09 不愛想な店主

「……それで? そいつを返品する気はないわけか?」


 あらためて不愛想な店主と対峙させられためぐるは、「は、はい」と力なく応じることになった。


「わ、わたしは本当に、この子を気に入っていますので……どうか返品はご勘弁願えませんか?」


「……勝手なサービスをしたのは、うちの馬鹿な店番だからな。こっちが無理に返品を迫れる立場ではないだろうさ」


 そんな風に言いながら、店主は再び老眼鏡を装着した。


「返品する気がないなら、さっさと出ていけ。俺は仕事中なんだ」


「あ、いや、その……わ、わたしは新しい弦を買わせてほしいんですが……」


「わざわざこんな店で弦を買う必要はなかろう。歩いて五分の場所に、あれだけ立派な楽器屋があるのだからな」


 めぐるが言葉を失うと、和緒がすかさず声をあげた。


「ご覧の通り、この子は人見知りなんですよね。またイチから新しいお相手と良好な関係性を築くのは大変なんで、ここはご店主が面倒を見てくださいませんか?」


「……お前のように口の回る人間がいれば、なんの不自由もなかろうが?」


「あたしは大切なマイフレンドのために、あまり口出しをしたくないんですよ。ライオンは我が子を千尋の谷になんちゃらってやつです」


 和緒の適当な物言いに、店主は深々と溜息をついた。


「わかった。もういい。弦を買うなら、好きにしろ。どんな弦をお望みなんだ?」


「ど、どんな弦と申しますと?」


「ゲージはヘヴィかミディアムかライトか、形状はラウンド・ワウンドかフラット・ワウンドか、なんならハーフ・ワウンドか。材質はニッケルかステンレスかコバルトか、今ならブロンズやナイロンも在庫がそろってるぞ。さっさと選んで、さっさと買っていけ」


「もう、意地悪ですね」と、和緒が肩をすくめた。


「初心者に、そんなの選べるわけないじゃないですか。ビギナー向けのおすすめを教えてくださいよ」


「初心者もへったくれもない。弦とは、出したい音に応じて選ぶものだ。出したい音すら存在しないというのなら、何でも好きなものを買っていけばいい」


「だったらまず、それぞれの特性を教えてくださいよ。じゃないと、選びようがないでしょう?」


 さきほどの発言も忘れてしまったかのように、和緒が率先して店主を相手取ってくれている。もちろんめぐるにとってはありがたい限りであったので、文句を言う筋合いはなかった。


「……ゲージというのは、弦の太さだ。太い弦なら基音が強く重圧感が増し、細い弦なら倍音が強く華やかさが増す。ただし、弦が太ければテンションがきつくなり、弾きこなすのに多少の腕力が必要になる。勢いやビート感を重視するならヘヴィ・ゲージ、細かなニュアンスを重視するならミディアムやライトを選ぶ人間が多い」


 店主は何かをあきらめた様子で、不機嫌そうに語り始めた。


「弦の形状は、ラウンド・ワウンドならクリアーでブライトな音、フラット・ワウンドならソフトでウォームな音という解釈で問題ないだろう。ハーフ・ワウンドは、その中間だ。ジャンルが現代風のロックなら、ラウンド・ワウンドが主流だな」


「なるほど。では、材質は?」


「もっとも一般的なのは、ニッケルだ。癖がないので、どのようなジャンルの音楽でも対応しやすい。それよりも派手な音を望むならステンレスで、さらに上をいくのはコバルトだな。コバルトは抜けがいい上に低音も強く、おまけに耐久性にも優れている。ブロンズはアコースティックギターの弦でも使われることが多く、音がやわらかい。ナイロンなどはクラシックギターで使われるぐらいなので、さらにやわらかい音となるが……まあ、使えるジャンルは限られるだろうな。ウッドベースのようなニュアンスを出したいときなどは、ナイロンが有用だ」


 めぐるはそんな解説を聞いているだけで、頭がくらくらしてしまいそうだった。

 いっぽう和緒はすました顔で、「なるほど」と繰り返す。


「ちなみに、こちらのリッケンバッカーに張られていた弦は、どんな種類なんでしょう?」


「……ニッケルのラウンド・ワウンド。ゲージは、ミディアムだ。それが一番、無難だろうからな」


「なんだ。無難なチョイスってのがあるんじゃないですか」


 和緒がにんまり微笑むと、店主はいっそう不機嫌そうな面持ちになった。


「だから、出したい音も存在しないなら、好きな弦を買えと言っている。言っておくが、同じ材質や形状でも、メーカーによって多少の違いは出るからな」


「弦だけでも、そんなに奥深い世界なんですね。ここは大人しく、もとから張ってあったのと同じ弦にしておく? ……あ、だけど、スラップに挑戦するんなら、弦にもこだわったほうがいいのかな?」


「スラップ?」と、店主は灰色の眉をひそめた。


「……初心者が、スラップなんぞに手を出そうというのか?」


「この子はそのつもりみたいですね。何か問題でもありますか?」


「……リッケンベースでスラップなんぞをプレイするのは、酔狂者の部類だろうな。そもそもリッケンベースは形状からして、スラップには不向きであるとされているのだ」


「ほうほう。そのココロは?」


「……リッケンベースはスタンダードなジャズベやプレベに比べると、ネックが細くて弦間がせまい。そうして弦間がせまければ、プリングで指を引っ掛けるのがいささか困難になるということだ。さらにはフロントのピックアップがネックの付け根に近いため、そちらでも窮屈な思いをする上に、スラップのアタック音を強烈に拾われてしまう。他のベースと同じような小気味いいサウンドを目指すのは、さぞかし難しいことだろう」


「なるほど。ご丁寧な解説、ありがとうございます。……でも、相性が悪いというだけで、禁止されてるわけではないですよね?」


「禁止もへったくれもあるものか。……たとえば、多弦ベースには弦間がせまいタイプも少なくないが、それでも見事なスラップを見せるプレイヤーは多い。また、他のベースと同じようなサウンドを目指すのが難しいのなら、リッケンベースならではのサウンドを目指せばいいだけのことだ。ロックバンドのプレイヤーなど酔狂者の集まりなのだろうから、たとえ相性が悪かろうともリッケンベースでスラップに取り組んでいる人間などいくらでもいるのだろうさ」


 それだけの言葉をまくしたててから、店主は灰色の無精髭に覆われた下顎を撫でさすった。


「しかしまさか、スラップとはな。だから一日で、弦が切れたわけか。いくら何でも、早すぎると思ったわ」


「あ、やっぱりベースの弦なんて、そうそう切れるものではないのですね」


「ふん。雑に扱えば、どれだけ頑丈な弦でも切れるだろうさ」


 店主はぶすっとした顔で、めぐるのことをにらみつけてきた。

 めぐるは恐縮しながら、ベースのケースを担ぎなおす。このように重いものをずっと担いでいたため、いい加減に肩が痛くなっていたのだ。

 すると――店主が険しく眉をひそめた。


「……おい。その指は、何事だ?」


「ああ、これは特訓の成果ですよ。昨日はぶっ倒れるまでお楽しみだったみたいです」


 和緒が軽妙に言葉を返すと、店主の眉間にいっそう深い皺が刻まれた。

 そしてその手がカウンターの裏側をまさぐり、何か平たいものを引っ張り出す。CDケースに似た大きさと形状で、ビニール包装の下には細かい文字やベースの写真がプリントされていた。


「……こいつはラウンド・ワウンドでミディアム・ゲージだが、素材はニッケルじゃなくステンレスだ。ニッケルほどオールマイティではないものの、コバルトよりはクセも強くないだろう」


「お、ついにおすすめ商品のお披露目ですね。これが一番の売れ筋ってことですか?」


「もっともポピュラーなのは、こちらの二つだな。ニッケルならこのブランド、コバルトならこのブランドだ」


 と、店主が新たに二種のパッケージを取り出した。


「これらのブランドでも、ステンレス弦は発売されている。ただし値段は、どちらも三千円前後だ」


「へえ。けっこう値が張るんですね。ちなみに、こちらのおすすめ商品は?」


「これは、八百円だ。ただし、値段の割には品質も悪くない。プロ連中ならまず練習用でしか使わんだろうが、アマチュアの初心者には十分だろう。たった一日で弦を切るような人間には、なおさらにな」


 店主はぶすっとした顔で、そのように言い捨てた。


「元来、楽器というのは力で弾くものではない。ギターよりもパワーが必要とされているベースも、また然りだ。しかし初心者というやつは力の加減がきかないので、なかなか力みも取れないだろう。こいつなら安値だし、ステンレスはニッケルより頑丈だ。それにステンレスは、スラップに向いているとされているからな。こいつを試しに使ってみて、もっとやわらかい音を求めるならニッケル、もっと硬い音を求めるならコバルトを検討してみるがいい」


 和緒が口をつぐんでしまったので、めぐるは慌てて「あ、はい」と応じることになった。


「……ただし、いずれの材質であっても、新品の弦というのは金属的な音色になるものだ。また、弦というのは使っていく内に、表面がなめらかに摩耗していく。お前さんが初心者で使い古しの弦しか知らなかったら、さぞかし違和感を覚えることだろう。だから、数日ばかり弾きこむまで、判断は保留しておけ」


「わ、わかりました。色々とありがとうございます。それじゃあ……そちらの弦をいただきます」


「税込で、八百八十円だ。俺はサービスしたりせんぞ」


 めぐるはへどもどしながら、料金を支払った。

 が、店主はベースの弦を渡してくれない。


「……お前さんは、弦の張り方を知っているのか? 知らないなら、ここで張っていけ」


「え? あ、いや、でも……ご迷惑じゃないですか?」


「ベースの弦というものは、余分な長さをカットするものだ。それに失敗したら、新品の弦も台無しだぞ。八百八十円を、ドブに捨てる気か? ……それに、指板やフレットのクリーニングはすべての弦を外す必要があるため、弦交換のタイミングで行うものだ。お前さんは、クリーニングの手順をわきまえているのか? クリーニングを怠れば、どんな楽器でも音が悪くなっていくものであるのだぞ」


 めぐるは大いに困惑しながら、和緒の長身を見上げることになった。

 しかし和緒は、どこか満足げな面持ちで肩をすくめている。


「あたしのスマホを駆使すれば、あれこれ情報は集められるだろうけどさ。ネットなんかの情報より、プロの意見を頼るべきじゃない?」


 そうしてめぐるはリペアショップの店先で、弦交換やもろもろのクリーニング作業に励むことになってしまった。

 めぐるとしては、落ち着かない限りであったが――ただ、店主のぶっきらぼうな言動も、いつしか気にならなくなっていたのだった。

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