第6話 第5の部屋

通路から部屋へ降り立った時後方で勝手にドアが閉まり、施錠された。

目の前に広がる部屋は山小屋のような様子を醸し出していた。

全体的に焦げ茶色をしていて、暖炉や重厚感のある重たそうなテーブルが置かれている。

壁は大きな木を組んで作られたものだし、天井も骨組みがむき出しになっている。



「素敵な部屋」



春美がポツリとつぶやいた。

こんな状況じゃなければ憧れの家なんだろう。



「まるでバンガローみたいだな。確かに、憧れる」



文秋は慎重に足を進めて答える。

部屋の中は木の香りがして少しだけ心が落ち着いていくのがわかる。

今まで緊張感で満ちていたけれど、この部屋の落ち着いた雰囲気がその緊張感を緩めていく。



「この部屋もぬいぐるみが多いね」



春美に言われて梨乃は頷いた。

確かに、前回の部屋に引き続きここもぬいぐるみが数多く置かれている。

暖炉の上の棚にも、床にも、革張りのソファにもカラフルなぬいぐるみたちが置かれていて、そのどれもがウサギと猫の姿をしている。



「これってもしかして、前の部屋の続きとかかな?」



ふと思ったことを口に出してみる。

春美と文秋が不思議そうな顔で振り向いた。



「ちょっと思っただけなんだけど、前の部屋にあったぬいぐるみはこの部屋に来るための伏線だったとかさ」



早口で説明して苦笑いを浮かべる。

真相はわからなくて、本当に感じたことをそのまま伝えただけだった。



「そうかもしれないな。これ、見てみろよ」



文秋がなにかに気がついて暖炉に近づいていく。

棚の上に置かれているぬいぐるみに埋もれるようにして、写真立てが置かれていた。

近づいて見てみると、そこには4人家族の写真が飾られている。

両隣に父親らしき人と母親らしき人が立ち、真ん中に男の子と女の子が立っている。

女の子のほうが少し背が高いから、きっとお姉ちゃんと弟なんだろう。

ふたりとも照れたように笑顔をつくり、カメラを見つめている。



「さっきの部屋が、男の子の部屋だったってこと?」



春美の質問に文秋が「たぶんな」と、答える。

確証はないけれど、最後の部屋にわざわざ家族写真があるということは、この脱出ゲームに使われた部屋と関係があるということを示しているんだろう。



「ぬいぐるみの山はきっと女の子の持ち物だな」



だとすれば、前の部屋にあったぬいぐるみの山も女の子の持ち物なんだろうか。

ひとつの部屋を幼い姉弟で共有していたのかもしれない。

暖炉の横には小さなキッチンがあり、ステンレス製の鍋が置かれている。

つい数秒前までここで写真の中の母親が料理をしていたようなぬくもりを感じられるものだった。

大きな一枚板でできたテーブルの上にはナイフとフォークと、真っ白なお皿が4人分並べられている。

やっぱりこの家は4人家族なんだろう。


そしてこのバンガローには休日になると遊びに来ている。

そんな様子が想像できた。



「それにしては今までの部屋の統一感はないよね」



第1の部屋から順番に思い出してみると、最初の方はひとり暮らしの部屋をモチーフにしていたように思い、梨乃は言う。



「一応は試験段階のゲームだからな。これから統一感をもたせる感じじゃないかな?」



文秋の言葉に納得して頷く。

このゲームが世に出る頃にはこの写真の家族の家が完全再現されている可能性はある。

このゲームが夜に出るなんで考えただけでも恐ろしいけれど。



「そんなこと話してる場合じゃないよ。早くヒントを見つけないと」



春美の言葉に梨乃は我に返った。

そうだ。

こんな無駄話をしている間にも水はどんどん流れ出てきている。

すでに足の裏は濡れ始めていた。

いつもどおりテーブルの上を確認してみる。

さっきもザッと見た通り、4人分の食器と、中央にはロウソクを立てるための燭台が置かれている。



「燭台なんて初めてみた」



中世ヨーロッパ風の映画でしか見たことがなくて、梨乃が感心するようにつぶやく。



「ヒントは?」


「さぁ、とくにないのかも」



文秋に言われてお皿をひっくり返してみたり、燭台を逆さに持ってみたりするけれど、ヒントらしきものは見当たらない。



「最後の部屋だけヒントが別の場所にあるのかもね」



部屋の中を探し回っていた春美が動きを止めて言う。

ずっと同じテーブルの上では平坦すぎるから、ここにきて変化をつけてきたのかもしれない。

最も、今の梨乃たちにとってはありがた迷惑な変化だった。



「どこにヒントがあるのか、探してる間にソンビが出てきたら不利になるな」



文秋が顎に手を当ててつぶやく。

せめてゾンビが出現する前にひとつめのヒントを手に入れておきたい。

ゾンビが出てきたら、ヒントを探すどころではなくなってしまうからだ。

早くヒントを見つけ出したいけれど、むやみに探し回ればゾンビを放出してしまう。

そう思うと自然と行動に制限がかけられてしまう。



「ダメだ。このままじゃ時間切れになる」



文秋が早くも水位の心配をし始めている。

第4の部屋では胸のあたりまで水が迫ってきてしまったから、焦っているのだろう。



「ゾンビが出るのは仕方ないこととして、もっと色々調べてみる?」



春美が棚の前で立ち止って聞いてきた。

その棚を開けることでゾンビが出てくる可能性も十分にあるわけだ。



「ちょっと待って、それなら武器を持たないと」



文秋がテーブルの上の燭台を握りしめる。

それはずっしりと重たくて、大昔に使われていた本物に近い品物であることがわかった。

それを両手に握りしめて春美の横に立つ。



「よし、開け!」



文秋の声を合図にして春美が思い切って棚を引き出す。

中身は空っぽで、ゾンビが出てくる気配もなかった。

春美が大きく息を吐き出して、文秋も溜息をつく。

次々と棚を開いて確認していくが、部屋の中に変化は現れない。



「あ、これ」



なにか見つけたようで春美が引き出しの中に手を突っ込む。

抜き出した両手に持っていたのはロウソク3本とマッチだった。



「燭台用のロウソクがあっただけだったよ」



緊張したわりにゾンビも出現しないし、少し拍子抜けした調子で春美が言う。

だけどロウソクに火を灯すことがヒントに繋がるかもしれない。

文秋が燭台をテーブルへ戻し、そこに3本のロウソクを立てる。

それだけでなんだかそれっぽい雰囲気に見えて、梨乃の背筋が寒くなった。

今にもどこからかゾンビが出現してきそうで怖い。


注意深く周囲の様子を観察しながら、春美がマッチに火をつけた。

マッチをこすったときの、灰臭さと言うかどくとくの匂いが鼻を刺激する。

普段マッチを扱うことなんてないから、春美が自分で火をつけておきながら驚いたように身をのけぞらせた。

そして少しでもマッチから遠ざかるように手を伸ばしてロウソクに火を付ける。

マッチからロウソクへの点火は素早かった。

1本目のロウソクにオレンジ色の火が灯り、ゆらゆらと揺れ始める。

その火をジッと見つめているとなんだか眠くなってきてしまいそうだ。


更にもう1本、もう1本と火をつけていくと、テーブルの上だけやけににぎやかな光景になった。

火は3人が動く度にゆらゆらと揺れる。



「なにも起きないな」



文秋がロウソクの日に照らされているテーブル周辺を調べてみるけれど、ヒントらしきものは見当たらない。



「電気を消してみればいいのかも」



前回の部屋でもそうだったように、今回の部屋でも電気を消すことで浮かび上がってくるものがあるのかもしれない。

火をつけたときから、梨乃はそう感じていた。

本来ロウソクは暗がりで灯すものだし。

そう説明をしてスイッチのある壁際へと向かう。

なかなかヒントを見つけることができなくて、水はすでにふくらはぎの下まで迫ってきている。

今までの疲れも後押ししてきて少し歩くだけで重労働だ。



「電気、消すよ!」



ふたりに声をかけて電気を切る。

パチッと音がして周囲は暗くなり、だけど燭台の周辺だけは温かみのある火の色に染まっている。

綺麗……。

こんなときだけれど思わず火の微かな揺れに見とれてしまいそうになる。

火を見ていると心が落ち着くというのは本当みたいだ。



「なにも現れないな」



文秋が暗くなった部屋の中を見回してつぶやく。



「火で壁を照らしてみようか」



梨乃はそう言うと燭台を右手に掴んで壁に近づいた。

壁がオレンジ色に照らされて木目が浮かび上がってくる。

もしかしてこの木目がなにかヒントになってるんじゃないか?

ぐねぐねと歪む木目はよく見ると人の顔のようであり、のたくった文字のようにも見える。

しかし、しっかりと目を凝らして確認してみても、読めるような文字はなかった。



「どうしよう、ヒントがどこにもない!」



春美が焦りに声を荒げる。

ロウソクとマッチが手に入ったのに、これはヒントには無関係だったみたいだ。

もしかしたら自分たちを惑わせるための仕掛けだったのかもしれない。

梨乃は落胆しながら電気のスイッチに手を伸ばす。

と、その瞬間春美の怯えた表情がロウソクの薄明かりの中で見えた。

そう言えば前の部屋では電気をつけた瞬間春美の目の前にゾンビが出現したのだ。

そのときのことを思い出したのだろう。


梨乃は念の為にロウソクをつかって自分の周辺を照らし出してみた。

今の所ゾンビは出現していない。

けれど、電気をつけることでどこからか現れる可能性は十分にある。

緊張からゴクリと唾を飲み込んで再びスイッチに手を伸ばす。

どうか、まだ現れませんように。

祈るような気持ちで「えいっ!」と電気のスイッチをつけた。

パチッと音がして明るさが部屋に戻ってくる。

身構えていたけれど、ゾンビの姿はどこにもなかった。

どこからか出てくる気配もなく、ホッと胸をなでおろす。

けれど安心はしていられない。

水位はすでに梨乃と春美のふくらはぎの上まで来ている。

なんのヒントも見つけられないまま時間ばかりが経過していることになる。



「どうしよう。どこにヒントがあるんだろう」



どんどん動ききにくくなっていくことに春美が焦りを隠せずに周囲を見回す。

「なんでもいい。どんなヒントでもいいから見つけないとな」

背の高い文秋も、ふくらはぎの下までは水に浸かってしまっている。

少し歩くだけで3人してばしゃばしゃと水音を鳴らすものだから、声も自然と大きくなった。

他の二人が歩くことで水面が揺れて、梨乃が体のバランスを崩した。


危うく水の中に沈んでしまいそうになったとき、左手を壁についてバランスを保つ。

右手に持つ燭台のロウソクが大きく揺れる。

燭台をテーブルに戻さないことには、体のバランスが保てない。

そう思って壁についた左手をどけたときだった。

濡れた手のひらをついた場所だけ、壁の色が変化していることに気がついた。



「あ!」



梨乃の大きな声に文秋と春美の二人が近づいてくる。



「これ見て!」



梨乃が壁を指差すと、ふたりもその壁の色が変化していることに気がついた。



「水に濡れたら浮かび上がってくる文字ってあったよね!?」



春美がハッと息を飲んで言う。

梨乃たちが暮らす街の神社には、水おみくじというものがあった。

そのおみくじは、境内にある手水舎の上に浮かべることで文字が浮かび上がってくるのだ。



「同じ原理なのかもしれない! よし水で濡らしてみよう!」



文秋の言葉を合図にして3人は両手で水をすくっては壁にかけ始めた。

しばらくの間はばしゃばしゃと水音だけが部屋の中に響き渡った。

そして壁を確認してみると、そこには確かに文字が浮かび上がってきていたのだ。



「これがヒントだよ!」



梨乃が興奮気味に言い、笑顔を浮かべる。

水はすでに太もも近くにまで到達しているけれど、とにかく一歩前へ進むことができたのだ。

安堵する笑みを引っ込めて、すぐに真剣な表情へ戻るとヒントを読み上げ始めた。



「だん……ろのう……え?」



全部ひらがなで書かれているのでどこで区切ればいいかわからず、梨乃は首をかしげる。



「これ、暖炉の上って書いてあるんだ」



すぐに感じに変換してそう言ったのは文秋だ。

3人の視線がテーブルの奥にある暖炉へ向かう。

その暖炉には火が入っておらず、今では下半分が水に浸かってしまっている。

一瞬、梨乃は自分が手にしている燭台へ視線を向けた。

ロウソクとマッチを一緒に発見したから、燭台に火をともしたけれど、暖炉の火を起こせというヒントが出てきたらどうしようと、不吉な事を考えてしまったのだ。

その考えを左右に首を振ってかき消す。

暖炉に火を起こすことがヒントになっているとすれば、水位が上る前に気がつくようにヒントが置かれているはずだ。


だからきっと、暖炉と火は関係ない。

自分自身にそう言い聞かせて、燭台をテーブルに戻し、暖炉へ近づいていく。

暖炉の上の棚にはぬいぐるみがずらりと並んでいる。

それは前の部屋で見たウサギと猫のぬいぐるみと同じようなものだった。



「このぬいぐるみになにかヒントがあるってことなのかも」



春美が一番右端に置かれていた猫のぬいぐるみを手に取って調べ始める。

梨乃はその隣のウサギのぬいぐるみを手に取ってみた。

普通ではありえないピンク色のウサギだ。

中身はビーズのようで、持ってみるとずっしりと重たくて、中でビーズがこすれあう音が聞こえてくる。



「特に何もないみたいだけど……」



調べ終えたぬいぐるみはテーブルの上に置いていく。



「これだけ数があったらまた時間を食うな」



左端に置かれていた猫のぬいぐるみを調べていた文秋が焦りの混じった声でつぶやく。

水位は否応なしに上がってくる。

文秋はまだまだ平気そうだけれど、梨乃と春美は太ももの上まで水が迫ってきていた。

ヒヤリと冷たい水は、真夏でも肌を刺すように冷たい。

日光に当てて温めていない、真水が使われているかだろう

それからは無言になって何体ものぬいぐるみを確認していった。

ぬいぐるみはどれも色合いが違い、重さが違い、質感も違うものたちだ。

そこになにかヒントがあるのかもしれないと思ったけれど、暖炉の上としか指示されていないからわからない。

静中空間で水の音だけが常に聞こえてきていると、なんだか気分が落ち込んできてしまう。

一定のリズムで、決して乱れることなく流れ続ける水。

森林の中などでこの音を聞いていれば心地よかったのかもしれないが、ここではその音は死へのカウントダウンだった。

3人の顔にははっきりとした焦りの色が滲んできていて、梨乃の呼吸は短くなっていた。

強いストレスにメマイを感じても手を止めている暇はない。

次から次へとぬいぐるみを調べていく。

と、そのときだった。

文秋がウサギのぬいぐるみを手にしたとき、その後方でなにかがチャリンと音を立てたのだ。

無言で作業を初めてから、初めて聞く水温以外の音に全員の手が止まった。



「なんだ?」



ぬいぐるみが置かれていた場所へ手を伸ばす文秋。

ふたりは緊張した面持ちでそれを見守る。

文秋が手にしたのは小さな鍵だった。

しかもふたつ!

それを見た瞬間さらなるヒントが見つかったことで、梨乃は思わず飛び上がってしまった。

確実に最後の出口へと近づいていっていることがわかる。

きっと自分たちはこの最後の部屋から脱出することができる!

そんな自信がふつふつと湧いてきた。



「鍵にイラストが書いてある。1つはウサギ、1つは猫だ」



ふたつの鍵を手の中で確認して文秋は言った。



「それって、ぬいぐるみのウサギと猫ってことでいいんだよね?」



春美が誰にともなく質問する。

3人の視線が今まで調べてきてテーブルへ移動されたぬいぐるみと、床に置かれていて、今では水の上にプカプカと浮かんでいるぬいぐるみへ向かう。

それに、暖炉の上の棚にもまだ何体かのぬいぐるみが残されている状態だ。

全部合わせると一体どのくらいの数になるだろうか。

これ全部をもう1度調べていかないといけないのかと思うと、途方に暮れてしまいそうになる。

だけど、やるしかない。

それ以外にここから出る方法はないんだから。



「テーブルの上のぬいぐるみは1度調べたから、他のぬいぐるみから調べてみよう」



そこにどんなヒントが隠されているかわからないから、とにかく慎重になってぬぐるみを見ていくしか方法はない。

鍵にはウサギと猫のイラストが描かれていたんだから、間違いなく関係あるはずだ。

春美が試しに水に浮かんでいる猫に手を伸ばした。

そしてさっきまでと同じように手触りや、ぬいぐるみの背中を確認していく。



「これ、背中が開くようになってる!」



猫の背中にはジッパーがついていて、中は小物が入れられるようになっているみたいだ。

開いてみても中にはなにも入っていない。

続けて水に浮かんでいるウサギのぬいぐるみを手にする。

背中を確認すると、やはりそれにもジッパーがついているようだ。



「ねぇ! 水に浮かんでいるぬいぐるみは全部背中が開くようになってるのかも!」


「だとすれば、そこに次のヒントが隠されてる可能性が高いぞ!」



文秋がすぐに水に浮かんでいるぬいぐるみに手をのばす。

梨乃も同じように、棚の上ではなく浮かんでいるぬいぐるみを調べることにした。

考えてみれば、すべてのぬいぐるみが水の中に沈まずに浮かんでいることも、ヒントの1つだったのかもしれない。

ぬいぐるみたちはプカプカと水に浮かびながら、プレイヤーたちに調べられることを待っていたのだ。

3人で調べ終えられたぬいぐるみたちはどんどんテーブルの上に並んでいく。

最初はできるだけ丁寧に並べていたけれど、今では山のように積み重なっていた。

それくらい膨大な量のぬいぐるみがこの部屋にはある。


そして梨乃がウサギのぬいぐるみを手にして、ジッパーを開いたときだった。

今まで中にはなにも入れられていなかったのに、そこには濡れた紙が入っていたのだ。

紙は水で濡れても溶けないタイプのもので、そこに描かれているマークも滲んではいなかった。



「丸印……?」



梨乃は紙を引っ張り出してつぶやく。

紙に書かれていたのは大きな○のマーク。



「他には、なにかヒントは?」



隣から覗き込んでいた文秋にそう言われて紙をひっくり返してみたり、もう1度ぬいぐるみを調べてみるけれどヒントはこれだけみたいだ。



「丸のマークってどういう意味なんだろう」



ヒントが少なすぎて春美が首をかしげている。

水位は腰の下辺りにまで迫ってきていて、焦りで頭がしっかり動いてくれない。

冷静になろうとすればするほど、空回りしてしまう。



「待てよ? ウサギが丸印なんだよな?」



なにかに気がついたように文秋が言った。

梨乃はうなづく。

紙が入っていたのは確かにウサギのぬいぐるみの中だった。



「鍵にも猫とウサギのマークがついてた。この鍵はウサギのほうが正解ってことじゃないか?」



そうなのかもしれない!

文秋の考えに梨乃の表情がパッと明るくなる。



「ウサギの鍵を使うとしても、どこに使うの?」



冷静な声で言ったのは春美だった。



「きっと、部屋のどこかに鍵穴があるはずだよ。手分けをして探してみよう!」



探している間にゾンビが出現するかもしれない。

けれど、ここまで来たらもう迷っている暇はなかった。

ゾンビが出てきても、私達はまだ戦える!

前回、通路の中で足首をしっかりと掴んできたソンビのことを思い出すと背筋が凍るほどに恐ろしい。

途中で切断された手首がボトリと落ちたときの感覚も今でもハッキリと覚えている。

梨乃は燭台を右手に握りしめると逆さまにしてロウソクを水につけた。


ジュッと音がして火が消える。

もしまた火が必要になった時でも、春美がマッチを持っているから大丈夫だ。

燭台を武器として握りしめた梨乃は大きな一歩を踏み出した。


☆☆☆


「あった!」



最初に声を上げたのは燭台を握りしめている梨乃だった。

梨乃は重厚感のある本棚の横に立っていて、本棚の側面には鍵穴が確かにあった。



「ここに鍵を差し込めば、どこかに隠されてるドアが開くんだよ!」



鍵を持っている文秋に声をかける梨乃。

もしかしたらこの本棚がそのままスライドして開くのかもしれない。

どちらにしても、これで第5の部屋から脱出することができる!



「待てよ? こっちにも鍵穴があるんだ」



文秋が難しい表情で答えた。

文秋が見ていたのは暖炉の棚の壁だった。

鍵穴を探すためにすでにすべてのぬいぐるみが撤去されていて、その奥には確かに鍵穴が見える。



「こっちにもある!」



今度は春美が声を上げる。

春美が調べていたのは天井だった。

しっかりとした椅子の上に立って、天井に空いている鍵穴を指差している。

全部、鍵穴……。

梨乃は目を見開いたまま言葉を失ってしまった。

どれが本物の鍵穴なんだろう。


なにか、他にもヒントがあったのかもしれない!

そう考えてもう1度自分が見つけた鍵穴へ視線を向ける。

穴の横に小さく文字が書かれているのが見えてハッと息を飲む。

目を近づけて確認してみると、そこには(3)という数字が書かれているのがわかった。

「この鍵穴の横に数字の3って書いてある!」



梨乃の言葉に文秋と春美もそれぞれの鍵穴を確認しはじめた。

「こっちは(1)だ」


「私のところは(10)だよ!」



1と、3と、10。

これがまたヒントになっているんだろうか?

そう思ったとき、梨乃の視界にもうひとつの鍵穴が飛び込んできた。

それは電気のスイッチのすぐ横にある。

水をかき分けて近づいていき確認すると、そこには(5)と書かれていた。



「もしかして、鍵穴の1から順番に差し込んでいけって意味なのかも……」



梨乃はふと浮かんできた考えをそのまま口に出した。

鍵穴の横に書かれているのは、その順番なのだ。



「だとすれば、すくなくても10の鍵穴があるってことか」



文秋が深刻そうな声色になる。

水位がどんどん上昇している中で残り6つの鍵穴を探し出して、順番に差し込んでいくのは至難の技だ。

最後の部屋だけなかなかゾンビが出てこないのは、脱出の難易度が高くなっているせいなのかもしれない。



「とにかく、まだ鍵穴を探さないといけないってことだね」



梨乃は覚悟を決めたようにつぶやいたのだった。


☆☆☆


それからどれくらい時間が経過しただろうか。

文秋はまず自分が見つけた(1)の鍵穴にウサギの鍵を差し込んで回していた。

カチッと音が鳴るけれど、部屋に変化は見られない。



「ここに(2)の鍵穴がある!」



水にもぐってテーブル周辺を調べていた春美がザバッと顔を出して文秋へ伝える。

ヒントや鍵穴はすでに大半が水の中だ。

冷たい水に潜るのは大変だけれど、そうしないと見つけることができなくなっていた。



「わかった」



文秋は鍵穴の場所を春美から聞き、息を止めて水に潜る。

そして(2)の鍵も無事に回すことができた。

次は梨乃が見つけた(3)の鍵だ。

本棚に近づいて鍵を差し込み、回す。

カチッ。

鍵を回す度に小さく音がするから、その度にゾンビが放出されるのではないかと身構える。

水なのか、汗なのかわからない水滴が水面にポタポタと流れ落ちていく。

(4)の鍵穴がなかなか見つからなくて、梨乃は大きく息を吸い込んで水に潜った。

水は透明で目を開けていれば陸上と変わらないくらい鮮明に周囲を見回すことができる。


その中で床までもぐり、薄いカーペットに手を伸ばす。

体に感じる浮力を利用して、カーペットをめくりあげた。

木目の間に小さな穴を見つけて思わず口から空気が漏れ出る。

鍵穴の横には探していた(4)という数字が書かれていた。

「見つけた!」

梨乃は大急ぎで顔を出して文秋へ叫んだ。

「カーペットの下にあった!」

そう叫ぶ梨乃の体はすでに半分以上が水の中に沈んでいる。

もうすぐ胸まで到達しそうな水位は、泳いで移動したほうが早いくらいだ。

「わかった!」

文秋がすぐに水に潜って(4)の鍵穴を開けてくる。

次は(5)の鍵穴。

これはさっき梨乃が見つけた、電気のスイッチの横だ。



「これで半分か」



文秋が洗呼吸を整えながらつぶやく。

同じペースで鍵穴を見つけることができれば問題ないけれど、(6)(7)(8)(9)の鍵穴はまだ見つけられていない。

それに、鍵穴が(10)で終わるかどうかはまだわからないのだ。

もしかしたら、20も、30もあるかもしれない。

そう思うと絶望的な気分になってしまう。

梨乃は慌てて悪い考えを頭の中から追い出した。

今はとにかく、次の鍵穴を見つけることに専念しないといけない!



「(6)の鍵穴があったよ!」



梨乃が捜索を再開しようとした時春美の声が聞こえてきた。

振り向くと春美は壁の上の方を指差している。

ちょうど壁と天井の継ぎ目に目立たないように(6)の鍵穴があった。

文秋がすぐにそちらへ向かう。

さすがにそのままでは手が届かないので、重たい椅子を引きずっていく。



「残り3つ。絶対に見つけ出す」



梨乃は再び大きく息を吸い込んで水の中へ潜ったのだった。


☆☆☆


それから5分ほど経過したとき、梨乃が(8)文秋が(9)の鍵穴を見つけることができた。

(8)の鍵穴はテーブルの上のお皿の下にあり、(9)の鍵穴は天井と床のつなぎ目にあったのだ。

残るは1つ(7)の鍵穴だけれどなかなか見つからない。

この(7)の鍵穴を開かないことには次の(8)(9)も開くことができないから、3人の間に焦りが横たわっていた。



「どうしてどこにもないんだろう」



春美がぶつぶつと呟きながら天井や壁を調べる。

梨乃はもう何度目かわからないが、また水の中に潜り込んだ。

いくら視界がよくても、どんどん水位は上昇していっているし、調べるのが限界に近づいてきている。

床まで沈み込もうとしても、梨乃の体はどうしても浮いてきてしまう。



「もう胸の上まで水が……!」



悲鳴のような声をあげてテーブルによじ登ったのは春美だった。

春美は水があまり得意ではないようで、水位が上がるにつれて青ざめていく。

ゾンビが出てこなくても、安心はできなかった。



「絶対に見つかるはずなんだ。あとは(7)の鍵穴だけなんだから」



文秋が春美の悲鳴に後押しされるように鍵穴を探し始める。

でも、もうどこを探せばいいかわからなかった。

長時間水に使っていることで疲れ果てた梨乃はテーブルによじ登って春美の隣に座った。

背の高いテーブルだけれど、ここもすでにいくらか水に浸かっている状態だ。

もう少しすれば、テーブルの上に座っていることもできなくなってしまうだろう。



「もうダメなのかな。ここで死んじゃうのかな」



青ざめた春美が両足を抱えてつぶやく。

その頬には幾筋もの涙が伝っていた。



「大丈夫だよ。鍵穴はあとひとつなんだから」



梨乃は春美の肩を抱いてなだめる。

人のぬくもりを間近で感じるのは久しぶりで、春美はそれだけで心が落ち着いていく。

梨乃の体を抱きしめ返すと、耳元でクスクスと笑い声を立てた。



「くすぐったいね」


「うん。くすぐったい」



それは忘れてしまいそうな日常の一コマだった。

私達はまだ大丈夫。

こうして笑い合うことができるんだから。

梨乃は勢いよくテーブルの上に立ち上がると春美を見下ろした。



「春美、もう少しだけ頑張るよ! それで、絶対にこの部屋から脱出する! 家に、帰らなきゃね」


「うん。そうだよね」



春美は座り込んだままで大きく頷いた。

梨乃はそれを見届けて、まるでジャンプ台の上からプールへ飛び込むかのように、水の中へ向けてジャンプした。

今や梨乃の胸の上まである水がバシャンッと大きな水しぶきを上げる。

梨乃はそのまま水の奥深くまで潜り込んで(7)の鍵穴を探し始めた。

必ずどこかにある鍵穴。


今まで見落として居た場所にあるのかもしれない。

限界まで呼吸を止めてカーペットをめくって調べていく。

床も水に沈んだ壁も、くまなく、くまなく調べていく。

そして呼吸が限界にきて水面目指して顔を上げたそのときだった。

テーブルの足の付け根に穴が空いているのが見えた。

それは蛍光灯の光が反射して、キラキラと輝き眩しいくらいだ。

梨乃は一気に水面に出て大きく息を吸い込んだ。

そして「見つけた!」と、叫ぶ。

鍵穴の数字までは確認できなかったけれど、きっと(7)で間違いない。



「わかった!」



すぐに文秋が近づいてきて梨乃に鍵穴の場所を聞き、水に顔を埋める。

ボコボコといくつもの空気が口の中から排出されて、水面に浮かんできては弾けて消える。

やがて文秋が水面から顔を出した。



「(7)の鍵、開けたぞ!」



その声に梨乃と春美が目を見交わせてほほえみ合う。

残りはすでに見つけている鍵穴に、順番に鍵を差し込んで回していけばいいだけだ!

助かることができる!

希望が胸に膨らんで、今にも破裂してしまいそうだ。

嬉しさで小躍りしそうになったそのときだった。

ギ……ギギィ。

重たいドアを無理やり開けるような音が部屋の中に聞こえてきて梨乃は耳を済ませた。

音がした方へ視線を向けて見ると、暖炉が左右に割れて中からなにかの影だ近づいてくるのが見えたのだ。



「ヒッ!」



小さく悲鳴を上げてその場から逃げようとするけれど、水が邪魔をしてうまく動けない。

逃げものだった暖炉の奥から出てきたのは、土色の肌を持つゾンビだったのだ。

(7)の鍵を回したタイミングで出現するようになっていたみたいだ。



「逃げて!!」



テーブルの上で春美が叫ぶ。

梨乃は懸命に両手で水をかき分けて部屋の奥へと逃げていく。

文秋は十分にソンビを距離を取りなが(8)の数字が書かれた鍵穴へと少しずつ近づいていく。

こんなタイミングでゾンビが出てくるなんて……!

あと少しで脱出できるはずなのに、その希望が梨乃の中から消えてしまいそうになる。

ゾンビはターゲットを文秋に決めたようで、水の中を進んでいく。

梨乃たちと同じように胸の付近まで水に浸かっているはずなのに、その動きは驚くほどに早い。



「そっちはダメ!」




梨乃は咄嗟に叫んでいた。

文秋は鍵を持っている。

脱出するためには文秋から意識を反らせる必要があった。



「こっち! こっちに来て!!」



梨乃は両手でバシャバシャと水音を立ててゾンビの気を引く。

文秋の方へ向かおうとしていたゾンビが音に気がついて視線を梨乃へ向けた。

その目は真っ白でなにも見えていないように見える。

皮膚はボロボロに剥がれているし、髪の毛もまばらに生えているだけだ。

それはまるで人間の出来損ない。

死ぬこともできず、人間として生きていることもできなかった生物の成れの果てだった。



「こっち! こっちだってば!」



梨乃はわざと音を立てながらテーブルへと近づいていく。

テーブルの上には燭台がある。

この部屋での武器はそれくらいだった。



「梨乃、手を出して」



テーブルまで近づくと春美が手を伸ばして梨乃の体を引き上げた。

バシャッ! と水をかき分けてテーブルに登るのと、ゾンビがさっきまで梨乃が居た場所へ飛びかかったのはほぼ同時だった。

テーブルへ上がった梨乃は右胸を押さえて、バクバクと高鳴る鼓動をどうにか鎮めると、燭台を春美へ手渡した。



「私が水に潜ってゾンビの気を引くから、そのすきに後ろから攻撃して!」



春美の早口な説明に梨乃は何度も頷く。

ゾンビはその間にもテーブルの上によじ登ろうとしている。

骨とボロボロの皮だけの指先がテーブルの端にかかった。

そのタイミングで梨乃は水の中へ飛び込んだ、

水しぶきを上げて「こっち!」と、ゾンビをおびき寄せる。

ゾンビが梨乃へ振り向いた瞬間、春美が燭台を両手で強く握りしめて、その後頭部に打ち付けた!

ガンッ! と人間ではないような音がして、ゾンビが水の中に倒れ込む。



「やった!」



春美が燭台を両手で抱え持って飛び上がって喜ぶ。

しかし次の瞬間、梨乃は自分の足になにかが絡みついてくるのを感じた。

それは梨乃の左足首を掴んで水の中へと引きずりこむ。

ジャポンッ!

急に頭まで水に沈んでしまった梨乃に春美が短い悲鳴を上げた。



「梨乃、梨乃!?」



済んできれいな水の中で、梨乃がもがき苦しんでいるのが見える。

ゾンビが梨乃の足首を掴んで離さないのだ。



「文秋!」



咄嗟に文秋の名前を呼ぶが、文秋は(8)の鍵穴を開けたところだった。

文秋にはまだやることが残っている。

梨乃を助けることができるのは自分だけだ。

春美は青ざめながらも大きく息を吸い込むと、勢いをつけて水に飛び込んだ。

水は春美のお腹や胸を圧迫してきて、それだけでパニックになってしまいそうになる。

右手にギュッと燭台を握りしめて、春美はゾンビの背後へと回った。

ゾンビは目の前の梨乃に夢中になっていて、後ろにいる春美には気が付かない。

水の中で燭台を振り上げる。


浮力のせいで力は半減するけれど、モタモタしている暇はなかった。

春美は力の限り燭台をゾンビの頭部に振り下ろす。

1度できかないなら、何度でも。

梨乃の足首から手を離すまで続ける。

ゾンビは青い血を水面に撒き散らし、春美へ視線を向けた。

その目は釣り上がり、怒りをたたえているのがわかった。

視線がぶつかった瞬間春美の背筋がスッと寒くなる。

掴んでいた梨乃の足首を離すと、躊躇なく春美めがけて攻撃をしかけてきた。

春美は逃げる暇もなくゾンビと正面から対峙する。

水の中でもゾンビは大きく口をあけると、そこには真っ赤な舌と鋭い牙が現れた。

あぁ……私、ダメだったかも。

攻撃を避ける気力もなく、ただ水の中を漂う。

でも、これで梨乃と文秋が助かるなら、それでもいいかな。

目前までゾンビが迫ってきても春美の心はまだ穏やかだった。

まるで夢を見ているようで、現実味がない。

目が覚めればいつもの日常がそこにあるような気がする。



「春美!!」



水の中にくぐもった梨乃の声が聞こえてきて春美はハッと我に返った。

ゾンビの牙が今にも自分の首を切り裂こうとしている。

咄嗟に体を避けて交わす。

水の中でも、歯と歯がガチンッと噛み合う音がする。

と、不意に春美の腕が引かれてゾンビから引き離されていた。

どうにか水面に顔を出すと、そこには梨乃がいる。

梨乃が腕を掴んでゾンビから引き離してくれたのだ。



「ありがとう」



ホッとしてそういうのもも、ゾンビはまだ春美と梨乃のふたりをターゲットにしている。

安心している場合じゃなかった!



「春美!」



もう1度名前を呼ばれて顔を向けると、梨乃が壁にかかっている大きな絵画を取り外そうとしている。

咄嗟に絵画の端へ向かい、両手で絵画を持ち上げる。

それは想像以上に重たくてビックリした。

そうこうしている間にもゾンビがこちらめがけて水をかき分けてやってくる。

ふたりは重たい絵画の両端を持ち、「せーのっ!」と掛け声と共に突進してくるゾンビの頭部に打ち付けた。


バリッと音がして分厚いキャンバスが破れ、その間からゾンビの頭部が覗く。

勢いよくキャンバスに飛び込んできたゾンビはそのまま身動きが取れなくなってしまった。

梨乃と春美はそのすきにゾンビから離れて1人で鍵穴と格闘している文秋に近づいた。

水位はもう梨乃と春美の首下辺りまで迫ってきていて、ほとんど立ち泳ぎの状態になっている。



「文秋!」



鍵に熱中していた文秋に梨乃が声をかける。

文秋は最後の1つに鍵を入れるところだった。



「これで最後だから!」



そう言って最後の鍵穴に鍵を差し込み、回す。

カチッと音がして、暖炉の横の壁が横へスライドしていく。

その奥には上へと向かう階段が出現した。

水が勢いよく階段内へ侵入していき、部屋の水位が下がる。

梨乃の後ろで春美がホッと息を吐き出すのが聞こえてきた。



「出口だ! 行こう!」



文秋の声を合図に、3人はとうとう第5の部屋からの脱出に成功したのだった。


☆☆☆


階段は上へ上へと続いている。

周囲はオレンジ色の証明によって薄暗く照らし出されていて、3人が入ってきた隠し扉はすでに閉められていた。

3人共全身びしょ濡れで、体はずっしりと重たい。

そんな中一歩一歩階段を踏みしめるようにして進んでいく。

誰も、なにも言葉をかわさなかった。

第1の部屋から始まって、ついに第5の部屋を突破した。

本当なら開放感溢れているところだけれど、疲れのほうが勝っていたのだ。

梨乃と春美は怪我をした方の足を、まだほんの少し引きずって歩いている。

3人の体から滴り落ちる水の音だけが周囲に聞こえてきていた。



「……この階段、いつまで続くんだ?」



先頭を歩いていた文秋がふと頭上を見上げてつぶやく。

階段はずっとずっと奥まで続いていて、先が見えない。

まるで永遠に続くんじゃないかと思うくらい先へと続いている。



「通路には終わりがあったんだから、大丈夫だよ」



後ろの梨乃が励ますように明るい声で言う。

けれど、その声も疲れ果てていた。

度重なるゾンビとの戦いで心身がすり減っている。

今すぐにここを出て、家に帰りたい。

熱いシャワーで体を温めて、ふかふかのベッドに潜り込んで眠ってしまいたい。

そうすれば、この悪夢のような1日は夢だったと思うことができそうだった。



「この階段を上がりきった先になにがあると思う?」



文秋に聞かれて、一番後ろをついてきていた春美が首をかしげた。



「なにって、出口でしょう? 脱出部屋は5部屋だって最初に聞かされてるんだから」


「そうだけど。また部屋があったらどうする?」



文秋の質問には誰も答えなかった。

長くて先の見えない階段を登っていると、嫌な想像力が働いてくる。

この階段を登りきったら第6の部屋があって、そこから脱出しても第7の部屋があるんじゃないか。

そんな恐怖が文秋の胸に巣食って離れない。

このまま進んでいいものかどうか、躊躇してしまう。

ともすれば階段の途中で座り込んでしまいそうにもなる。

それでも足を前へ進めているのは、梨乃と春美の存在があるからだった。


ひとりきりであれば、文秋はとっくの前に脱出を諦めて、ゾンビに攻撃されたり、溺死してしまっていただろう。

それは、梨乃と春美も同じだった。

3人だからこそ、協力しあってここまで来ることができた。

それからしばらく無言で歩き続けていると、文秋の前に突如ドアが出現した。

階段の終わりだ。



「ドアだ……」



文秋が足を止めて呟く。



「これで帰れるんだね」



梨乃が目に涙を浮かべて言う。



「本当に、ここを開けてもいいのかな」



このまま帰れるのか、それともまた別の部屋に出てしまうのか、文秋はまだ悩んでいた。



「きっと大丈夫だよ。私達は全部の部屋から脱出できたんだから」



春美が文秋を安心させるように声をかけた。

文秋はその言葉に大きく頷いて、ドアノブに手をかける。

そうだ。

俺たちはここまで来た。

自分たちだけの力で、脱出してきたんだ。

ギギギ……。

と、キシム音を響かせてドアが外へ向けて開けていく。

ドアの隙間から差し込む眩しい光に3人は同時に目を細めた。

暗い通路に徐々に光が広がっていく。

そして最後まであ開け放った時、パチパチパチと手を打つ音が聞こえてきた。

3人の目の前に真っ白な部屋が広がっていた。

部屋の中央には大元さんが立っていて、その後方には沢山のモニターが設置されている。



「よくここまで来られたね。さすが三沢くん」



拍手をしながら3人を部屋へと歓迎する。

3人はおずおずと真っ白な部屋へ足を踏み入れた。

部屋の中にはモニター以外にマイクなどの設備があり、ここでゲームを管理していたことがわかった。



「ここは……もう脱出部屋じゃないよね?」



春美が恐る恐る周囲を見回して呟く。

それに対して大元が笑い声を上げた。



「大丈夫。ここはもう脱出部屋じゃないからね」



けれど、大元の言葉を信用することができないようで、春美は警戒心を顕にしたままだ。

文秋は一歩前に出て大元に近づいた。



「これから俺たちをどうするつもりですか?」



今までソンビを対決してきて心身ともに疲れ果てているはずが、今は少しもそんなことを感じさせない。

スッの伸びた背筋が、梨乃と春美を守るのだと言っている。



「どうするもなにも、君たちはゲームに成功した。見事だったよ」



そしてまた大げさに拍手をしてみせる。



「でも、このゲームで怪我をしました。このまま帰ることはできないんですよね?」



3人共死ぬ思いをしてここまで来たのだ。

このまま無事に帰宅できるとは思えなかった。

第5の部屋を抜けて、その先が管理室だったときから文秋はそう疑っていた。

そのまま外へ繋がっていれば帰ることもできたかもしれないが。

しかし大元は大きく目を見開いて「怪我?」と聞き返してきたのだ。

その白々しさに文秋は嫌気がさす。

沢山のモニターで見ていたはずだ。



「梨乃と春美は足を怪我したんです。俺だって、何度も死にかけた」



そう言ってふたりへ視線を向ける。

そのとき、梨乃と春美が困惑顔をしていることに気がついた。



「怪我を見せてもらってもいい?」



大元が近づいてきてもふたりは棒立ちのままで反応を見せない。

大元がしゃがみこんで梨乃と春美の足首を確認しているけれど「怪我はしてないよ」と、左右に首を振った。



「そんなはずない!」



食ってかかろうとする文秋を梨乃が止めた。



「本当に怪我はしてないの!」



梨乃が足首に撒いていた布切れを取る。

そこには怪我の痕はなく、血も出ていない。

春美も動揺だった。

ネジを回すために剥がれてしまった親指の爪も、綺麗に治っている。



「どういうことだ……?」



愕然とする文秋はふと自分の体が濡れていない事に気がついた。

髪の毛も、服も乾いている。

あれだけ全身がずぶ濡れになったのに、こんなに早く乾くはずもない。

3人が混乱したように顔を見合わせる中、大元が得意げにモニターへ視線をやった。



「君たちもこっちにきて確認してみるといい」



そう言われて恐る恐るモンターに近づいていく。

モニターにはそれぞれの部屋と通路が映し出されている。

確かにそこは自分たちが脱出してきた部屋だけれど、明らかになにかが違った。



「家具がない……?」



つぶやいたのは梨乃だった。

画面に映る家具はすべて簡素な作りのダンボールや木製の箱だったりして、ちゃんとしたものはひとつもないのだ。

だけど自分たちが見てきた家具はどれもちゃんと作られていた。

部屋の中に散乱しているぬいぐるみはどれも丸いだけの簡素な作りで、猫でもウサギでもない形をしている。



「水! 水もない!」



春美が青ざめた顔でモニターを指差し、叫ぶ。

水は3人が脱出した後に抜いたのだろうと思っていたが、どの部屋にも水があった形跡がないのだ。



「じゃあ、これは……?」



梨乃が指差したのは各部屋に転がっているマネキンだった。

マネキンは各部屋に一体ずつある。



「まさか、これがゾンビの正体?」



梨乃の言葉に大元が頷く。



「嘘だ! だって、俺達はゾンビと戦って、水につかってここまで来たんだ!」



それは夢じゃない。

全部現実で、その時時の恐怖は鮮明に記憶している。



「我々のVR技術だよ」



大元が胸を張って答える。

VRとは仮想空間が目の前に広がっているように見える技術のことで、主にゲームなどに用いられている。

もちろん、文秋も経験済だった。



「VRで本当の怪我はしない!」



叫んでから、ハッとした。

そう、梨乃も春美も、怪我はしていなかった。



「ただの段ボールが家具に見えたり、マネキンが自分たちを襲ってくるゾンビに見える。この技術は最先端なんだ。これによって低予算でリアルなゲームを体験することができる。これが、我々ゲームスターダムが開発した最新ゲームなんだよ。どうやら、体験版ではうまく行ったみたいだね」



これが、最先端ゲーム……。

文秋は愕然として立ち尽くす。

自分の知っているゲームとは全く異なる、安全かつリアルな脱出ゲーム。



「これからこのゲームは本格的に世に出ることになる。そのときにはまた、君たちを誘うよ」



大元の言葉に文秋はゆるゆると左右に首を振る。



「もう……ゲームはこりごりです」



弱い声でそう伝えると、大元に背を向ける。

すべて仮想空間で起こった出来事。

すべてが偽物。

今度はその恐怖心が3人の胸にふつっと湧いてくる。



「もう二度とゲームなんてしない。これからは真面目に勉強をするよ」



建物から出た文秋はそうつぶやいたのだった。






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ゾンビゲーム 西羽咲 花月 @katsuki03

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