07 不測の事態
その後、めぐるは昨晩習得した練習フレーズを余すところなく披露することになった。
シンコペーションというリズムに変化をつけるフレーズに、音程のないゴースト・ノートというものを織り込んだフレーズ、二音ごとにフレットと弦を移動するせわしないランニングのフレーズ、ハイ・ポジションの高音を使ったメロディアスなフレーズ――いずれも四小節で構成された、短いフレーズばかりである。しかし、音楽の素養など欠片もないめぐるにとっては、それだけのフレーズを暗記――いや、暗譜するだけでひと苦労であったのだった。
「うん。後半に進むにつれて、少しずつ複雑になっていくみたいだね。最後のフレーズなんて、ささやかながらも和音が使われてたしさ」
「わ、わおん?」
「二本以上の弦を、いっぺんに鳴らすことさ。いわゆる、コードってやつだね。ギターなんかは、コード弾きが基本でしょ?」
めぐるが答えられずにいると、和緒はひさびさに溜息をついた。
「あんたの音楽知識は、その教則本の中だけで完結してるわけね。そこに和音やらコードやらの言葉は出てなかったの?」
「う、うん、どうだろう」と、めぐるは教則本のページをめくった。
二本の弦を同時に鳴らしたのは、ハイ・ポジションの高音を使ったメロディアスな練習フレーズだ。その解説欄を確認すると、めぐるの疑問は氷解した。
「ああ、なるほど……このフレーズは、ピック弾きっていう項目でも同じのがあったんだ。そっちには和音って書いてあるけど、わたしはまだ目を通してなかったんだよ」
めぐるがそのように答えると、和緒はわずかに眉をひそめた。
「そういえば、あんたはどうして指弾きなの? ピックを買うお金を惜しんだとか?」
「あ、いや……そもそもわたしは、ピックっていうもの自体を知らなかったんだけど……わたしが観た動画の女の人も、ベースを指で弾いてたんだよね」
ピックとは、平たい三角形の小さな器具である。それを使ってベースを弾く図も写真で掲載されていたが、動画のあの女性がそのようなフォームを取っていないことははっきり覚えていた。
「そっか。あたしの勝手なイメージだけど、指弾きで歌うってのはずいぶん難しそうだよね。あんたもせいぜい頑張りなさいな」
「わ、わたしは歌なんて歌わないよ。そもそもわたしは、歌じゃなくて演奏のほうに心を奪われたわけだし……」
「いちいち赤くなって、あたしの嫉妬心をかきたてないでほしいもんだね」
真面目くさった顔でそんな風に言いながら、和緒はテーブルの上のスマホを操作した。
「それじゃあ、あんたの手の内もわかったことだし、次のステップに進もうか。あんたはそのために、こんな面白くもない場所に遠征してきたんだもんね」
「お、面白くないことはないよ。……例の、ネットで有効な練習法を探そうって話?」
「うん。実のところ、めぼしい情報はすでに検索済なんだよね」
スマホの画面に視線を落としつつ、和緒はそのように言葉を重ねた。
「もちろん基礎練ってのは大事なんだろうから、あんたはその眠くなりそうなフレーズを納得いくまで練習しておけばいいさ。ただそれと同時進行で、別の練習も取り入れてみればいいんじゃないかな」
「うん……たとえば、どんな練習法があるんだろう?」
「あちこちのサイトやブログで目につくのは、とにかく好きな曲をコピーするべしって説だね。好きな曲ならテンションも上がってやる気も倍増だし、単調な練習フレーズだけじゃあグルーブやフィーリングを育むことも難しい――だってよ」
「ぐるーぶ……ふぃーりんぐ……」
「いわゆる、ノリってやつだよ。ただ正確な演奏を求めるなら、機械で打ち込んだほうが早いっしょ? ロックってジャンルには、生きた人間ならではのノリってやつが重要ってことさ」
それでもめぐるがきょとんとしていると、和緒は持ち前の忍耐力でさらに説明してくれた。
「既存の曲のフレーズを練習するだけじゃあ、もちろんノリなんてつかめないよ。でも、それを音源に合わせて練習すれば、プロのミュージシャンがどういうノリを出してるかを学べるでしょ? 楽器を始めたばかりのビギナーには、十分に効果的な練習法なんじゃないのかね」
「そ、そっか。でも、わたしは好きな曲なんて思いつかないし……そもそも、音楽を聴く環境がないんだよね」
「知ってるよ。あんたの部屋には、こたつと扇風機しかないもんね」
大儀そうに身を起こした和緒は、ラックの引き出しから小さな電子機器を取り出した。
「これ、 MP3プレーヤーね。古い型だけど、まだ使えるから。本年のバースデープレゼントでございます」
「ええ? わ、わたし、三月生まれだよ。ついこの間、パフェを奢ってくれたじゃん」
「じゃ、追加のプレゼントだよ。……あんたばっかり恵んでもらうのは心苦しい? じゃ、プレゼントじゃなくて貸してあげる。利息は取らないから、安心しな。あたしはスマホに移行したから、もうこいつは用無しなんだよ」
そんな風に述べながら、和緒はイヤホンと充電器をも引っ張り出した。
「必要な音源は、あたしのパソコンから入力してあげるからさ。これであんたもデジタル人間に一歩前進だ。おめでとう」
「い、いいよいいよ。わたしはまだ、基礎練だけで手いっぱいだから……」
「その基礎練だって、今の環境じゃ不十分なんじゃないの? ちょっとその教則本を見せてよ」
足もとに置かれていた教則本を取り上げた和緒は、適当に開いたページをめぐるのほうに突きつけてきた。
「この練習フレーズ、テンポ90って書かれてるよね。メトロノームも持ってないあんたは、どうやってテンポをキープしてるわけ?」
「テ、テンポよりも、まずはフレーズをきちんと弾けるようにしないといけないから……」
「きちんと弾けるの範疇には、正しいテンポってのも含まれてるでしょうよ」
和緒が再びスマホを操作すると、そちらから奇妙な音色が響き始めた。めぐるも遠い昔に音楽の授業で聞いた覚えのある、メトロノームのクリック音である。
「はい。これがテンポ90だってさ。これに合わせて、さっきの練習フレーズを弾いてごらん」
めぐるは慌ただしく、和緒の命令に従うことになった。
めぐるがこれまで弾いていたのと、さして変わらないテンポである。これならば、問題はないかと思われたが――気を抜くと、すぐに置いていかれそうだった。
「ね? 好き勝手に音を鳴らすのと、規則正しいテンポで音を鳴らすのは、まったく別の話なんだよ。ほらほら、一定のテンポで弦移動するのは難しいでしょ? メトロノームもなしに練習したって、正確性やテンポ感は身につかないんだよ」
「わ、わかったけど……でも、メトロノームとなんとかプレーヤーは関係ないでしょ?」
「ところがどっこい、こいつは無料ツールのメトロノームで、MP3のデータとしてダウンロードすることもできるんだな。で、パソコンのほうでダウンロードすれば、MP3プレーヤーに移すこともできるってわけだね」
めぐるは、大きく心を動かされてしまった。和緒に指摘されるまでもなく、めぐるもいつかはメトロノームを購入しなければならないのではないかと考えていたのである。
「メトロノームで基本的な運指やテンポ感を、曲のコピーで人間のグルーブを育む。今ならこのMP3プレーヤーひとつで、その両方があなたのものに。こんな文明の利器を無料でレンタルできるなんて、見過ごす手はありませんぜ、お客さん」
「……わかった。ありがとう、かずちゃん。いつもいつもお世話になるばっかりで、本当に申し訳ないんだけど……いつか恩返しをさせてね」
「はいはい。今年も猛暑だったら、あんたの扇風機をお借りするよ」
和緒はぶっきらぼうに言い捨てながら身を起こし、デスクの上に置かれていたノートパソコンを立ち上げた。さっそくめぐるのために、何らかの処置を施そうというのだろう。
「ただ……好きな曲っていうのは、やっぱり思いつかないよ。わたしは昔っから、音楽に興味がなかったから……」
「うん。だから、あんたがハートを射抜かれた謎のバンドの正体を突き止めたかったんだけどね。でもまあインディーズやアマチュアだったら楽譜も転がってないだろうし、どっちみち望み薄なのかな」
「うん。今は練習フレーズを頑張るよ。細かいテクニック用の練習フレーズなんて、まだ山積みにされてるからね」
和緒の優しさに心をつかまれためぐるは、昂揚した気分で教則本のページをめくることになった。
「ハンマリング・オン、プリング・オフ、スライド、グリス、ヴィブラート、チョーキング――あ、それに、スラップってやつが、すごく難しそうなんだよね」
「スラップ? あの、弦をぺけぺけ叩いたり引っ張ったりするやつ?」
「うん。わたしが動画で観た女の人も、このテクニックを使ってたんだよね。それが、すごくかっこよくってさ」
めぐるはその奏法も練習していたが、あまりに拙い出来栄えであったため、さきほどは披露しなかったのだ。
4弦や3弦を親指の側面で叩き、2弦や1弦を人差し指で引っ張る。それで普段とはまったく異なる、派手な音を鳴らすことができるのだ。
「わたしはベースの落ち着いた音が好きなんだけど、このスラップって奏法の音もいいなあって思って……すごく難しいから、まだ全然できないんだけどね」
「スラップってのは、ベースソロとかでも使われるみたいだしね。地味なベースの、数少ない見せ場なんじゃないのかな」
「やっぱり、そうなんだね。他のテクニックの練習フレーズよりも先に手をつけちゃったんだけど、すっごく難しくて――」
と、めぐるが戯れに4弦を叩き、2弦を引っ張ると――鋭さと鈍さの入り混じった音色とともに、2弦がべろんと垂れさがってしまった。
何が起きたのか理解できなかっためぐるは、きょとんとベースを見下ろしてしまう。すると、ノートパソコンを操作していた和緒が、うろんげな声をあげた。
「あれ……弦が切れちゃったの?」
「え? え? これって、切れちゃったの? でもまだ、一本に繋がってるけど……」
「でも、コイルがほぐれちゃってるじゃん。こりゃもう修復不可能なんじゃない?」
めぐるは、目の前が真っ暗になってしまった。
「ど、どうしよう! 新しい弦を買わないと! 昨日買ったばかりなのに、もう弦が切れちゃうなんて……」
「中古品は、弦も中古ってことなのかね。でも確かに、たった一日で切れちゃうのはどうなんだろう。……これは、買った店に相談してみるべきじゃない?」
そんな風に語りながら、和緒はにやりと口の端を上げた。彼女が時おり見せる、何か企んでいるような笑顔である。
「か、かずちゃんは、何でそんなに楽しそうな顔をしてるの?」
「いや、あたしもそのリペアショップってのが気になってたんだよね。わざわざ出向くのは面倒だったけど、用事ができたんなら便乗させてもらおうかな」
そうしてめぐると和緒の会合は、開始してから数十分で思わぬ展開を迎えることに相成ったのだった。
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