06 練習の成果
その日の放課後である。
駅から自宅まで自転車で戻っためぐるは、くたびれたパーカーとスウェットパンツに着替えてベースのケースを担いだのち、今度は徒歩で和緒の家を目指すことに相成った。
めぐるの暮らす場所から和緒の家までは、徒歩で七、八分といったていどである。和緒の家は近年に大幅なリフォームをしたらしく、この辺りでは類を見ないほどモダンで小洒落た造りをしていた。
「これはこれは、マイフレンド。今日はいったい何のご用事かな?」
玄関から出てきた和緒は、すました顔でそのように言いたててくる。そのふざけた言い草に、さしものめぐるも苦笑することになった。
「何のご用事って、家に誘ってくれたのはかずちゃんでしょ?」
「そうだったっけ。寄る年波で、すっかり記憶力が低下してさ」
そのように語る和緒も、ジャージ素材のルームウェア姿である。和緒は自宅から最寄り駅までバス通学であるため、めぐるよりもひと足先に帰りついていたはずであった。
「まあ、過去の自分がそんな約束をしたんなら、追い返すわけにもいかないか。親が戻ってくるのは十時ぐらいだから、リミットはそれまでね」
「うん。お邪魔します」
燦々と日光の差し込む玄関を通って、木目の綺麗な階段をのぼり、和緒の部屋を目指す。和緒の部屋は八帖ほどで、必要な調度がまんべんなく揃えられているといった印象で――あまりに小綺麗であるためか、いつ見ても生活の気配が希薄であった。
「さ、それじゃあまずは、昨日の成果を聴かせていただこうか。寝る間も惜しんで指がボロボロになるほど猛特訓したんだから、さぞかし上達したんだろうねぇ」
「そ、そんなプレッシャーかけないでよぅ」
めぐるはラグマットの上に腰を下ろし、ケースの中からベースを取り出した。
朝に見たときと変わりのない、ペパーミントグリーンの曲線美である。めぐるがしばしその姿に見とれると、和緒がすかさず声をあげてきた。
「うっとりって形容詞がぴったりの目つきだね。こいつは重症だ」
「う、うるさいなぁ。それだけ愛着がわいたんだから、いいでしょ?」
「ひと晩で熱が冷めるよりは、上出来かもね。さあさあ、準備を進めなさいな」
「う、うん。それじゃあまずは、チューニングからね」
めぐるはケースの小物入れから、チューナーとシールドを取り出した。昨晩和緒が述べていた通り、このチューナーという器具をシールドで繋げることによって調音をすることができるのだと、古びた教則本にもそのように記載されていたのだった。
「あ、そうだ。ちょっと待っててね」
と、めぐるは小物入れから第三のアイテムを取り出した。
それを目にした和緒が、うろんげに眉をひそめる。
「軍手なんて、何に使うの?」
「う、うん。このまま弾くと絆創膏が破れて、弦がべたべたになっちゃうから……途中から、軍手をはめることにしたの」
「うわ……美意識の欠片も存在しないね。こりゃあロックスターなんて、夢のまた夢だわ」
「だから、そんなの目指してないってば」
ひとまずめぐるは右手にだけ軍手を着用し、チューニングを開始することにした。
このひと晩で、めぐるもベースの各パーツの名称を学ぶことができている。先端部がヘッド、それに続く細長い部分がネック、そして本体がボディである。弦はボディの下部にあるブリッジというパーツに固定されており、音を電気信号に変換するピックアップというパーツの上を通り、細長いネックを通過したのち、ヘッドのペグというパーツに巻きつけられている。そうしてペグのつまみを回すことで弦の張り具合を調節し、望みの音程に調音するのだ。
黒いシールドでベース本体とチューナーを繋ぎ、チューナーの電源をオンにしてから、まずは一番上の太い弦を弾く。直径が二ミリ以上もありそうな、4弦――あるいは、E弦と呼ばれる弦である。
ギターやベースにおいて、音階というものは英語で表記されるらしい。ドの音がCであり、Eとはすなわちミの音だ。ベースでは4弦をE、3弦をA、2弦をD、1弦をGに調音するのだった。
ベースの太い弦を弾くと、軍手をしていてもわずかに疼くような痛みが走る。
だが、それで響きわたる重々しくも澄んだ音色が、めぐるの心を優しく満たしてくれた。
昨晩和緒も語っていた通り、ベースというのはギターよりも低い音色を奏でる楽器であるのだろう。日常ではあまり耳にしないような――それに、音楽の授業などでもなかなか耳にした覚えがないような、それは甘くてやわらかい音色であった。
弦は金属製であるので、ほどほどに硬くて冷たい要素も存在する。しかしそれ以上に、ボンボンと鳴る低音の響きが、めぐるには心地好く思えてならなかった。しかもそれは耳ばかりでなく、ベースのボディに触れているめぐるの肉体そのものに反響しているようであったのだった。
「……なんか、チューニングしてるだけで幸せいっぱいってお顔だね。これは本気で、あたしの存在理由が脅かされそうだなぁ」
「な、なに言ってんのさ。かずちゃんは、わたしにとってただひとりの友達だよ」
「お、ひさびさにその小っ恥ずかしい単語を口にしてくれたね、マイフレンド。まあ、浅ましい嫉妬心や独占欲は脇に置いておくから、さっさと超絶プレイをお披露目してよ」
「だからそんな、いきなり弾けるわけないってば。わたしはこのひと晩で、ベースっていう楽器の難しさを思い知らされちゃったもん」
無事にチューニングを終えためぐるは、左手にも軍手を装着した。
「まずね、弦が太くて押さえるのが大変だから、まともに音を鳴らすのも難しいの。血豆ができるだけじゃなく、小指や薬指がつりそうになっちゃって……」
「ギターはギターで小難しそうな印象だけど、ベースにはパワーとかも必要っぽいよね。発育不良のあんたは、なおさら大変だ」
「うん。わたし、握力も二十キロしかないからなぁ。……下手でも、笑わないでね?」
めぐるは呼吸を整えつつ、ベースを構えなおした。
右手はフロントのピックアップに親指を乗せる形で固定し、左手は細長いネックを支える。ベースに触れている箇所から感じられる重量感が、何とも言えず心地好かった。
ネックの表面には指板というものが張られており、それがフレットという金属のパーツで区切られている。その区切られたスペースで弦を押さえることで、望みの音階を奏でるのだ。ヘッドにもっとも近いポジションがフレット1で、こちらのベースには20のフレットが存在する。ベースには四本の弦があるので、フレットを押さえない開放弦というものも含めると、四十四もの音階を奏でることが可能なわけである。
ただ実際には、重複している音階が多い。何せベースというものは、四本の弦のあちこちで音階が重複しているのだ。基本的には、それぞれの弦の開放弦とひとつ上の弦の5フレット目が同じ音階であり――そう考えると、4弦の4フレット以前と1弦の6フレット以降の音階を除けば、必ずどこかで重複しているわけであった。
さらにめぐるは教則本を熟読することで、ひとつの真実に行き当たった。
このベースの音階というものは、要するにピアノの白鍵と黒鍵を4×20のマス目に並べたものであったのだ。
ピアノなどの鍵盤においては、白鍵をなぞることでドレミの全音を奏でることができる。黒鍵は全音よりも半音高いシャープの音階だ。それがベースにおいては白黒の区別もなく、ただ横一列に並べられているのである。それを理解したとき、めぐるは何て単純かつ小難しい楽器なのだろうと痛感させられたわけであった。
(すべての音階にシャープがあればまだしも、ミとファの間とシとドの間にはシャープがないんだもんなぁ。ドレミを弾くのに頭を使うことになるなんて、想像もしてなかったよ)
ただし、教則本においてオタマジャクシを読む必要はなかった。その音階を示すフレットの数字が表記されているため、その通りに指を動かせばいいのだ。この数字で表記された楽譜を、タブ譜と称するとのことであった。
それでめぐるは、まず教則本のレッスン1に記載されていたフレーズを披露することにしたが――こちらでは、フレットを押さえる必要がなかった。ただ四本の開放弦を上から順番に八回ずつ弾いていくだけのフレーズであったのだ。
しかしこれが、思いのほか難しい。
ベースを指で弾く場合、右手の中指と人差し指を交互に動かすわけであるが――それで均一の音を鳴らすというのが、きわめて困難なのである。
ともすれば、中指のほうが深く当たって音が大きくなってしまう。理由はごく単純で、中指のほうが長いためである。それを調節するために手の角度を傾けているのだが、しっかりフォームが固まらない限りは音の粒をそろえることも難しいようであった。
弦を弾く指は力まないように自然な形で、指の根もとを動かすことで指先を弦にぶつける。第一関節や第二関節を動かして引っかくように弾くのはNGで、指を二本の棒に見立てて弦にヒットさせましょうと、ワンポイントアドバイスの欄にはそのように記載されていた。
そうして上から順番に八回ずつ弾いていき、1弦まで終了したならば4弦に舞い戻る。1弦から4弦までの距離は十センチもないぐらいであるのに、この縦移動さえもがめぐるには難しく思えてならなかった。
とりあえずそのフレーズを三セット繰り返したのち、めぐるは上目づかいに和緒のほうをうかがう。
が、和緒は無言かつ無表情だ。何せ左手をいっさい使わない練習フレーズであったため、感想の述べようもないのだろう。めぐるは何となく居たたまれない気持ちで、次のフレーズに移行した。
レッスン2は、ルート弾きと名付けられた練習フレーズである。
人差し指で3フレットを押さえて、八回引く。中指で4フレット、薬指で5フレットと続き――小指は6フレットを四回引いたのち、残りの四回は2フレットに移動させる。なんとも意地の悪いことだが、この意地の悪さが左手の横移動のトレーニングであるのだろう。
さきほども弱音を吐いた通り、薬指や小指で弦を押さえるというのは、大変な苦労である。
ただ、音の粒をそろえるという意味では、開放弦よりもむしろ楽であるのかもしれない。開放弦というのはやたらと音が反響してしまうため、ミスタッチが如実にあらわにされてしまうようだった。
しかしその代わりに、指板を押さえる左手の加減で、鳴りが大きく変わってしまう。押さえる力が足りないと、弦が手前のフレットにこすれて、がびがびと濁った音をたててしまうのだ。
こちらのフレーズも、4弦から1弦まで同じ動きを繰り返す。
めぐるとしては、一番しっくりくるのは3弦であった。4弦は太いためにしっかりと押さえるのが難しく、2弦や1弦は細いために暴れやすいようであるのだ。それに、弦が細いゆえに指先に食い込んで痛いという面もあった。
絆創膏と軍手で二重にガードをしていても、弦を弾いたり押さえたりするたびに疼くような痛みが走り抜ける。なおかつ、これまでの人生に存在しなかった動きを強いられているために、指や手の筋が引きつるように痛かった。
ただ――めぐるには、この痛みさえもが心地好い。ベースの音色もお粗末そのものであったが、やっぱりこのやわらかい低音はめぐるの心を和ませてやまなかった。
「と、とりあえず、基本の練習フレーズはこんな感じだよ」
そちらのフレーズも三セット繰り返してから、めぐるはそのように伝えてみせた。
クッションの上であぐらをかいた和緒は、いつも通りのクールな眼差しでめぐるの顔を見据えている。
「……びっくりするぐらい単調なフレーズだね」
「う、うん。これは本当に、基礎の基礎なんだろうからね。わたしには、これでも十分に難しいし……」
「そうだね。でも、あたしが何よりびっくりしてるのは、そんな退屈な練習をそんな幸せいっぱいの表情で取り組んでる、あんたのメンタルかな」
そう言って、和緒はひょいっと肩をすくめた。
「しかもあんたは眠くてぶっ倒れるまで、そんな退屈な反復練習に取り組んでたわけだもんね。その図を想像したら、なんか怖くなってきちゃった」
「ど、どうしてさ。別にいいじゃん」
「別にいいよ。あんたの幸せそうな顔なんて、そうそう見られるもんではないからね」
そんな風に言いながら、和緒は目だけで微笑んだ。
「じゃ、お次のステップにどうぞ。まずはあんたの手の内を、残らず見届けてさせていただくよ」
「も、もう。やりづらいなぁ」
めぐるはついついそんな言葉を返してしまったが、実のところは満ち足りた気分であった。めぐるとしてはベースを弾いているだけで楽しい心地であるのに、今はそこに和緒まで同席してくれているのだ。それは生きる目的を見失っているめぐるにとって、この世でただふたつの大切な存在が居揃っている状態であったのだった。
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