03 侘しい我が家
『リペアショップ・ベンジー』を後にしためぐるは、黒いケースに収納された楽器を背負って家路を辿ることになった。
このようなものを背負っていては、自転車をこぐこともままならない。しかし自転車を置いて帰ることはできなかったので、春先に大汗をかきながら二十分ばかりも夜道を歩くことになったわけであった。
こちらの楽器の重量は、きっと四キロや五キロばかりもあるのだろう。ケースのベルトが肩に食い込んで、痛いほどである。それで自転車まで押して歩くというのは、苦行という他なかった。
しかし、めぐるの心臓は不規則に跳ね回ったままである。大事な貯金を切り崩してしまった罪悪感と、目当ての楽器を購入できた昂揚と、自分の不可解な行動に対する不審の念が、めぐるの情緒を乱しに乱していたのだ。
ただ――何故だか、後悔だけはしていなかった。
とんでもないことをしてしまったという惑乱の思いが、そのままめぐるを昂揚させている。めぐるがこれほど我を見失ったのは、おそらく三年前に家族を亡くして以来のことであった。
(まああのときは、楽しい要素なんてひとつもなかったけど)
三年前、めぐるが中学への入学を控えていた春休み。両親と弟が亡くなった。彼らは熱を出して寝込んだめぐるを家に置いて、家族旅行に出発し――その道中で、玉突き事故に巻き込まれてしまったのだった。
それ以来、めぐるは父方の祖父母の世話になっている。母は天涯孤独の身であったため、めぐるにとってはそちらの両名が最後に残された肉親であったのだ。
ただし祖父母は、心の底からめぐるのことを疎んでいた。どうやらめぐるの父親は祖父母の猛反対を押し切って結婚したあげく、実家の資産を持ち逃げしたようであるのだ。祖父母にとってのめぐるというのは、大事な一人息子をたぶらかした性悪女と、性悪女にたぶらかされて自分たちを裏切った馬鹿息子の娘、という存在であったのだった。
「お前なんかを養う気はない。寝起きする場所だけは貸してやるから、二十歳になったらとっとと出ていけ」
三年前、めぐるは熱に浮かされながら、初めて対面する祖父にそんな言葉を投げつけられることになった。
そうして現在、めぐるは祖父母の家の離れで暮らしている。金銭的な援助は一切なく、遺族年金だけで生活費をまかなっているのだ。多少ながらは遺産というものも存在したのだが、そちらは中学校と高校の学費で綺麗につかい切る計算になっていた。
まあ、路頭に迷うことにはならなかったのだから、めぐるもそうまで不満に思っているわけではない。ただ、自立の日に備えて生活費は切り詰める必要があり――本日めぐるは、その大切な貯金を大きく切り崩すことに相成ったわけであった。
(まあ、高校を出たらすぐ働くつもりだし、二年ぐらい働いたら一人暮らしの資金は貯められる……と思うんだけど)
そんな思いを抱え込みながら、めぐるはひたすら夜道を歩いた。
めぐるが住まっているのは千葉県さくら市の北西部に位置する、いわゆるニュータウンという区域で、通りにはどれも似たようなサイズをした建売の家屋がずらりと並んでいる。ただし、こちらのニュータウンが開発されたのはもう四十年以上も昔日の話であるとのことで、大々的にリフォームした家屋とそうでない家屋が入り混じり、一種独特のひなびた雰囲気を醸し出していた。
しばらく歩くと、ようやく祖父母の家に面する通りに辿り着く。
それでめぐるがくたびれ果てた体に鞭打って、歩調を速めようとしたとき――ふいに横合いの通りから、クールな声を投げかけられてきたのだった。
「おかえり。そんな大荷物で、どうしたの?」
めぐるは、心から仰天してしまった。
それはめぐるにとってただひとりの友人となる、
「か、かずちゃん? こんなところで、何やってんの?」
「夜食の買い出し。この時間ならちょうどあんたと出くわすかなと思って、回り道をしてみたんだよ」
めぐるが本日ネットカフェに出向くことは、雑談の折に語っていた。そしてめぐるが月に一度の贅沢として午前十時から午後七時まで九時間コースのデイパックを利用することも、彼女はすっかりわきまえていた。それで本日は予定よりも早くネットカフェを飛び出していたが、その後の諸々の事情によって、おおよそいつも通りの帰宅時間になっていたわけであった。
「で、それは何? 見たところ、ギターケースみたいだけど」
「う、うん。これにはちょっと、事情があって……」
「事情って? ゴミ置き場から拾ってきたとか?」
和緒は、容赦なく問い詰めてくる。格好いいショートヘアで、すらりと背が高くて、切れ長の目が印象的な彼女は、めぐるから見ても王子様のように魅力的な容姿であるのだが――こういう際には、少なからずおっかなく見えてしまうのだった。
「ま、いいや。ひさしぶりに、あんたの部屋に寄らせてもらおうかな。何か面白い話でも聞かせてくれたら、食べる物を分けてあげるよ」
そんな風に言いながら、和緒は手にさげていたコンビニの袋を持ち上げた。彼女の家は両親が多忙であるため、おおよその食事は外食でまかなっているのだ。
もともと大汗をかいていためぐるは、冷や汗をかきながら歩を再開させる。これから和緒がどれほど呆れた顔をすることになるかと想像しただけで、めぐるは胃の縮むような思いであった。
めぐるは宮城県の仙台市で生まれ育った身であるが、家族の死とともにこの千葉県の片隅に転居することになった。小学校時代のクラスメートとは音信不通になり、中学校時代には他者と交流する気分にもなれなかったため、友人と呼べるような存在はこの和緒ただひとりである。どうして和緒とだけ親密になれたかというと――それはひたすら、彼女が物好きであるからとしか言いようがなかった。
(かずちゃんに嫌われたら、さすがにちょっとしんどいかな……)
そんな風に考えると、めぐるはますます胃が重くなってきた。
いっぽう和緒は普段通りの颯爽とした足取りで、夜道をすたすたと歩いている。何の飾り気もないTシャツとチノパンツにカーディガンを羽織っただけの姿であるが、彼女の魅力はこれっぽっちも損なわれていなかった。
そうして街路を進んでいくと、やがて祖父母の家が見えてくる。祖父母の家はとりわけ古びているが、この辺りの家屋にしては珍しく広々とした庭があり、その庭にめぐるの暮らす離れが存在するのだ。
表門をくぐることは禁じられているので、裏門から離れへと直行する。その間、めぐるはずっと現状を打破するための解決策を思案していたが、何か思いつく前に離れに到着してしまった。
こちらの離れは後から増設されたようであるが、古びていることに変わりはない。四角い物置のような外見で、苔むした石灯籠が門番のように立ちはだかっている。そのかたわらに自転車をとめためぐるは、なすすべもなく玄関を開くことになった。
玄関脇のスイッチで照明を灯すと、四畳半の見慣れた光景が蛍光灯の光に照らし出される。こちらの離れにはトイレとキッチンとシャワールームが完備されていたものの、居住スペースはこの一間のみとなる。ただしめぐるは持ち物が少なかったので、べつだん不便は感じていなかった。調度などと呼べるのは、こたつと扇風機と教科書の詰まったカラーボックスのみであったのだ。
「相変わらず、殺風景なお部屋だね」
めぐるに続いて土間に踏み込んだ和緒は、そのように言いたてた。
「こんな離れに押し込められて、食費や学費の面倒も見てもらえないなんて、完全に児童虐待の域だと思うよ。行政に訴えたら、勝てるんじゃない?」
「う、うん。だけど、家賃や光熱費はかからないし、なんだかんだで平和にやってるから……たぶん、悪いのは父さんたちのほうだったんだろうし……」
「親の因果が子に報う、か。それを報いるのが実の祖父母ってのが、いまひとつ納得いかないけどね」
めぐると和緒が出会ったのはもう二年も前の話であったため、こういった会話も何度となく繰り返されている。しかし、和緒は変に深刻ぶることもないし、人を見下すような気配も皆無であるため、めぐるにはたいそう居心地がよかったのだった。
めぐるを追い抜いて入室した和緒は、さっさとこたつにもぐり込む。そうしてこたつの上にコンビニ袋の中身をぶちまけつつ、切れ長の目でめぐるを見上げてきた。
「あんたも腰を落ち着けたら? その重そうなもんも、さっさと下ろしてさ」
「う、うん」と応じつつ、めぐるは空いているスペースに背中の大荷物をそっと横たえた。
和緒はサンドイッチの封をあけながら、めぐるの顔と黒いケースを見比べる。
「それじゃあ、聞かせてもらおうか。面白かったら、これをひとつあげるよ」
「あ、いや、おなかはそんなに空いてないから……」
「へえ。今日もしこたま、ネカフェでドリンクバーをあさってきたってわけ? でも、ココアやコーンスープや味噌汁ばっかりじゃ、栄養が足りないんじゃないのかな」
めぐるの行動は、すべて筒抜けである。そしてそれは、めぐるがこれまで自分の行動を包み隠さず打ち明けてきた結果であった。
小学生と中学生の境目で大きくつまずいためぐるは、おそらく人格の形成にしくじっている。それを許容してくれたのは、この三年間で和緒ただひとりであり――だからこそ、めぐるも和緒の前ではすべてをさらけ出すことができたのだ。
和緒と本音で語り合えなくなるならば、それは和緒を失うのと同義である。
よって、めぐるはすべてを正直に語るしかなかった。
「へえ……動画サイトで、ライブ映像をねぇ。そもそも音楽に興味のないあんたが、どうしてそんなもんを観賞することになったの?」
「う、うん。横っちょに表示されてた関連動画を、間違ってクリックしちゃったんだよね」
「ふうん。何の動画の関連動画だったの?」
「ええと……たしか、普通に猫動画とかだったはずだけど……たぶん、同じ人がアップロードしてたんじゃないかなぁ」
「猫動画にライブ動画とは、無節操なお人だね。で、そいつにひと目惚れしたあんたが、そのバンドと同じギターを衝動買いすることになった、と」
感情の読めない声音でつぶやきながら、和緒はタマゴサンドをめぐるに差し出してきた。
「まあまあ面白かったから、ひとつあげる」
「あ、ありがとう。……まあ、わたしがギターなんて弾きこなせるとは思えないけど……普段は時間を持て余してるから、趣味のひとつぐらい持ってもいいのかなって……」
めぐるがそのように言葉を重ねると、和緒は眉をひそめつつこたつの上に身を乗り出した。
「今のは、後付けの言い訳でしょ? あたし相手に言い訳したって、意味なくない?」
「べ、別に言い訳ってわけじゃ……ただ、自分を納得させたいだけだよ」
「納得って? 別にいいじゃん、衝動買いの無駄遣いで。人間にとっての無駄遣いってのは、ストレス発散の一環でもあるんだからさ。きっとあんたには、衝動やらストレスやらが蓄積されてたんだよ」
そんな風に語りながら、和緒はいなりずしの封をあけた。
「で? その素敵なギターとやらは、いくらだったの?」
「そ、そんなに高くなかったよ。このギターは、中古らしいしね」
「そりゃあそうでしょ。食費を切り詰めるようなあんたのやることだからね」
タマゴサンドをかじりかけていためぐるは「うー」と頭を抱え込むことになった。
「ごめん。嘘。すごく高かった」
「あん? なんでそんな嘘をつくのさ」
「かずちゃんに、呆れられると思ったから……でも、嘘をついた罪悪感で押しつぶされそう」
和緒は溜息をこぼしながら、めぐるの頭を小突いてきた。
「あんたがどれだけ無駄遣いしたって、あたしが怒る筋合いじゃないよ。それじゃあ、めいっぱい呆れさせてもらおうか。あんたは弾けもしない中古ギターに、いくら出したの?」
「……はちまんえん」
和緒の動きが、ぴたりと止まった。
「うん。呆れるよりも、驚いた。あんたほどの節約魔じゃなくっても、そいつはちょっとためらうような金額だね」
「うん……だからわたしも、わけがわかんなくって……本当に、正気を失ってたとしか思えないんだよね……」
「だったら、返品すれば? あたしが店員を適当に言いくるめて、大事な貯金を取り返してあげるよ」
和緒の力強い発言に、めぐるは言葉を失うことになった。
和緒はしばしめぐるの顔を見据えてから、しなやかな肩をすくめる。
「返品する気はないわけね。だったら、いいじゃん。思うぞんぶん、ギターヒーローでも目指しなさいな」
「わ、わたしなんかには無理だよぅ。でも……リペアショップの店員さんも、カウンターでギターを弾いててね。あんなにすらすら弾けるようになったら、きっと気持ちいいんだろうなぁ」
「そんなの、練習しだいでしょ。それじゃあそろそろ、あんたの相棒を紹介してよ」
「ええ? でも、ちょっと……恥ずかしい、かな?」
「何を赤くなってんのさ。確かに今日のあんたは、正気を失ってるみたいだね」
和緒はうっすらと苦笑を浮かべつつ、まためぐるの頭を小突いてきた。
それに背中を押されるようにして、めぐるはケースに手をかける。実のところ、めぐるは帰路を辿るさなかから、ケースの中身を取り出したくてずっとうずうずしていたのだった。
側面のジッパーを全開にすると、その隙間からくすんだペパーミントグリーンの色合いが覗く。
めぐるは胸を高鳴らせつつ、可能な限り丁寧な扱いで楽器を取り出してみせた。
「ど、どう? 前の持ち主さんが勝手に色を塗り替えたって話だけど、けっこう綺麗な色合いでしょ? ライブ映像では黒いギターだったけど、わたしはこの色も気に入ってるんだよね」
和緒は珍しくも、切れ長の目をぱちくりとさせていた。
「色は別に、どうでもいいけど……それが本当に、あんたの欲しかった楽器なの?」
「う、うん。何か変かなぁ?」
「変じゃないけど……それ、ギターじゃなくって、ベースだよ」
今度は、めぐるが目をぱちくりさせる番であった。
「……べーすって、何?」
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