第5話 第4の部屋
「ここで待っていて欲しい」
不意に文秋がそう言ったのは、通路の行き止まりが見えたときだった。
今は文秋が先頭を歩いている。
「待つ?」
後ろにいた梨乃は首をかしげて聞き返した。
「ここに来たのは俺の責任だ。ここから先は俺1人で行く」
文秋の言葉に梨乃と春美は目を見開いた。
「1人でなんて無理に決まってるよ!」
叫ぶように言ったのは春美だった。
今まで3つの部屋を脱出してきてわかったこと。
それはこれはチームプレイじゃないとクリアできないということだった。
ゾンビはあらゆる場面で出てきて、攻撃をしかけてくる。
そんなゾンビに対抗しながら謎解きをしてドアを開けないといけない。
複数人いるからこそ、それが可能になっているのだ。
1人で次の部屋に入って、ソンビから逃げながら出口を探すなんて、不可能だ。
「無理じゃない。きっと、大丈夫だから」
文秋は春美をなだめるような優しい口調になった。
その顔には笑みまで浮かんでいる。
その笑顔を見ていると急に梨乃は不安になった。
まさか文秋はここで死ぬ覚悟なんじゃないだろうか?
「ダメだよ。絶対に1人でなんか行かせない」
梨乃の強い声色に一瞬文秋がひるんだように見えた。
けれど、自分の考えを曲げるつもりはないようだ。
「俺のせいでふたりを巻き込んだんだ。怪我をしていないのは俺1人だし、これ以上迷惑はかけられない」
「迷惑なんて思ってない!」
梨乃が叫ぶ。
最初はここへ来てしまったことを後悔したけれど、でもそれは文秋のせいじゃない。
誰だって、あんな招待状をもらったら喜んで参加してしまうはずだ。
文秋は根っからのゲーム好きだから、余計にだ。
「私も春美も、自分の意思でここまでついてきたんだよ」
春美を振り返ると、うんうんと何度も頷いている。
確かに怪我をしてしまったし、怖い思いをしているし、すぐにでも帰りたいと思っている。
けれどそれは、文秋を責める言葉ではなかった。
文秋は梨乃の言葉に泣き笑いのような表情を浮かべる。
「本当に、俺っていい友達を持ったよな」
その声は震えている。
「ありがとう」
そうひとこと言いおいて、文秋は次の部屋に続くドアを開いた。
そしてひとり先に部屋に降り立つと、梨乃と春美を通路に残したまま、そのドアを力強く締めたのだった……。
☆☆☆
「文秋! 文秋、お願いここを開けて!」
目の前で閉じられたドアを梨乃が両手で叩く。
ガンガンと音が響くが、ドアはびくともしない。
「うそでしょ。本当に1人で行くなんて!」
後ろから春美がうろたえた声を上げる。
どうにかしてドアを開かないと、文秋が死んでしまうかもしれない。
梨乃は通路に体を横にすると、今度は足でドアを蹴破ろうとする。
けれど、それもびくともしなかった。
さっきまでは簡易的や通路だと思っていたけれど、それは見せかけだけだったのかもしれないと感じ始める。
少なくてもこのドアはかなり頑丈な作りになっている。
「どうしよう、梨乃……」
春美の不安そうな声が不穏な空気と共に聞こえてきたのだった。
☆☆☆
通路から出た文秋はすぐにドアを締めた。
同時にカチッと、自動で施錠される音が聞こえてきてフッと肩の力を抜く。
きっと通路内ではふたりが騒いでいるだろうけれど、その声は部屋の中までは聞こえてこなかった。
ドアがあった場所に両手をついて大きく息を吸い込む。
この部屋からは自分1人で行く。
もう、誰のことも傷つけない。
春美がゾンビに襲われてしまったときから、ずっと考えていたことだった。
このゲームは自分1人でクリアしなければいけないんじゃないか。
これ以上、誰も傷つけてはいけないんじゃないかと。
それなのに、怖くて言い出すことができなかった。
1人で先へ進むことなんて考えたくもなかった。
けれど今度は梨乃まで怪我をして、通路から脱出するために血を流させてしまった。
春美の爪が剥がれた時についに自分の中で限界を感じたのだ。
これ以上友人が傷つく姿は見たくないと。
胸が苦しくて呼吸ができなくなりそうだった。
ふたりが傷ついてくのに、自分が無傷で先へ進んでいることも許せなかった。
梨乃と春美のふたりは文秋の幼馴染で、幼稚園から一緒に過ごしていた。
女の子の中に男がひとり混ざっていることで、まわりからからかわれたことも沢山ある。
けれどそんなこと関係ないくらい、ふたりと一緒にいると素の自分でいられることができた。
幼いころはふらりに混ざっておままごと遊びもしたし、逆にカードゲームとかを教えてあげることもあった。
いつしか3人でいることが当たり前になって、今でも一緒に行動している。
中学に入学してからも3人が同じクラスになるとは思っていなかったから、もはや運命じゃないかと文秋は感じていた。
きっと、これから先も自分たち3人はずっと一緒にいるんだ。
高校に入学しても、大学に受かっても、その先も。
そんな人生をともにする友人だと思っている。
そっと壁から手を離す。
そして部屋へと振り向いた。
その部屋はまた洋室だった。
今までの洋室と少し違うと言えば、なにもかもが小さいことだった。
真ん中に置かれているテーブルも、右手にあるベッドも、一人掛け用のソファも。
すべてが子供サイズで、かわいいイラストが描かれている。
そして部屋の中のあちこちにぬいぐるみが散乱している状態だ。
「子供部屋か……」
天井を見上げてみると、証明にも小さなぬいぐるみがぶら下がっていて、くるくると回転している。
しかし異変にすぐに気がついた。
いつもなら部屋に入ってすぐに水が流れ落ちてくるのに、今はそれがないのだ。
まるで蛇口を固く閉めたままのように、水は一滴も落ちてこない。
「どうなってるんだ?」
文秋は怪訝そうな表情を浮かべて室内を観察する。
他に変化はないのか調べてみたいけれど、ゾンビが出現する可能性があるのでむやみに室内の物に触れるわけにもいかない。
とにかくヒントと探すか。
そう思ったときだった。
『ゲームを中断します』
突然聞こえてきた声にビクッと身を震わせて部屋の真ん中付近で立ち止まる。
天井を見上げてスピーカーを探すけれど、見つけることはできなかった。
だけど今のは確かに自分たちをここへ連れてきた大元の声で間違いない。
ゲームのルールを説明したときも、これと同じような感じだった。
「中断って、どういうことだよ!?」
こちらの声が聞こえているかどうかはわからないけれど、文秋は叫ぶ。
『人数が足りません』
機械的に言われてハッと息を飲む。
人数が足りない。
つまり、梨乃と春美を置いてきてしまったことを言っているのだ。
このゲームは元々複数人で行うものとして招待状をもらっている。
だから、人数が足りないとプレイできないと言っているんだろう。
「ふたりは怪我をしたんだ! ここから先は俺1人で行く!」
しかし、スピーカーからの反応はなかった。
本当に聞こえていないんだろうか?
文秋にはわざと無視しているように感じられてならない。
沈黙することで、余計にこちらを焦らせているのだ。
静かな空間に奥歯を噛みしめて、拳を握りしめる。
「とにかく、俺は1人でもやる」
そういい切ってヒント探しを再開した。
とにかくここから脱出できればいそれでいいんだ。
人数なんて関係ない。
そう自分に言い聞かせて。
しかし、文秋がヒントを見つける前にカチッと小さな音がして全身が凍りついた。
これはゾンビが出てくるときのドアが開くときの音だ。
今まで何度も聞いてきたその音に文秋の動きが鈍くなる。
振り向けばそこにすでにゾンビが立っていて、噛み付こうと口を大きく開いているのではないか。
そう思って体がガチガチに固まってしまう。
見たくない。
だけど見なきゃいけない……。
ギギギッと錆びたおもちゃみたいな動きで文秋が振り向くと、そこには梨乃が立っていた。
思わぬ人に「ギャア!」と悲鳴を上げて飛び退いた。
梨乃の後ろからは春美がドアから出てくるところだった。
「私はゾンビじゃないよ」
梨乃が呆れ顔を浮かべている。
「ど、どうして……通路にいたのに!」
「一度ドアの鍵が閉まったけれど、また開いたの。なんでかわからないけどね」
梨乃が大人みたいに肩をすくめてみせる。
きっと、プレイ人数が足りないからだ。
だから一度閉めたドアの鍵がまた開いて、梨乃と春美をこの部屋に誘導してきたのだ。
それを証明するように『ゲーム再開』と声が聞こえたかと思うと、天井から水が流れ落ちてきた。
文秋はチッと小さく舌打ちすると同時に、安心感を覚えていた。
1人で行くと豪語したものの、やはり恐ろしいことには変わりなかった。
ここで死んでしまうかもしれないと、覚悟も決めていた。
それがこうしてまた友人と会うことができて、こんな状況なのに少し心が踊っているのも事実だ。
自分の覚悟の弱さにうんざりしてしまう。
「ここは子ども部屋なんだね」
部屋の中を見回して春美がつぶやく。
「そうだね。ベッドも机も小さい。あれはおもちゃ箱?」
梨乃がベッドの横に置かれている籐のかごに近づいていく。
中にはおもちゃの飛行機やロボットが詰め込まれていて、おそらくは男の子の部屋をモチーフにしているのだろうということがわかる。
それにしてはぬいぐるみの数が多いようだけれど。
部屋に置かれているぬいぐるみはあちこちに散らばっている。
下手をすれば踏みつけてしまいそうなので、慎重に足を前へ出す。
「ぬいぐるみ以外は綺麗に片付いてるのにね」
春美は首をかしげている。
確かに、ベッドの上もテーブルの上も本棚の絵本も乱雑さはなくスッキリしている。
ただただ、床に散乱しているぬいぐるみだけが異質な雰囲気を醸し出している。
「とにかくヒントを探さないと」
梨乃はそうつぶやくと小さな子ども用のテーブルに近づいた。
天板がクマの形をしていて可愛らしいそれは、小さな椅子とセットで置かれている。
どちらも背が低いから早くしないとすぐに水の中に沈んでしまいそうだ。
「星マークが描かれている」
梨乃はテーブルの上に置かれていた紙に視線を落としてふたりへ向けて声をかけた。
「星マーク?」
すぐに春美が近づいてきて横から紙を覗き込んでくる。
用紙を裏返してみるけれど、他にイラストや文字は描かれていないみたいだ。
「星のものを探してみようか」
これしかヒントがないのだから、まずはそうするしかなさそうだ。
「そうだね」
梨乃は頷き、3人で手分けをして部屋の中を捜索することになったのだった。
☆☆☆
梨乃たちはまず子ども部屋に散乱しているぬいぐるみたちをかき分ける作業を始めた。
ぬいぐるみを一体一体手に取り、星マークが描かれていないか確認していく。
ぬいぐるみの背中やタグを確認する作業の中で、文秋がふと手を止めた。
「これだけぬいぐるみがあるのに、ウサギと猫ばかりだな」
重なり合ったぬいぐるみたちをどかしてもどかしても、出てくるのはウサギと猫のぬいぐるみばかり。
オモチャや絵本はそれ以外の動物が出てくるのにと、首をかしげる。
「言われてみればそうだね」
梨乃が手を止めて同意する。
色とりどりのぬいぐるみたちだから一見様々な種類の動物がいるように見えるけれど、手にとって確認していくとそのどれもがウサギと猫であることがわかる。
けれど、ヒントは星マークだ。
今、ウサギや猫は関係ない。
そして膨大な数のぬいぐるみたちを調べていっても、星マークを発見できなかった。
梨乃は手を止めてふぅと短く息を吐き出す。
ぬいぐるみを調べる作業だけで随分と手間取ってしまった。
水は足首を浸し始めていて、ぬいぐるみは水を吸い込んで重たくなってきている。
「ぬいぐるみは関係なかったみたいだね。後はオモチャとか、絵本かな」
しゃがみこんでぬいぐるみを確認していた春美が腰を上げて言う。
星型のオモチャとか、星が出てくる絵本は無数にありそうに思える。
とにかく、捜索を続けるしかない。
梨乃は気を取り直すように息を吸い込んで本棚へと足を向けた。
背の低い本棚は側面が虹色に塗られていてカラフルだ。
背も低く、差し込まれている本も絵本や児童書ばかりで、子供が好きそうなものばかりだった。
幼い頃に梨乃も読んだことのある絵本が何冊かあって、こんな状況なのに懐かしい気持ちになる。
ほんの一時、嫌な現実を忘れられた気がした。
「これ、懐かしいな」
おもちゃ箱を探していた文秋が飛行機のオモチャを手にとってつぶやいた。
「電池を入れたら光ながら走るんだ」
昔同じ物を持っていたようで、その目が優しく細められている。
けれど私達には過去を振り返って懐かしむ余裕はなかった。
膨大な数のぬいぐるみに時間をとられたせいで、今や水位は太もも付近までやってきている。
ヒントになっている星マークを探すのに時間を取られすぎている。
梨乃は懐かしい気持ちを自分の胸に押し込めて本棚に向き合った。
絵本を一冊ずつ手に取り、パラパラとページをめくっていく。
星が出てくる物語は無数にあるはずなのに、調べても調べても星の絵は出てこない。
ついに最後に一冊になったとき、水はすでに太ももの上まで到達していた。
「どうしてどこにも星マークがないの!?」
本棚を調べ尽くしてしまった梨乃が青ざめて叫ぶ。
今では少し歩くのでも水が邪魔してうまく歩けない。
背の低いテーブルと椅子は水の中に沈んでしまっていた。
「もっと、別の場所を探す必要があるのかもしれないな」
おもちゃ箱を調べ終えた文秋が左右に首を振って答える。
おもちゃ箱の中にもヒントに通じるものはなにもなかったようだ。
焦りが全身を支配して背中に汗が流れていく。
このままなにも見つけることができないのではないかと、最悪の事態が脳裏をかすめる。
梨乃は悪い想像を左右に首を振ってかき消した。
「春美のところはどう?」
春美はテーブルの下やベッドの下を調べてくれていた。
「ダメ……なにもないみたい」
疲れた顔色でそう返事をする。
でも、そんなはずはないんだ。
この部屋のどこかに必ずヒントに通じる星マークがある。
じゃないと脱出ゲームとして成立しないんだから!
梨乃はまだ探していない場所がないか、見落としがないか、念入りに部屋の中を見つめる。
小ぶりな本棚の上には白い花瓶が置かれていて、持ち上げてみると重たくて冷たい。
花瓶に刺さっているのはピンク色の花で、甘い香りがするから生花だとわかった。
花瓶の中にはちゃんと水も入れられていて波打つのを感じた。
花瓶を自分の顔よりも上に持ち上げて底を確認してみる。
そこにはなにかの刻印が押されているけれど、残念ながら星マークではなかった。
「どうしてどこにも星マークがないんだろう……」
花瓶を本棚の上に戻して梨乃はつぶやく。
その表情は絶望に満ちていて、肌は青白く輝いている。
「そんなハズない。きっと、見落としたんだ」
文秋も青い顔をしているけれど、どうにか前向きになろうとしているのがわかる。
もう1度、すでに調べた場所を3人で調べ直していく。
膨大な数のぬいぐるみも、本棚も、おもちゃ箱も。
だけどやっぱりどこにも星マークは見つけられない。
水位はどんどん増えてきて、今では梨乃の腰くらいになっていた。
両手で水をかき分けながらでないと、歩けなくなっている。
あと少し水位があがれば、梨乃の頭の上まで来てしまうだろう。
そう思うと心臓がギュッと握りしめられるような恐怖に襲われた。
前の部屋で水の中に沈み込んだことから、それがどれだけの恐怖か身にしみて理解していた。
息ができなくて、目の前の景色も歪んで見えて、意識が真っ白に染まっていく。
その瞬間、あぁ、自分はここで死ぬんだなと覚悟した。
やりたいことはまだまだ沢山あって、将来の夢もあって、それらが無理やり自分から剥ぎ取られていく感覚。
友人も家族も学校も、なにもかもが手のひらからこぼれ落ちていく恐怖。
梨乃は思い出して強く身震いをした。
もう二度と、あんな気持ちになりたくはない。
苦しみだって味わいたくない。
だけど今まさにもう1度その恐怖が差し迫ってきているのだ。
しかもそれは、自分だけではなくて友人らも巻き込んでの恐怖だ。
「まさか、星マークのものなんてなにもないんじゃないよね?」
春美が青ざめた顔で誰にともなくつぶやいた。
「そ、そんなわけないじゃん! これは脱出ゲームなんだから、必ずヒントの通りのものがあるよ」
梨乃は自分の恐怖心を押し殺して叫ぶように返事をする。
じゃないと恐怖で心が潰れてしまいそうだった。
「……本当に俺たちを外に出す気があるのかな」
文秋が梨乃の叫び声をかき消してしまうように言う。
その声はとても小さかったけれど、大きな衝撃を他のふたりに与えた。
梨乃は大きく目を見開いて文秋を見つめ、春美はその場に崩れ落ちてしまいそうなほど全身の力が抜けていく。
「それ、どういう意味?」
梨乃が質問する声が震えている。
「だって、ふたりともこんなに怪我をしてるし、それって会社としては致命的な問題になるだろうし。だから、俺たちもう外へ出ることってできないんじゃないかなって……」
言いながら声が弱々しく消えていく。
「ここで起きたことを隠蔽するかもって言いたいの?」
梨乃の言葉に文秋は何度も頷いた。
この試作品は失敗した。
怪我人が出ているのだから、世に出すこともできない。
それならいっそ、プレイヤーごと闇に葬ってしまおう。
そんな、開発者たちの思惑が一瞬だけ梨乃の前に見えた気がした。
けれど、それも首を振って振り払う。
よくないことばかりを考えていたら前に進むことができなくなってしまう。
ヒントが目の前にあっても見つけることができなくなってしまうかもしれないんだ。
「そんなことない、きっと大丈夫だから!」
なんの根拠もなかったけれど、梨乃はそう叫んだ。
きっとここから脱出することはできる。
ゲームは絶対にクリアして、3人で帰るんだ!
「そ、そうだよ。脱出できるって、信じなきゃ」
春美が梨乃に賛同して声を上げる。
文秋はうなだれたままだったけれど、またふたりで星マークを探し始めた。
きっと見落としてるところがあるはずだ。
ベッドの裏側とか、オモチャ箱の底とか。
どれを調べるにしても、もう水の中だ。
梨乃と春美はいちいち水の中から物を取り出しては調べていく。
ぬいぐるみはどれも沢山水をすっていて、両手で持っていてもずっしりと重たく感じるようになっていた。
おもちゃ箱の中にも水が入っていて、持ち上げるとはこの隙間から滝のように流れ落ちていく。
懸命に調べている間に春美が体のバランスを崩して壁にぶつかってしまった。
その瞬間、カチッと音がして電気が消える。
「ご、ごめん!」
部屋のスイッチを切ってしまったようで、慌てて手を伸ばしてスイッチを入れようとする。
と、そのときだった。
「待って!」
梨乃の声に春美は動きを止めた。
窓もなく、電気が切れた暗闇の中でキラキラと輝いているものがある。
それは天井や壁だった。
天井や壁に無数の星星が出現して、キラキラと光を放っているのだ。
「蛍光塗料だ!」
文秋が叫ぶ。
明るい場所では見えないけれど、暗い場所で光出す。
それは足元まで及ぶ無数の星空だった。
「あった! あったよ星マーク!」
春美が喜んでその場でばしゃばしゃと飛び跳ねる。
そう、星は見つけることができた。
だけどその膨大な量に梨乃はメマイを感じていた。
水位はどんどん上がってきている中、この星マークからなにかさらなるヒントを探す必要がある。
タイムリミットはどんどん近づいてきているんだ。
「星ってどれのことだ? まさか全部じゃないよな?」
文秋も同じように不安を感じているらしい。
暗闇ではよくわからないけれど。
「よく見てると、ひとつひとつ形が違うね?」
春美がそれに気がついた。
言われてみれば、星マークは一定ではなかった。
少し歪んでいたり、流れ星のマークになっていたり、2重になっていたりして同じものはふたつとしてない。
「もう1度、ヒントの紙を見てみよう。それで、描かれているのと同じ星マークを探すの!」
梨乃の言葉に春美が壁に手を這わせて電気をつけた。
パチッと音がして瞬時に部屋の中が明るくなる。
暗いところから明るいところへ出てきたときのように、一瞬目の前が真っ白になった。
次いで「キャアア!」と、春美の悲鳴が聞こえてきて梨乃と文秋は息を飲んだ。
春美の目の前にゾンビがいる!
きっと、電気のスイッチがゾンビ出現のスイッチになっていたのだろう。
ゾンビは目の前にいる春美に襲いかかろうとしている。
「やめろ!!」
咄嗟に動いたのは文秋だった。
文秋は本棚の上の花瓶を手に取ると、それを振り上げてゾンビの後頭部に打ち付ける。
ゾンビは一瞬ひるんだけれど動きを止めずに振り向いた。
頭から血が流れてきて、顔を濡らしている。
その様子に梨乃はヒッと息を飲んだ。
あんなに怪我をしているのに動けるなんて、やっぱり人間じゃない証拠だ。
青い血を流しながら文秋に襲いかかる。
文秋は何度もゾンビの頭に花瓶を振り下ろした。
やがてゾンビは脱力したように小さなテーブルの上に突っ伏してしまった。
青ざめた顔の春美がカタカタと震えている。
「ゾンビはまだ動き出すかもしれない。早く星マークを特定しないと」
文秋がすぐに動き出した。
けれど紙は水の下で、今はゾンビの体の下敷きになってしまっている。
まずはソンビを移動させないと、紙を確認することができない。
梨乃はゴクリと唾を飲み込んでゾンビに近づいた。
灰色の髪の毛が水の中でゆらゆらと揺れている。
それは今にもガバッ! と身を起こして襲いかかってきそうで、梨乃を躊躇させる。
「大丈夫。俺がついてるから」
文秋が花瓶を両手で握りしめて梨乃の横に立った。
ゾンビをバッドで殴ったときにはひどく後悔していたけれど、今は気にしている場合じゃないと気がついたみたいだ。
なにがあっても、自分が友人を守る。
文秋からはそんな強い決意を感じられるようになっていた。
梨乃は文秋をチラリと見て大きく頷く。
わかってる。
文秋を信用している。
そんな会話を視線だけで交わしてゾンビに一歩、また一歩と近づいていく。
そして梨乃はゾンビの肩に触れた。
そっと力を込めてみるとゾンビの体は水の中でゆらりと揺れて仰向けになる。
カッと見開かれた目と視線がぶつかって悲鳴を上げそうになるけれど、どうにか喉の奥に押し込んだ。
ゾンビの白濁した目はどこも見ていないように見える。
そして更にゾンビの体を横へずらそうとした、その時だった。
「これ見て!」
梨乃は思わず叫んでいた。
春美が近づいてくる。
水に沈むゾンビの首元に星マークが刻印されているのだ。
それは星が3つ重なったマークになっていて、3人は目を見交わせる。
「こっちが本当のヒントなのかもしれないぞ!」
文秋が声を上げ、すぐに壁際へ向かって電気を消す。
その瞬間部屋の中はプラネタリウムのように無数の星に包み込まれる。
大きな星や小さな星。
いびつに歪んだ星もあれば、黒く塗られている星もある。
3人は目を皿のようにしてゾンビの体に刻印されたのと同じ星を探した。
水に沈んでしまった壁は春美が潜って調べてくれた。
「ダメ。星の数が多すぎてわからない」
焦る気持ちと、上昇を止めない水位のせいで春美はすぐに水から顔を出した。
「あきらめちゃダメ! せっかくここまで来たんだから!」
天井の星を調べている梨乃が春美を舞妓する。
きっとこの部屋からも脱出してみせる。
一人も欠けることなく、全員で。
梨乃の心にはそんな強い感情が溢れていた。
「くそっ、こんなときに」
再び星を探し始めたとき、文秋の舌打ちが聞こえてきて梨乃はそちらへ視線を向けた。
みると、倒したはずのゾンビが水の中から立ち上がっていたのだ。
その姿はまるで死神のようで、恐怖で全身が冷たく凍りつく。
「ここは俺に任せて、2人は星探しを続けてくれ!」
文秋は叫ぶように言うと、花瓶を握りしめてゾンビに向かって駆け出した。
ばしゃばしゃと水を蹴散らして近づき、ゾンビの頭に一撃を入れる。
ゾンビは弱っていたのかその場で棒立ちになっているだけで、攻撃をしかけてくる気配はなかった。
その間に春美と梨乃は急いで星を探す。
三重になった星マークは1つだけのはずだ。
そこに、この部屋からの脱出のヒントがある!
梨乃は逸る気持ちを押さえて天井をくまなく調べていく。
見落としは厳禁だし、時間をかけることもできない。
呼吸をすることも忘れて調べていたとき、梨乃の視界に三重になった星マークが飛び込んできた。
「あった!!」
大きな声を上げるとふたりが同時に振り向いた。
その表情はパッと花が咲いたように明るい。
「あそこ!」
近づいてきたふたりに梨乃が天井を指差して教えた。
そこは本棚の真上くらいに位置している。
「あれか。よし、近づいて確認してみよう」
文秋が小さなテーブルを踏み台にして天井へ手をのばす。
しかし、寸前のところで届かない。
子供用のテーブルでは小さすぎるのだ。
「文秋、私をおんぶして」
咄嗟に梨乃はそう言って、文秋の背中に乗った。
幼馴染におんぶされるなんて初めての経験で、なんとなくくすぐったい気持ちになる。
梨乃は手を伸ばして三重の星に触れた。
そこだけポコッと浮き出しているのがわかる。
「スイッチになってる!」
指先にグッと力を込めてスイッチを押す。
その瞬間、ゴゴッと低い音が聞こえてきたかと思うと、すぐ近くにあった本棚が横へスライドしたのだ。
驚き、文秋の背から飛び降りる梨乃。
本棚の奥は少し上り坂の通路になっていて、奥へと続いている。
相変わらずオレンジ色の光で周囲は照らされていた。
春美が後方でゴクリと唾を飲み込む音が聞こえてきた。
次の部屋で最後だ。
そんな思いが伝わってくる。
「行こう」
最初に文秋が通路に足を踏み入れる。
通路には冷たい空気が流れていて、水に濡れた体を冷やしていく。
けれどゾンビと戦った後の文秋にはそれが心地よく感じられる。
「春美早く」
梨乃は春美を先に通路へといざなった。
ふたりとも怪我をしているけれど、自分の怪我は思ったよりもひどくないと梨乃は思っていた。
その証拠にこの部屋では動き回ることができたし、痛みも忘れてしまっていた。
「ありがとう」
春美が先に通路へ入っていく。
その後を梨乃が追いかける。
第4の部屋のドアが閉められる直前に「ガオォォォ!!」と獣の雄叫びのような声が聞こえてきて振り向いた。
さっきまで倒れていたゾンビがこちらへ向かって走ってくる。
水なんて物ともせず、すごいスピードだ。
梨乃は目を見開いてそれを見つめることしかできない。
本棚の戸は自動でゆっくりと閉まっていく。
ゾンビはすぐ目の前まで迫ってきていて、梨乃は思わず身を固くする。
ゾンビが手を伸ばして梨乃の足を掴むのと、本棚の戸が閉まるのはほぼ同時だった。
「キャア!!」
本棚の戸はゾンビの腕が挟まっていても容赦なくガシャンッと音を立てて閉まった。
梨乃の足首を掴んでいる腕だけが通路に取り残される。
「梨乃!?」
春美が振り向いたとき、ゾンビの手は力を失ってボトリとその場に落ちたのだった。
☆☆☆
3人は無言で通路の中を進んでいる。
先頭が文秋で、次が春美。
最後尾を梨乃がついていく。
身を屈めていないと通れないくらいの背の低い通路を進んでいくのも、きっとこれで最後になる。
そう思うとなんとも言えない感情が梨乃の中に湧き上がってきた。
一刻も早くこんな場所からはおさらばしたい。
けれど、本当にそんなに簡単に脱出ができるのか不安が残る。
文秋が第4の部屋で言っていた通り、ゲーム会社からすればこれは隠したい事実のはずだ。
ゲームの試作品でけが人を出した上、死と隣合わせにしてしまった責任は重大だ。
そんなことを経験した自分たち3人を生かして帰してくれるだろうか。
梨乃は前へ進みながら昔見たホラー映画を思い出していた。
その映画の中でも、今の自分達のように密室空間に閉じ込められて、死ぬかもしれない恐怖と戦うものだった。
あの映画の中では最初5人の登場人物がいたけれど、結局主人公の女の子1人しか助からなかった。
ここでも、そんなふうに一人しか帰れなかったらどうしそう。
今は3人がバラバラになってしまうことが一番怖かった。
ここまで来たんだから、必ず全員で帰りたい。
「次の部屋だ」
先頭を歩いていた文秋が足を止めて言った。
横から覗き込んでみると、通路の終わりが見えた。
そのドアを開ければ最後の、第5の部屋に出ることになる。
梨乃は自然と唾を飲み込んでいた。
緊張と恐怖と、もうすぐ終わるという安堵感が湧き上がる。
「ドアを開けるぞ」
文秋の言葉に春美が頷く。
梨乃も同じように頷いて見せた。
ここまで来たら、もう覚悟はできている。
文秋はふたりの返事をまって、目の前のドアを押し開けた……。
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