第4話 第3の部屋
3つ目の部屋へと続くドアを開けると、そこは今までにない和室だった。
降り立った足には畳の柔らかな優しい感触が伝わってきて、少しだけ心が柔らかくなる。
部屋の中にあるのは背の高いテーブルや椅子ではなく、座卓や文机だ。
テレビなども置かれているけれど、唯一背の高い家具は本棚だけだった。
この本棚も今までにない重厚感がある。
3人が部屋に降り立つと入ってきた壁のドアは音もなく閉まって、鍵が駆けられた。
同時にゲームスタートだ。
壁際の天井から水が流れ落ちてくる。
「座卓の上になにかある」
春美がつぶやいて座卓へと近づいていく間に、文秋が座椅子に座り込んでしまった。
その顔色はまだ悪く、唇まで青い。
「文秋、大丈夫?」
梨乃が声をかけるが、文秋は苦しそうに顔を歪めて横になってしまった。
「気分が悪い」
そう言って自分の両手を見つめる。
その指先はまだ微かに震えていた。
「俺、人間をバッドで殴ったんだ」
「それは仕方のないことだってば」
ゾンビはこちらに襲いかかってくる。
文秋が攻撃してくれなければ、今頃通路の中まで追いかけられていたかもしれないんだ。
逃げ道のない通路で襲われたらひとたまりもない。
「わかってるよ。でも、ゾンビを殴ったときの感触がまだ両手に残ってるんだ」
だから文秋はさっきから自分の両手を見つめているのだと気がついた。
梨乃は戸惑うような表情を一瞬浮かべたあと、すぐに文秋の両手を自分の両手で包み込んだ。
「文秋のおかげで私と春美は助かったの。だから、その感触は忘れちゃっていいんだよ」
そんなことを言って簡単に忘れられるようなものではないことは理解している。
けれど、今はこうして文秋に寄り添うことしかできない。
梨乃は懸命に文秋の両手をさすり続けた。
震えていた手がだんだん熱を帯びてきて、その頃には震えはほとんど止まっていた。
見ると文秋の顔色も少し良くなってきている。
「大丈夫?」
ヒントを探していた春美が心配そうに近づいてくる。
「もう、大丈夫だと思う」
文秋は額に浮かんでいた脂汗を手の甲で拭うと、上半身を起こして座椅子の背もたれに背を預けた。
いつまでも寝転んでいるわけにはいかないと思ったのだろう。
「春美、なにかヒントは見つかった?」
梨乃の質問に春美は眉間にシワを寄せる。
「それが……」
そう言ったきり口を閉じて、真剣な表情で座卓へ視線を向けている。
今までのヒントはみんなテーブルの上にあったから、この部屋も同じだろう。
そう思って梨乃も視線を向けてみたとき、眩しい光を感じて思わず目をつむる。
座卓の上が光り輝いている。
一体なんだろう?
もう1度目を開けて座卓の上を確認してみると、そこには手鏡がひとつ置かれていた。
鏡面が表を向いているので、電球に反射して眩しかったみたいだ。
「なにこれ、手鏡?」
梨乃は座卓に近づいて手鏡を手に取る。
サイズは梨乃の手のひらくらいで、青色の少し古いものだとわかる。
鏡面を確認すると細かなキズが沢山ついていて、自分の顔が少し歪んで映る。
裏返してみるけれど、そこにはなんの柄も絵もなく、ツルツルとしている。
「なにこれ。これがヒント?」
「わからない。でも、他にはなにも見当たらないし」
春美が座卓の周辺を探すが、それらしいものはなにもない。
もしかしたらヒントは別の場所にあるのかもしれない。
部屋が進むにつれて脱出ゲームとしてのレベルも上がってきているだろうから、いつまでも同じ場所にヒントを置いておくとは限らない。
そう考えた梨乃はすぐに手鏡を座卓へ戻して他の場所を調べることにした。
部屋にあるのは座卓に文机に、テレビにテレビ台。
それに本棚だ。
調べるとすればテレビ台か、文机の引き出しの中だけれど、部屋に動き回ってゾンビを放出してしまうわけにもいかない。
ここは慎重に考えないと。
緊張から無意識のうちに拳を握りしめて、手のひらにじっとりと汗が滲んでいた。
「梨乃、ヒントは?」
まだ少し顔色の悪い文秋が聞いてくる。
梨乃は無言で左右に首を振って答えた。
「今回はヒントのありかも難しいのか」
文秋は呟くように言って立ち上がった。
少しふらついたけれど、壁に手を当ててどうにか倒れずに済んだ。
大きく深呼吸を繰り返して、どうにか気持ちを落ち着かせると、梨乃たちと一緒にヒントを探し始めた。
そうしている間にも部屋の中に水は溜まってきていて、足首までひたひたにしている。
水が溜まってくれば当然歩きにくくなってきて、ヒントを探すことも困難になってくる。
梨乃は焦りが顔に滲んできていたけれど、それにも気が付かずに机の下や床を確認していく。
本当は引き出しの中まで確認したかったけれど、不用意な行動は取れないから後回しにしていた。
「ダメ。なにもない」
部屋中をくまなく探していた春美が溜息と同時にそう吐き出した。
春美の顔にも焦りの色が浮かんでいる。
「なにもないってことはありえない。これは脱出ゲームなんだから」
文秋がハッキリといい切った。
残っているのは棚の中や本棚だ。
文秋はそちらへ視線を向ける。
「確認してみる? ゾンビが出てきたらどうする?」
梨乃の言葉に「出てきたときには攻撃するか、逃げるかしかない」
「でも、そのときにドアが開いてなかったら?」
第2の部屋ではドアがすでに開いていたのに関わらず、ゾンビがすごい勢いで襲ってきたんだ。
そう考えると、ドアも開いていないのにゾンビが出てくるのはこちらには不利すぎる。
「でも、それでなにもしなければゲームーオーバーだ」
文秋はわざと足で水を鳴らして答える。
梨乃はグッと返答に詰まった。
安易に調べ回ることは得策ではないが、このままヒントを見つけることができなければ溺死……。
そんな重たいものが心の天秤で揺れている。
「聞くけど、テーブルにはなにもなかったんだよな?」
文机に向かう文秋が途中で振り向いてそう聞いてきた。
梨乃は座卓に置いてある手鏡に視線を戻す。
「ううん。あるにはあったんだけど、ヒントかどうかわからないの」
その言葉に文秋は方向転換し、梨乃の後方にある座卓へ向かった。
そこには青い柄のついた手鏡が無造作に置かれている。
今は鏡面を下にしているので、反射して眩しいこともない。
文秋は難しそうん表情を浮かべて手鏡を見つめている。
「これ、この場所にこの格好で置いてあったのか?」
その質問には春美が答えた。
「ううん。もう少し真ん中辺に、鏡を上にして置いてあったよ」
春美の説明を聞きながら文秋が手鏡の場所を移動する。
鏡面を上にして起き直したとき、また眩しさに目を細めた。
文秋も一瞬目を細めたものの、鏡面をジッと見つめている。
「どうかしたの?」
気になって近づいていくと、文秋が鏡面を指差した。
春美とふたりで覗き込んでみると、そこには天井が映し出されている。
「なにも映ってないじゃん」
春美の言葉に梨乃が「あっ」と小さく声を上げる。
座卓は背が低く、天井までの距離が遠い。
だからパッと見ただけでは気が付かないけれど、天井には四角切れ目があるようなのだ。
鏡から目を離して直接天井を見上げてみる。
確かに、人一人が通れるくらいの四角い切れ目がある!
「きっと、あれが通路に続いてるんだよ!」
梨乃が天井を指差して春美に言った。
春美の頬に希望の赤みが差し込む。
「じゃあ、あの天井を開けばこの部屋からは脱出できるってことだね!?」
だけど、この部屋は和室で、置いてあるものはすべて背が低い。
テーブルや椅子があれば梨乃と春美でも天井に手が届くけれど、今回は無理そうだ。
ふたりの視線が背の高い文秋に向かう。
文秋はすでに自分がやるべきことを理解しているように頷いて、座卓の上の手鏡を横へずらした。
一度両手で座卓を押して強度を確認する。
文秋が体重をかけてても座卓は悲鳴を上げることなく、どっしりと構えている。
これなら大丈夫そうだ。
文秋は右足から座卓に上がり、その中央付近で天井に手をのばす。
鳴っ学て細い両手が天井を押し上げようとするけれど、うまくいかない。
「ダメだ。開かない」
せっかくヒントを見つけたと思ったのに、落胆してしまう。
あの鏡はやっぱりヒントにはなっていなかったんだろうか。
だとすれば、ヒントは引き出しや棚の中にあるということになる。
ゾンビが出現する可能性が高くなるけれど、やってみるしかないのか……。
考えてこんでいると、不意に文秋が「穴がある!」と、声を上げた。
視線を天井へ戻して見ると、文秋が四角い切れ目の横に小さな穴を発見していた。
その穴は言われなければ気が付かないほどに小さい。
「これ、きっと鍵穴だ。鍵を探せば外に出られるんだ!」
興奮した文秋の声。
でも、その穴はやけに小さい。
普通の鍵ならすぐに見つけることができるだろうけれど、あんなに小さい鍵をどうやって見つければいいんだろう。
梨乃は部屋の中を見回す。
どうにか、あまり物に触れることなく鍵を見つけ出したいけれど、そんなことは言っていられないかもしれない。
あの小ささの鍵であれば、どこにでも隠すことができるし、なおかつ探すのは大変になる。
梨乃は下唇を噛み締めた。
「とにかく、探すしかなさそうだな」
文秋がそう言って座卓から降りた、そのときだった。
どこかでカチッと小さな音がして3人は同時に動きを止めた。
今のは今までの部屋でも聞いたことのある音だった。
ゾンビが隠れているドア鍵が空いた音。
3人の顔から血の気が引いていく。
誰も何も言わずに部屋の中を警戒して見回す。
壁の中からか、それとも本棚の奥からか。
どこから出現するかわからないゾンビに体を寄せ合う。
しかし、待っていてもゾンビはどこからも出てこない。
室内にはどんどん水が溜まっていくばかりで、他に変化はなかった。
「今の音はなんだったんだ?」
沈黙に耐えかねたように文秋がささやく。
梨乃は左右に首を振った。
確かに聞こえた音は自分たちの聞き間違えだったんだろうか?
「文秋が座卓から降りた瞬間に聞こえたよね。座卓に上がって降りるっていう行為が、なにかのスイッチになってたのかもしれないよ」
怖いのか、春美が自分の考えを早口で説明する。
文秋がさっきまで自分が乗っていた座卓へ視線を向ける。
手で押してみても反応はない。
けれど、座卓の中央付近、文秋が乗っていたあたりを押してみると微かに天板がくぼむのがわかった。
文秋が細長く息を吐き出す。
春美の言う通り、どこかのドアと連動していたんだろう。
そしてそのドアはすでに開けられている。
でも、ドアはどこに……?
そう思ったときだった。
溜まってきているはずの水が足首より上まで登ってこないことに、梨乃は気がついた。
それどころか、さっきから水位が下がってきているように感じる。
「ちょっとまって……」
異変を感じた梨乃が数歩後ずさりをする。
それにつられうようにして春美と文秋も後ずさりをする。
部屋の水をジッと見ていると、渦を巻いているのがわかった。
その渦は梨乃も見たことがあるものだった。
水を張ったお風呂のせんを抜いたときにできるものだ。
つまり、今この部屋は床のどこかが少し開いていることになる。
そしてその渦は梨乃たちの目の前に出現していた。
ぐるぐると渦をまく水。
その下にうごめく黒い陰が見えた。
ゾンビは出てきていないんじゃない。
とっくの前にでてきていたんだ。
ただ、水に沈んだその姿を梨乃たちが認識できなかっただけで。
そう気がついた次の瞬間、バサァッ! と水をかき分けるようにして一体のゾンビが出現したのだ。
「イヤアア!!」
春美が悲鳴を上げて逃げまどう。
文秋が咄嗟に横に避けてゾンビと距離を取った。
梨乃だけ頭が真っ白になってその場に取り残される。
「梨乃!」
文秋が叫んで長い手を伸ばして梨乃の腕を引っ張った。
体のバランスを崩し、床に倒れ込むようにしてゾンビから離れる。
ゾンビがゆらゆらと揺れて異様に大きな目をぎょろつかせて室内の様子を観察している。
誰をターゲットにするか、決めているようにも見えた。
怪我をしている春美が涙をボロボロと流しながら部屋の住みへと移動していく。
もしもここで春美がターゲットにされれば、今度は助からないかもしれない。
そんな思いが梨乃の胸によぎる。
早く鍵を探さないといけないけれど、それはきっとゲームをやり馴れている文秋の方が適任だ。
「文秋、鍵を探して!」
未だ掴まれている文秋の手を振りほどいて梨乃は小声で言う。
文秋は我に返ったように頷いて動き出した。
まずはゾンビから離れた位置にあるテレビ台から調べ始めたみたいだ。
ゾンビはまだ動かない。
怠慢な動きだと見せかけて、勢いよく襲ってくる可能性もある。
梨乃は呼吸することも忘れてジリジリと後退した。
トンッと足がなにかにぶつかって立ち止まると、後方に文机があった。
文机はすでに半分ほど水に浸かっていて、そこから下だけ濃い焦げ茶色になっている。
視線を泳がせていると文机の上にあるペン立てに引き寄せられた。
それは牛乳パックの側面にキレイな和紙を貼り付けてを再生したもので、昔祖母の家にあったのを思い出させた。
本来なら懐かしい気持ちになるところだけれど、今の梨乃にそんな暇はない。
梨乃はそっとペン立てに手を伸ばして、そこにあった大振りなハサミを手にしていた。
文秋はバッドでゾンビを殴ったと、自分を嫌悪していた。
その時の感触がまだ残っているのだと、恐怖にふるえていた。
自分にもそんなことができるとは到底思えない。
でも……やるしかない。
梨乃はハサミを握りしめてソンビへ視線を戻した。
ゾンビはまっすぐに梨乃を見つめている。
どうやらゾンビはターゲットを梨乃に決めたみたいだ。
梨乃はゴクリと唾を飲み込んでゾンビを見つめる。
ボロボロの服に縮れた髪の毛。
皮膚もところどころ剥がれ落ちて黒ずんでいる。
これは人間じゃない。
人間じゃないんだと、何度も心の中で自分自身に言い聞かせる。
やがてゾンビが大きく口を開いた。
中から真っ赤な舌と長すぎる犬歯が覗く。
「ウオォォォ!」
化け物の咆哮のような雄叫びを上げて、全身がビリビリとしびれる感覚がした。
春美がその場にしゃがみこんで両耳を塞ぐのが見えた。
文秋はソンビの咆哮にも反応せずに懸命に鍵を探している。
「ああああ!」
梨乃はゾンビに負けじと咆哮を上げて両手でハサミを握りしめた。
そして襲いかかってくるゾンビに腹部に突き立てる!
ゾンビは一瞬動きを止めるが、すぐにその体制のままで咆哮をあげた。
ダメだ!
攻撃が効かない!
ハサミが突き刺さったままのゾンビが更に梨乃に襲いかかってこようとする。
梨乃は咄嗟にハサミを引き抜いてかがみ込んだ。
梨乃の上半身があった場所めがけてソンビが食らいかかり、ガチンッ! と歯と歯がぶつかり合う音がする。
それはまるで金属同士を激しくぶつけ合ったときのような音で、あんな歯で噛まれたら骨まで砕けてしまう。
梨乃は青ざめながらもゾンビの足元に入り込んだ。
そしてハサミを振るう。
ハサミはゾンビの健を切り裂き、ゾンビはその場にどっと倒れ込む。
ジワリと青い血が水の上に滲んで広がっていく。
ゾンビはそれでも立ち上がろうともがき、バシャバシャと水を跳ねさせた。
梨乃はハサミを捨てると、すぐに文机にとびついた。
引き出しを開けて中を確認していく。
春美も立ち上がり、すでに水の中にある布団をひっくり返してみたりしている。
けれど小さな鍵はどこにもない。
文机の引き出しの中はすべて空だった。
「鍵はどこにあるの!?」
梨乃は思わず叫ぶ。
ゾンビの動きを封じているとはいえ、このままではいつ攻撃されるかわからない。
ゾンビは今や部屋の中を這うようにして動き始めている。
水はどんどん水位を上げていき、ふくらはぎまで到達しようとしている。
水によってこちらの動きも封じられ、なかなか作業が進まない。
「文秋、お願い早く見つけて!」
もう、ゲーム好きの文秋に託すしかなかった。
こういう脱出ゲームや謎解きゲームだって散々やってきているからこそ、この場所に呼ばれたんだから。
「わかってる! ええっと、鍵の場所だろ? あのゲームなら本棚の中だったし、あっちのゲームだったら確か……」
ゲームスターダストが出しているゲームの内容を必死に思い出している。
その表情は険しく、だけど青白い。
春美も焦っているのか、さっきから布団の周辺ばかりを探している。
「春美も、もっと別の場所を探してよ!」
制限時間があるため、つい声が荒くなってしまう。
そんな自分にも苛立ちを感じて私は文机を力任せにひっくり返した。
裏側に鍵がひっついているんじゃないかと期待したけれど、そこにはなにもなかった。
ここにもない!
じゃあ、一体どこにあるっていうの!?
焦りと恐怖で呼吸が乱れて苦しくなってくる。
そんなはずはないのに、酸素まで薄くなってきているのではないかと疑ってしまう。
その時だった。
ザバッ! と音がしてゾンビが立ち上がったのだ。
ゾンビは全身ずぶぬれて、足だって怪我をしているくせにゆっくりゆっくりとこちらへ向かって来ている。
その目は梨乃をジッと睨みつけているように見えた。
さっき攻撃したことを怒ってるんだ!
咄嗟にハサミを手にしようとしたが、途中で投げ出してしまって水の中に沈んでしまっている。
ずっと持っておけばよかったのに!
自分の甘さに嫌気がさしてゾンビから後ずさりをする。
「梨乃!」
気がついた文秋が声を上げるけれど「こっちのことは気にしなくていいから、鍵を探して!」と、叫ぶ。
幸いにもソンビの動きは鈍くなっていて、これなら逃げ切ることができそうだ。
とにかく春美と文秋に興味が向かないように自分がおとりになるしかない。
「こっち! こっちだよ!」
梨乃はわざと水音を立ててゾンビを誘導する。
ソンビが怠慢な動きで近づいてきている空きに距離を取る。
ゾンビは何度もガチンガチンッと歯を打ち鳴らして梨乃を捕食してしまおうと企てている。
その音が室内に響く度に梨乃の背中に冷や汗が流れた。
早く。
早く鍵を見つけて!
水はすでに太ももの下あたりまで来ていて、逃げる梨乃の邪魔をしている。
ゾンビとの距離は付かず離れずだ。
ふと視線をやると文秋がジッと天井を見上げているのがわかった。
なにをしてるんだろう?
そう思った時「鍵穴の横になにか描いてある!」と叫ぶ。
え?
視線を視線が天井へ向かう。
けれど背の低い梨乃には鍵穴もしっかり確認することができない。
その横の絵など、見つけることもできない。
呆然と立ちつくしてしまったのが悪かった。
気がつくとすぐ目の前までゾンビが迫ってきている。
大きく口を開けて牙を見せ、今にも梨乃に噛みつきそうだ!
梨乃は咄嗟に横っ飛びに避けたけれど、そのせいで水の中に浸かってしまう。
すぐに立ち上がると、またゾンビが目の前にいた。
このままじゃやられる!
サッと血の気が引いていき、呼吸が止まる。
梨乃はほとんど無意識のうちに水の中に沈み込み、ゾンビの右足を掴んでいた。
そして水に浮く力を利用して持ち上げる。
ゾンビが後ろ向きへ倒れて、ザバンッと水しぶきが舞う。
梨乃はその間に立ち上がり、またゾンビから十分な距離をとっていた。
ゾンビは水に埋もれてもがいている。
「この絵、テレビじゃない!?」
天井の絵を確認していた春美がハッとしたように叫ぶ。
その絵は横長の四角いもので、部屋の中にあるものでいうとテレビの形状によく似ていた。
「そうかもしれない!」
文秋がバシャバシャと水音を立てながらテレビへ近づいていく。
春美とふたりがかりでテレビ台やテレビ本体を調べていく。
外から叩いたり、持ち上げたりしているけれど、鍵らしいものは見つけられない。
「ふたりとも、早く!」
梨乃の声に文秋が振り返ると、ソンビがまた立ち上がっていた。
まさに不死身で、背筋がゾッと寒くなる。
早く鍵を見つけ出さないと、梨乃の体力もなくなってしまう。
「これ見て!」
春美が叫んでテレビへ視線を戻す。
そこにはテレビのモニターが扉のようにして左右に開いていたのだ。
「ここを押したら開いたの」
春美はモニターの上部を押して見せる。
カチッと音がして今度は閉まる。
また押すと観音開きのように左右に開く。
モニター枠の上部にマグネットがついていて、それが反応しているみたいだ。
とにかくモニターを開いてその中を確認する。
すると暗い空間の中に銀色の光るものが見えた。
それはとても小さな鍵で、丁寧に扱わないとすぐに無くしてしまいそうなものだった。
「あったぞ!」
文秋は鍵を取り出して梨乃に叫ぶ。
梨乃は再びソンビを水に沈めたところだった。
「開けて!」
頭までずぶ濡れの梨乃が叫ぶ。
文秋はすぐに座卓に乗って天井の鍵穴に鍵を差し込んだ。
回してみるとカチッと小さく音がして、四角い切れ目が少し下がる。
文秋が隙間に指を差し込んで横にスライドさせた。
天井から銀色の梯子が出現するして、ふたりへ振り向いた。
春美が涙目になりながらも微笑んでいる。
「春美が先に行って!」
ドアが開いたことに気がついた梨乃が叫ぶ。
春美は大きく頷いて梯子に手と足をかけた。
少し登りづらそうだけれど、上まで行ってしまえばまた横への通路が出現するみたいで、春美の姿はすぐに見えなくなった。
「梨乃、来い!」
座卓の上から文秋が呼ぶ。
梨乃はゾンビが水に沈んでいる空きに座卓へと駆け上った。
しかし、水はすでに座卓を浸水させてしまっている。
それくらい、この部屋では時間を食ってしまったことになる。
これからまだ2部屋も残っているのに大丈夫だろうかと、梨乃の胸に不安がよぎった。
けれど今はそんな事を考えている暇はない。
梨乃はすぐに梯子へ手をかける。
そして登ろうとしたそのときだった。
ザバッ! と水音がしたかと思うと、ゾンビが梨乃の足首を掴んできたのだ。
すぐそばに文秋がいるけれど見向きもしない。
ゾンビは完全に梨乃をターゲットにしている。
「なにするんだ! 梨乃を離せ!」
文秋がゾンビの背中を足で蹴るけれどびくともしない。
梨乃は座卓の上から床へと引きずり戻されてしまう。
「やめて! 離して!」
必死に足をばたつかせて抵抗するけれど、ゾンビの力には抗えない。
梨乃の足首を引きちぎらんばかりに握りしめている。
このままじゃ水の中に引き込まれちゃう!
足を引きずられる梨乃の体はすでに半身が水に浸かっていて、これ以上部屋の水位が上がれば頭まで沈んでしまいそうだった。
必死に抵抗すればするほど、ゾンビの力は強くなっていく。
そして再び引きずられ、その拍子に梨乃は頭まで水に浸かってしまった。
立つことができれば溺れることなんてないのに、足を掴まれている梨乃はただ沈んでいく。
もがいてもがいてようやく頭が水面から出たと思っても、またすぐに沈んでしまう。
「やめろよ!」
どこからか文秋の声が聞こえてきてバシャバシャと激しい水音が聞こえてくる。
けれど水の中にいる梨乃にはそれもくぐもっていて、うまく聞き取れない音だった。
それから足首に激しい痛みを感じたかと思うと、フッとゾンビの力が抜けていた。
意識が遠のきそうになっていた梨乃は必死に手を伸ばし、座卓を掴んで顔を上げた。
「ぷはぁ!」
大きく息を吸い込んで肩で呼吸を繰り返す。
目の前がチカチカして眩しいのはずっと水の中にいたからだろうか。
やがて呼吸が落ち着いてきたとき、文秋が手にハサミを持っているのが見えた。
梨乃が途中で手放してしまったものだ。
そして水が青色に揺れている。
あれはゾンビの血が。
その中に混ざっている赤いものはなに?
そう思ったとき、右足に激しい痛みを感じて顔をしかめた。
座卓の上に上がって確認してみると、足首から血が出ている。
傷跡には皮膚を噛みちぎられたような痕が残っていた。
「私、噛まれたの?」
文秋へ質問してから、水の中で激しい痛みを感じたことを思い出した。
あのときにゾンビに噛まれてしまったみたいだ。
「感染はしないから、大丈夫」
文秋が小さな声でそう答えたのだった。
☆☆☆
自分が囮になるはずが、結局文秋に助けられてしまった。
どうにか梯子を登りきった通路で私は大きく息を吐き出した。
「大丈夫?」
春美が心配そうに顔を覗き込んでくるけれど、疲れ切った顔を向けることしかできなかった。
後ろからやってきた文秋がTシャツの袖を破って梨乃の足首にきつく巻きつける。
少し痛みを感じたけれど、文句は言わなかった。
「もうこれ以上は無理だ。本当に死んでしまう」
文秋が真剣な表情で呟く。
春美も梨乃も、なにも言わなかった。
これから先あとふた部屋も残っているなんて信じられなかった。
それらをクリアしないと、本当にここから出ることができないんだろうか。
「せめてスマホがあれば外と連絡が取れるのにね」
春美が悔しそうに呟く。
ここへ来たときに私達の荷物はすべて預けてしまった。
思えば、最初からこうなることがわかっていたから、取り上げられたんだろう。
今ならそれがわかる。
「どうにか外に出られないかな」
文秋がつぶやいて通路の壁を叩き始めた。
壁がゴゥンゴゥンと響くような音が鳴っている。
通気口の中にいるような雰囲気だ。
「この壁、きっとそんなに頑丈なものじゃないよね。それなら壊せるかもしれない」
期待を見せたのは春美だった。
薄暗い通路の中を今一度確認してみると、あちこちにつぎはぎの溶接の後や、ネジが突き出したところが見える。
梨乃の顔にも希望が生まれた。
「このネジを外すことができれば、外に出られるんじゃない!?」
ドライバーなどは持っていない梨乃は少し伸びた親指の爪をネジ穴に差し込んだ。
「そんなことしたら爪が割れるぞ!」
「ここで死ぬよりはマシでしょう?」
文秋の反対を押し切ってネジを回す。
けれどネジはしっかりと奥まで差し込まれていて、そう簡単には緩まない。
「私も手伝う」
そうしている間に春美が隣にやってきて、同じように親指の爪でネジを外し始めた。
爪がギリギリと傷んで今にも剥がれてしまいそうだ。
だけど手の力を緩めることはできない。
こんなところで、まるで実験台みたいにして死んでいくなんて嫌だ。
私達にはまだまだやりたいことがあるんだから。
梨乃の脳裏にはいつもの学校風景が流れていた。
長い廊下を走る生徒たち。
たいくつな授業で寝てしまった時。
放課後になると途端に元気になって遊ぶ生徒たち。
そんな、珍しくもない風景が懐かしく感じられる。
戻りたい。
今すぐにでもあの生活の中に戻っていきたい。
チリッと痛みが走って親指の爪の端に血が滲んだ。
次いでピリピリとした痛みを感じて手を引っ込める。
春美も懸命にネジを回そうとしているけれど、うまく行っていない。
「あぁっ!」
春美が小さく悲鳴を上げたかと思うと、手を引っ込めた。
ネジの横に春美の形の良い爪が剥がれて落ちている。
それは血に濡れてまるで赤いネイルを塗っているようだ。
「もういい! もうやめてくれ!」
文秋が懇願するように叫ぶ。
その目にも涙が浮かんでいた。
爪が剥がれるまで頑張っても、ネジはびくともしない。
「次の部屋に進もう」
文秋の静かな声が通路にこだましたのだった。
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