04 異物

「まさか、ギターとベースの区別もつかない人間が、八万円も出すとはね」


 和緒は無事に、すっかり呆れ返ったようであった。

 大事な楽器を両手で抱えつつ、めぐるはいっそう小さくなってしまう。


「わ、わたし、ほんとに音楽とかに興味がなかったから……ベースって、ギターとは違う楽器なの?」


「うーん。たしか正式名称はエレクトリックベースギターっていうんだろうから、ギターの一種ではあるんだろうけどね。でも、普通のギターとは完全に別物だよ。ギターよりも低音で、バンドサウンドの土台を支える楽器なの。ギターやキーボードなんかが上物で、ベースとドラムはリズム隊とか言われてるはずだね」


「へ、へえ。かずちゃんは、楽器とかバンドとかにも詳しいんだね」


「そんなもん、詳しい内に入らないと思うけどね。あんたがひと目惚れした女ヴォーカルさんは、本当にそいつを弾いてたの?」


「う、うん。間違いなく、これだったよ。他に似たようなデザインの楽器はなかったもん」


「そりゃあまあ、ベース&ヴォーカルってのも、別に珍しいもんじゃないけど……あんたは歌よりも、楽器のプレイに引き込まれたって話じゃなかったっけ? 普通、ベースの音ってそんな前面に出るもんじゃないはずなんだよね」


 和緒は疑わしげに眉をひそめつつ、ポケットからスマホを取り出した。


「ワイファイのない場所で、あんまり使いたくないんだけどなぁ。……あんたが心を奪われたのは、なんてバンドなの? ちょっとこいつで検索してみるよ」


「え? バンド名は、覚えてないっていうか……最初から、確認してなかったけど……」


 和緒はスマホを握ったまま、こたつの上に突っ伏した。


「あんたはそれだけ衝撃を受けながら、バンド名を確認しようって気にもならなかったの? いったいどういう精神構造をしてるのさ?」


「だ、だって……気づいたら、もうネカフェを飛び出しちゃってたし……」


「あっそ。だったら、別の方向からアプローチするしかないか」


 和緒は身を起こしつつ、めぐるの抱えた楽器の先端部を覗き込んだ。


「アール、アイ、シー、ケー、エー、エヌ……これ、なんて読むの?」


「わかんない。……あ、でも店員さんが、リッケンバッカーとか言ってたような……」


「リッケンバッカーね。まあ、それで無理なら原文で打てばいいだけか」


 和緒はしなやかな指先で、スマホを操作した。


「お、あっさりヒットした。そんじゃあ、画像検索、と。……んー、4001とか4003とかって型番があるみたいだけど、ベースはどれも似たようなデザインをしてるみたいだね」


「あ、店員さんは、4001って言ってた……かも」


「なるほど。で、リッケンバッカーのギターってのは、ずいぶんデザインが違うんだな。……お、だけどこいつは、ボディの形がそっくりかも。あんた、こいつと見間違えたんじゃないの?」


 和緒の差し出すスマホには、確かにめぐるが抱きしめているのとよく似た形をした楽器が表示されていた。しかもカラーリングは、あの女性が使っていたのと同じブラックである。『Rickenbacker / 480JG』という名前で、こちらも中古品であるようであったが、販売価格は三十六万五千円と記載されていた。


「うん、確かにそっくりだね。でも……頭のデザインが、違うみたい」


「頭のデザイン? ぱっと見、同じように見えるけど?」


「ほら、ここのこれだよ。この画像だと、頭の左右に出てる銀色の部品が六つあるでしょ? あの女の人が使ってたのは、この部品が四つだったもん」


「……それを先に言いなさいな。弦が四本なら、ベースで確定じゃん。その部品はペグって言って、見ての通り弦を巻き取るパーツなんだよ」


 そんな風に語りつつ、和緒はさらにスマホを操作した。


「ふーん。リッケンバッカーってのは、けっこう由緒のあるブランドみたいだね。ビートルズとかの大御所バンドも、リッケンバッカーのギターやベースを使ってたみたいだよ」


「そっか。だから新品は、あんなに高いんだね。わたしはこの子と巡りあえて、ラッキーだったよ」


「……後悔どころか、ラッキー呼ばわりか」


 和緒はスマホをポケットに仕舞い込み、あらためてめぐるの顔を見据えてきた。


「で? あんたは名前も知らなかったその楽器を、どうやって練習しようっての?」


「あ、ショップの店員さんがね、サービスで教則本をつけてくれたの」


 ケースの表側についた小物入れから、めぐるはその教則本を引っ張り出した。

 そちらの表紙を目にするなり、和緒は軽く眉をひそめてめぐるの頭を小突いてくる。


「あのさ、ここにもしっかり『初心者のためのベース入門』って書いてあるじゃん」


「あ、ほんとだね。あのときは舞い上がってたから、ちっとも気づかなかったよ」


「……あんた、ここ数年分の鬱屈を燃料にして、ぞんぶんに舞い上がってるみたいだね」


 こたつに頬杖をついた和緒は、放置されていたいなりずしを口の中に放り入れた。


「まあいいや。あんたの爆散っぷりは、あたしが看取ってあげるよ。他にはどんなもんをいただいてきたの?」


「えっとね、なんて言ってたかな……おまけで色々とつけてくれたんだけど……」


 めぐるは小物入れに収納されていたものを、すべて引っ張り出すことになった。

 謎のコードが一本、謎の小さな器具が一点、あまり謎のなさそうな布切れが一枚である。練習の後にはこのクロスという布切れで楽器を清めるべしと、めぐるは女性店員からそのように言い渡されていた。


「シールドにチューナーね。たぶんベースをシールドでチューナーに繋いで、チューニングするんだよ」


「ちゅ、ちゅーにんぐ?」


「楽器の音を調律するんだよ。それぐらいは、想像つくでしょ?」


「よ、よくわかんないや。わたし、縦笛とか鍵盤ハーモニカとかしか、さわったこともないから」


「あたしだって、知ったかぶりだけどね。わかんないことは、教則本を頼りなよ」


 そんな風に語りながら、和緒はやおら身を起こした。


「じゃ、あたしはそろそろ帰ろっかな。残ったやつは、あんたが食べていいよ」


「え? もう帰っちゃうの?」


「あんたはこれから、愛しのベース様と蜜月を過ごすんでしょ。だったら、あたしなんて邪魔者じゃん。それじゃあ、また明日ね」


「う、うん。気をつけて帰ってね」


 和緒は後ろ向きに手を振りながら、さっさと離れを出ていってしまった。

 普段であれば、めぐるも小さからぬ寂寥感にとらわれるところであるが――本日は、新たな闖入者が存在する。あらためて、めぐるはその姿を見下ろすことになった。


 何回見ても、愉快な形である。レトロなような、近未来的なような――古い時代にイメージされた近未来的なデザイン、とでも言うべきであろうか。そういえば、こちらのベースは1980年製であるという話であったから、めぐるの三倍近い時間を生き抜いているのだった。


 左右非対称のボディは明らかに他のギターよりも極端な曲線を描いており、四つのツマミや小さなスイッチ類などは、工業用品のようにも玩具のようにも見える。くすんだペパーミントグリーンの本体に、部分的に貼られたプラスチックの白いカバー、ボディの曲線を縁取る黄ばんだライン、黒いツマミやスイッチ類、銀色をした金属製の弦――まったく用途もわからないまま、それらの造形がめぐるの心を浮き立たせてやまなかった。


(わたしがこんな立派な楽器を弾きこなせるとは思えないし、弾きこなせたところで何がどうなるわけでもないけど……こんなに楽しい気分なら、それでいっか)


 めぐるはついに、そんな放埓な気分まで授かることになってしまった。

 そして、めぐるがそんな心境に至ったのは、やっぱり和緒のおかげであるのかもしれなかった。


 無駄遣いは、ストレス発散――和緒が何気なく口にしたその言葉が、めぐるの心にくっきりと残されていたのだ。

 めぐるはべつだん、日々の生活にストレスを感じているわけではない。ただ、めぐるの人生というのは三年前から起伏を失い、大きな喜びも大きな悲しみもなく、時間がゆるゆると体の外側を流れ過ぎていくような感覚で――死にたい理由もない代わりに、生きたい理由も曖昧にぼやけてしまっていたのだった。


 そんなめぐるの茫漠とした人生を、このペパーミントグリーンの存在が脅かした。良きにつけ悪しきにつけ、これはめぐるの心に割り込んできた異物であったのだ。

 そして、めぐるがこのような異物を自分の中に迎え入れるのは――二年前に、和緒と出会って以来のことであったのだった。


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ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

明日からはしばらく毎日一話ずつ更新していく予定です。

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