02 邂逅

 気づくとめぐるは、薄暗い路地に足を踏み入れていた。

 日に二度も我を失うというのは、由々しき事態である。しかしめぐるはこの心臓の高鳴りをおさめない限り、自転車をこいで家に帰る気持ちにもなれなかったのだった。


(そもそも看板に描かれてたからって、あのギターが売ってるとは限らないよね。たとえ売ってたとしても、きっとわたしが手を出せるような値段じゃないよね)


 そんな言い訳めいた言葉を頭の中でリフレインさせながら、めぐるは路地を進み続けた。

 その最果てに、目的の店が待ちかまえている。薄暗い路地の奥にぼんやりと光るその姿は、どこか誘蛾灯を連想させてやまなかった。


 店の前面はガラス張りになっており、その下半分は店内に積み上げられたダンボールの山で隠されてしまっている。倉庫か何かを思わせる様相だが、ガラスのドアには確かに『リペアショップ・ベンジー』の店名がペンキでペイントされていた。


 めぐるは腰を屈めて身をひそめつつ、ダンボール越しに店内の様子を盗み見る。

 するとまた、心臓が大きくバウンドすることになった。

 店内には正体の知れない荷物が山積みにされており、正面の壁に何本かのギターが掛けられているばかりであったが――その内の一本が、まぎれもなく例のギターだったのである。


 めぐるは衝動のおもむくままに、ガラスのドアを開くことになった。

 ドアからカウンターまでは一本道で、左右のスペースはダンボールやコンテナボックスや正体不明の機材の山に埋め尽くされている。入店したからには、まず正面のカウンターを目指すしかないようであった。


 そのカウンターでは、店員と思しき女性がギターを爪弾いている。

 ギターの生演奏を初めて耳にしためぐるは、また心臓を騒がせることになってしまった。

 いっぽう女性店員のほうはギターを弾く手を止めないまま、「いらっしゃいませぇ」とけだるげな声を投げかけてくる。


「修理の注文かなぁ? だったら、そこのシートに記入してねぇ。今、店主のじーさまは工房にこもってるからさぁ」


 それは二十歳そこそこの、綺麗な顔立ちをした女性であった。

 ただし、肩まで届くぐらいの髪は真っ赤に染めており、左右の耳にはいくつものピアスがあけられている。ボロギレのように穴だらけのニットセーターは黒と紫のボーダーで、その手のギターは髪と同じ色合いをしていた。

 それに、美人は美人であるのだが、何だか眠たそうにまぶたが下がり気味で、いかにも面倒くさげな態度である。めぐるが得体の知れない衝動というものを携えていなかったら、決して自分から関わりたいと思えるような相手ではなかった。


(でも……すごくギターが上手いみたい)


 口調や態度はけだるげであるのに、その指先だけは別の生き物のようななめらかさで美しい音色を奏でている。さきほどネットカフェでめぐるを戦慄させたのは雷鳴のごときエレキサウンドであったが、電気を通さないギターの音色というのも、決して悪いものではないようであった。


「……聞こえたかなぁ? 修理の注文は、そっちのシートにお願いねぇ」


 彼女の細やかな指使いに見とれていためぐるは、慌てて居住まいを正すことになった。


「あ、いえ、修理の注文……では、ないんですけど……」


「じゃ、何かなぁ? うちは楽器の修理屋だよぉ。メンテやカスタマイズも請け負ってるけど、何にせよシートに記入してねぇ。あたしはただの店番だからさぁ」


「あの……そちらに飾ってある楽器は、売り物じゃないんですか?」


 女性店員は小首を傾げつつ、ようやくギターを弾く手を止めた。ひとつひとつの挙動がゆったりとしているためか、年老いた猫のような風情である。


「うちで楽器を買おうだなんて、ずいぶん酔狂なお客さんだねぇ。あっちのショッピングモールには、立派な楽器屋が入ってるよぉ」


「あ、はい。ちょうど今、そちらも見てきたところなんですけど……」


「あっそう。うちのはみんな、中古だからねぇ。それでよければ、いくらでもどうぞぉ」


 めぐるは呼吸を整えつつ、目当ての楽器をそろそろと指さした。


「そちらの楽器は……おいくらですか?」


「リッケンかぁ。ちょっと待ってねぇ。じーさまの変なこだわりで、値札を出してないんだよぉ」


 女性店員はギターを抱えたまま、カウンターの上にファイルを広げ始めた。

 その間に、めぐるは壁に掛けられた楽器の姿を再確認する。


 まぎれもなく、あの動画であの女性が使用していたギターである。彼女が使用していたのはブラックで、こちらはくすんだペパーミントグリーンであったが、形状はしっかり一致しているはずであった。とにかくこのギターは個性的なビジュアルをしているようで、この場に展示されている他のギターともまったく似通っていなかったのだ。


「あー、あったあったぁ。リッケンバッカー・4001、80年製ねぇ。お値段は、と……税込八万八千円でございますねぇ」


「はちまんはっせんえん」と、めぐるはおかしな声をあげてしまった。


「ず、ずいぶんお安くないですか? さっきあっちのお店では、四十万円以上もしたんですけど……」


「そりゃあ新品かビンテージでしょ? あたしもリッケンは詳しくないけど、こいつはビンテージとしての価値が薄い80年代の品だし、パーツもあちこちの寄せ集めみたいだねぇ。塗装も前の持ち主にリフィニッシュされちゃってるしさぁ」


「り、りふぃにっしゅ?」


「塗装をまるまる塗り替えたってことだよぉ。ピックアップやサーキットなんかは純正みたいだけど、ここまでツギハギだらけの上に塗装までリフィニッシュされてたら、ビンテージとしての価値はゼロなんだろうねぇ」


 女性店員は眠たげな目をファイルに走らせながら、さらに言いつのった。


「でも、ここのじーさまも腕は確かだから、コンディションはバッチリのはずだよぉ。たとえビンテージとしての価値はなくても、ヒトケタ万円でリッケンが買えるのはうちの店だけかもしれないねぇ」


 女性店員ののんびりとした声を聞きながら、めぐるはとてつもない煩悶を抱えることになってしまった。

 八万八千円という金額は――無理をすれば、支払える金額なのである。将来に不安を抱えているめぐるはこつこつ貯金をしており、その総額がちょうど十万円ていどであったのだった。


「あの……もう少しお安くなりませんか? それが無理なら、お高くなりませんか?」


「んー? 高くしろってのは、どういう意味かなぁ?」


「あ、いえ……十万円以上だったら、わたしもあきらめがつきますので……」


 女性店員はめぐるの顔をまじまじと見つめてから、ぷっとふきだした。


「あなた、見た目に寄らず、愉快なこと言うねぇ。それに免じて、消費税をおまけしてあげるよぉ。それなら、八万円きっかりだねぇ」


「あ、いえ……むしろ値上げをしてくれたほうが、わたしは助かるのですけれど……」


「値段をつけたのは店主のじーさまだから、あたしにはこれ以上どうこうできないねぇ。決めるのは、あなただよぉ」


 女性店員は眠たげな目つきでにんまりと笑いながら、そのように言葉を重ねた。


「そんなにこいつが気に入ったぁ? まあ、楽器ってのは見た目も大事だからねぇ。どんなに音がよくったって、見た目が気に入らなかったら練習する気力も半減だからさぁ。……とりあえず、試奏してみたらぁ?」


「あ、いえ……わたしは、弾き方も知りませんので……」


「ずぶずぶの素人さんかぁ。リッケンってのは、ちょいとクセがあるかもしれないけど……ま、それより重要なのは、見た目だしねぇ。クセの強さも、魅力のひとつさぁ」


 女性店員は壁にギターをたてかけて立ち上がると、背伸びをしてペパーミントグリーンの楽器を取り上げた。


「はい、どうぞぉ。弾かなくてもいいから、とりあえずさわってごらぁん」


 女性店員が両手で差し出してきたその楽器を、めぐるも両手で受け取った。

 予想以上の重みが、どっしりと両手にのしかかってくる。その重量感や冷たく硬い手触りが、めぐるの心臓を圧迫し――そしてめぐるの声帯が、本人の意思などおかまいなしに「買います」という言葉を響かせたのだった。

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