりを繰り返しながら二年という歳月を過ごしてきたのだった。


(まあ、かずちゃんにはかずちゃんの生活があるんだもんな。わたしにばっかりかまってたら、それこそ嫌気がさしちゃうよ)


 そんな思いを心の片隅に抱えつつ、めぐるはベースの練習に没頭することになった。

 実のところ、めぐるはベースの練習が楽しくてたまらなかったのである。めぐるがこれほどひとつの物事に熱中したのは、生まれて初めてのことであるはずであった。


 リペアショップの店主が言っていた通り、新品の弦というのはたいそう弾きにくいものであった。弦の表面がざらざらとしていて引っかかるし、音も響きがいい代わりに、妙にギラギラとしているようであるのだ。スラップで弦を叩いたり引っ張ったりする際には格段に綺麗な音になっていたが、普通に指で弾く際にはその金属的な音色に嫌気がさすほどであった。


 しかしこれも店主が言っていた通り、そんな違和感も数日で――正確には、二日目の途中で解消されることになった。もとより指の引っかかりというのは軍手の寿命が縮むだけの話であったし、音に関してもだんだん耳に馴染んできたようであった。


 それにめぐるは、ごく稀に背筋が粟立つほど美しい音色を奏でられるようになっていた。

 練習フレーズを反復しているさなか、右手と左手のタイミングがカチリと合って、なおかつフレットを押さえる指と弦を弾く指の力加減も同時にうまくいったとき、それまでとまったく異なる音色が響きわたったのである。

 それは金属的なきらめきを纏わりつかせつつ、太くて重々しい芯が備わっているような音色であり――そもそも金属的な要素の薄かった使い古しの弦では、決して実現できない音色であるように思えてならなかったのだった。


「使い古しの弦ってのは、おもに高音域が弱くなるらしいからね。それに、音ののびが悪くなって、倍音とかいうやつも出にくくなるっていう情報が飛び交ってたよ。まあ何にせよ、新品の弦のほうが本来あるべき姿らしいから、あまりケチらず定期的に交換するべきなんだろうね」


 和緒は時たまそんな言葉で、めぐるに欠けている知識を埋めてくれた。和緒はめぐるの行動に不干渉のスタンスであったが、ひまを見つけてはベースの情報をネットであさっているようなのである。


「それにしても、あんたはいつまで経っても指先がボロボロだね。軍手をはめてても、回復がおっつかないの?」


「うん。右手なんかは、ちょっとずつ治ってきたみたいなんだけど……左手のほうは、変わらずかな」


「きっと栄養が足りてないんだよ。ベースを上手くなりたいなら、食生活も見直しな」


 そんな言葉は耳が痛いばかりであったが、めぐるは文字通り寝食を忘れる勢いでベースに熱中してしまっていた。端的に言って、食事や睡眠に時間を割くのが惜しくてならないのである。どうして人間が生きるのにそのような手間が必要となるのか、理不尽に思えてしまうほどであった。


 学校から戻ったら即座にベースをケースから取り出し、思うさま練習に取り組み、胃袋が限界を訴えてきたら、なるべく簡単に食事を済ませる。ここ最近は、納豆と卵かけごはんがめぐるの主食であった。

 しかるのちにベースの練習を再開し、午前0時を過ぎるとおおよそ睡魔に見舞われるため、眠気ざましにシャワーをあびる。その後は、限界いっぱいまで練習に取り組み――気づいたら、こたつでベースを抱えたまま眠りに落ちているというのが、めぐるの日常になってしまった。


 何がそんなに楽しいのか、めぐる自身にもわからない。

 ただめぐるは、ベースそのものに魅了されていた。くすんだペパーミントグリーンをしたその姿も、見飽きるどころか愛着が増すいっぽうであるのだ。そしてそこから放たれる低音が、めぐるをいっそうの悦楽にいざなっていく。指で弾いたときの温かい音色も、スラップで生じる鋭い音色も、何もかもが心地好かった。毎日少しずつ弾けるフレーズが増えていくのも、音符の読み方がわからなくて四苦八苦するのも、血豆がつぶれて軍手に血がにじむことさえ、めぐるにとっては幸福の証であった。


 今ではもう、教則本に記載されていた練習フレーズのすべてを暗譜することができている。スライドやチョーキングといったテクニックを盛り込んだフレーズに、三連符やシャッフルといったリズムを盛り込んだフレーズ、十六分音符の細かい動きを盛り込んだフレーズ、そしてそれらを組み合わせた長くて難解なフレーズ――まともに弾けるか弾けないかは別として、それらをすべて頭と体に刻みつけることがかなったのだった。


 そうしてそんな日々が、十日ばかりも続いたのち――事件が起きた。

 再び、弦が切れてしまったのだ。


 このたび臨終したのは、もっとも細い1弦であった。前回と同じく、スラップの練習で切れてしまったのだ。めぐるは自分がどれだけ未熟であるかを思い知らされた心地で、どっぷり落ち込むことになってしまったのだった。


「やっぱりわたしは、まだまだ力まかせなんだろうね。こんなにひ弱なくせに、力まかせで弦を切っちゃうなんて……なんだか、情けない気分だよ」


 弦を切った翌朝、登校の途中でめぐるがそんな弱音をこぼすと、和緒はそっけなく「ふうん」と応じてきた。


「普通だったらひと月はもつはずだって、店主さんが言ってたよね。で、それが十日ていどでぶっち切れたってことは……あんたが人の三倍ぐらい練習に打ち込んでるってことなんじゃないの?」


「いや、きっとわたしの弾き方が悪いんだよ。スラップは難しいから、ついつい力んじゃうんだよね」


「へーえ。でもまあ弦が切れたんなら、ひさびさにたっぷり睡眠を取れたのかな?」


「あ、いや……その後は1弦を使わないで練習してたから、それは普段通りなんだけど……」


 和緒はクールな面持ちのまま、めぐるの頭を小突いてきた。


「そ、それでね、かずちゃんにお願いがあるんだけど……」


「ええ? またあのお店につきあえっての? あんまり気が進まないなぁ」


「ど、どうしてわかったの?」


「わかるよ、そりゃ。あんたが自分からあたしを頼るなんて、パターンが限られてるもん」


 すっかり葉桜になった並木道を歩きながら、和緒は肩をすくめた。


「でも、これで三度目の突撃なんだから、もうあたしのフォローなんていらなくない? そもそも最初は、あんたひとりで突撃したんだしさ」


「う、うん、そうだね。かずちゃんに甘えっぱなしなのは、よくないよね」


「……そうやってあっさり引かれると、あたしのヘンクツ魂が刺激されるなぁ」


 和緒は口をへの字にしながら、再びめぐるの頭を小突いてきた。


「わかったよ。じゃ、学校帰りにちゃちゃっと済ませちゃおう。制服姿で、あの頑固なご店主を悩殺してやろっか」


「あはは。かずちゃんは私服でも制服でも格好いいけどね」


「あははじゃないんだよ。この、ヘンクツ限定の人たらし」


 そうしてめぐると和緒は、およそ十日ぶりに『リペアショップ・ベンジー』を訪れることに相成ったわけであった。

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