悩み事はクロエまで。

血飛沫とまと

黒江マイ➀

 黒江マイは、その日ものんびりと過ごした。

 仕事は夜から始まる。なので、昼まで寝ていた。いつものことだ。


 昼に起床したマイは、適当なジャージに着替えて近場のスーパーマーケットへと向かう。そこで適当な食材を買って、家に戻る。そして父親と、自分の分の朝食兼昼食を作る。


 マイは今年で32歳になるが、実家住みだ。実家に住んでいるということに、なぜかコンプレックスを持つ人間や偏見を持つ人間もいるが、実家から出る理由もメリットもないというのに、わざわざ親元を離れて生活費を増やす理由が、マイには分からない。ので、別に恥ずかしいとは思わなかった。


 父親は61歳になる。

 彼はもう仕事をしていない。

 そのことについて、彼はたびたびマイに、


「申し訳ない。お前に苦労をかける前に、死ぬつもりだったんだが」


 と言う。

 だが、マイひとりを置いて死ぬなどということを、マイは誰よりも許さなかった。


「ごめんなぁ。毎日、毎日、お前が働いて、俺は家でぐうたらしてるだけ。……この、忌まわしい肺さえ治ってくれりゃ、苦労させることもないのに」


「治らないもんは治らないよ。それに苦労してないよ。お父さんが残してくれたお店があるもん。私、あそこ、大好きだもん」


 父親は、この世の何よりも、娘を可愛がった。そして、今もなお、可愛がってくれている。

 男手ひとつで自分を育ててくれた男を、誰が恨もうか。誰が迷惑がろうか。


 仕事を始めるのは、17時半頃から。社会人たちがそろそろ仕事にキリをつけて、少し酒でも飲んで帰ろうか、と、そんなことを考える時間だ。


 バー「Chloé」。


 それが、黒江マイの職場だ。

 元々は父が経営していたバーだ。マイが大学を中退してから、二人三脚で営んでいたが、何年か前に父が年齢と、病気でバーに立つのをやめてから、実質マイひとりで回していた。このごろ客も増えてきたため、そろそろ一人くらいお手伝いに雇ってもいいかな、とは思っている。


 バー「Chloé」は、マイの自宅から電車で一駅移動した先にある。その辺りは繁華街となっており、昭和的な匂いが漂っている。昭和的な街並み、舗装されていない道路、嘘みたいなネオン、飲んだくれ。

 そこは日光が出ているうちは家族連れもいて、比較的穏やかな町となっている。一転、夜になると、まるで日中は身を潜めていた妖怪たちが現れたように、ガラの悪い人間や怪しい人たちが闊歩するようになる。

 そこは歓楽街であり、ネオン街であり、中年がノスタルジーを求める場でもあり、様々な名で呼ばれているが、「クジラ街」という名前が最も知られていた。


 マイは開店時刻である18時を目前に、しっかりとその準備を終えていた。

 彼女の仕事ぶりは完璧ながら、かなりのんびりとしている。あえて、のんびりと経営している。


「客にリラックスしてもらいたいからね。まずは私からリラックスするんだよ」


 それが彼女の考えだった。


 眺めた店内は、間接照明しかないため、薄暗い。

 黒色がすべての基調となっており、外のネオンとは対象的になっている。

 明治以降、昭和くらいまでのモダンな洋風の内装は、輝度とは反対に、この街らしいものとなっている。


 マイの立つカウンターにも席がずらりと並び、そのほかにも、複数人で来店した客が対面に座ることができるテーブル席もいくつもある。


 ――何度見ても、好きな店だ。


 マイは母親を失った幼少期より、ここで働く父にくっついていた(その必要があった)。この店は、幼少期の愚かな自分と、現在の愚か極まる自分をつなぎとめるアイデンティティとなっていた。


 マイの母は、マイが小学校の高学年に上がる頃には、彼女の前から姿を消していた。

 死別ではない。死別ではないが、生きているのかも、マイの知るところではなかった。

 腹を痛めてまで自分をこの世に産み落とした、実の母親が、現在どこで何をしているのか、マイは全く知らなかった。

 気にならないと言えば嘘である。

 が、根気強く探してやるような執着も、愛情も、ない。


 18時半を超えると、ぞろぞろと知った顔の客が来店する。

 そのほとんどが、


「お、クロエちゃん! 今日もカワイイね」


 などと、そういう挨拶をした。

 ここ最近で、なぜか客がどっと増えたが、主な客層は20から50歳ほどの男女だった。会社帰りにふらりと寄っただけの社会人もいれば、父の知り合いで、幼いころから自分を知る人間もいる。


「ゲンさん、体調のほうはどうなんだい?」


 父の友人だ。カウンター席に座るなり、さっそく父に言及する。


「最近は元気だよ。あれはすぐ働こうとしてる感じだね」


 マイは返しながら、男がいつも頼む通りのカクテルを作って、カウンターに出した。


「ありがとう。……元気なら、それが一番だね。無理はさせたくないけど、久々に話したいなあ」


 男は寂しそうに、グラスを眺めながら言った。


「私がまだ休んでろって言ってるんだ。ヒトシさんが来たって、伝えとくよ」


「ああ、頼むよ。乾杯」


 マイはそれに、微笑で返した。

 男はしんみりしたテンションで、2杯だけ飲むと、すぐに帰ってしまった。


 店内は父の知り合いばかりというわけではなかった。

 初めて見る顔が何組かいる中、ふらりと、マイのよく知る男が現れた。

 彼は、例によって、若い女を連れている。


「いらっしゃい」


 マイが男に挨拶をする。

 男、といっても、見た目は完全に青年という感じだった。外見だけで推測すれば、21、23歳ほどか。

 限りなくシルバーに近い金髪は少し長めで、前髪は目の下まで伸びている。目は灰色。色白で、細身で、顔には生気がなく、身長が高い。


 彼の名は、『青崎レン』。


「こんばんは、クロエ」


 青崎レンは、マイのほうに不気味な笑みを向ける。彼は微笑むとき、灰色の目を細める。その眼には光が一つもなく、妖しく、不気味だ。

 すぐ後ろに続く女も、21歳くらいだろうか。ロングの茶髪で、前髪はセンター分け。


「レン、女の趣味が変わったの?」


 マイは男に問う。


「え? 変わってないよ。僕はどんな女性も愛せるんだよ」


 彼は常に微笑みを浮かべていた。

 まるで、話す相手を小馬鹿にするように。


「お嬢さん、やめときな、こんな男。ろくでもないんだから。本当の年齢だって知らないでしょ?」


 マイは彼と並んでカウンター席に着いた女に話しかけた。


「知ってますよ」と、彼女は笑う。「31歳なんですよね? 嘘っぽいですが」


 青崎レンは、黒江マイと同じ31歳である。

 見た目の上では、ふたりとも20代にしか見えないが、それは単に童顔というだけなのだ。


「嘘じゃないって。ほんとに31だから」


「分かっててなんでついてきたのかしらね」


 マイは口にする。


「関係ないんですよ、年齢とか。恋愛には」


 彼女はそう言って笑った。大人ぶったギャルのような身なりをしていたが、笑う時は、無邪気な少女のようだった。


「僕は女の子に嘘つかないからね」


 レンが調子よく笑う。


「それじゃ、まずその嘘くさい一人称をやめなよ」


 マイが指摘した。

 レンの一人称は、普段は「俺」である。この男が自分を「僕」というのは、口説いた女性や、その周囲の人間など、初対面の人たちにとりあえず良い人そうだという印象を持たせるため、という浅はか極まりない考えによるものだ。


「あなた、名前はなんていうの?」


「私ですか? 永里あんこです。今年で22です」


「アンコちゃんね。よろしく」


「はい、ちょっとトイレお借りしてもいいですか?」


 彼女はそう言って立ち上がった。


「いいよ、そこの狭い道の奥にあるから」


 マイはそう言ってトイレのほうを指してあげた。


「アンコちゃんの分はあとで出すね」


 そう言ってマイは、レンのぶんのバーボン・ウイスキーを出した。

 レンはそれをとって、


「乾杯」


 と言って、一口含んだ。


「レンさぁ、そろそろ女遊びとか辞めたら? 30にもなって、みっともないでしょ」


 マイは溜め息混じりに言った。


「みっともない? 生物学的には、正義でしょ」


 レンはちっとも悪びれずに、そういって笑った。


「正義とか、笑わせないでよ」


「嫌だね、俺は女を笑わせるために生きてるんだ」


 レンは、また、にーっと目を細めて笑った。

 やはり眼には輝きが認められず、マイは、彼を寂しい人だと思った。


「仕方ないんだよ。みんな可愛いんだ。みんなが、俺を求めてるんだよ」


 ここに集まる客は多種多様。

 良い人も、情けない人も、ダメ人間も、クズも、性病持ちも、ここにはどんな人間だって来る。多種多様な人間が、十人十色の悩みを持ち寄って、黒江マイを頼る。

 そして黒江マイはそういった人間を一切拒まない。

 それが父の主義だったから、というだけではない。


 黒江マイは、客が、人間が、愛おしいのだ。

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