烏丸麗子の御遣い63

 

「奴の一挙一動が心を腐らせるだ……!! 常に恐怖に呑まれないようにしておけ……!!」

 

「す、すみません……!!」

 

 慌てて立ち上がったかなめの目に飛び込んできたのは、ボロボロになった卜部の姿だった。

 

 床にはメル・ゼブブの付けたであろう爪痕が無数に残っている。

 

 しかしその傷跡は、まるでかなめを避けるようにできていた。

 

「先生まさか……!?」


「今はそれどころじゃない……!! 青木のいない今の内にこいつを縛る……!! 火……!!」


 かなめはすぐにライターに火を灯した。


 卜部はすかさずの青い焔をメル・ゼブブに向けて放った。



 ひらりと身を躱したメル・ゼブブの表情がみるみる怒りの形相に変わっていく。

 

 再び口を開こうとしたメル・ゼブブに向かって卜部は鞄から取り出したもう一つの瓶を投げつけた。

 

 メル・ゼブブは咄嗟にそれを蝿の手で払った。

 

 腕に生えた棘が瓶を割り、ぶち撒けられた中身が盛大にメル・ゼブブにかかる。

 

 

 卜部はかなめの手からライターをひったくると、それをメル・ゼブブに投げつけた。

 

「お前用の特別性だ……!! 迦楼羅かるらの焔に焼かれろ……!! 唵 迦楼羅 蘇婆訶……!!」

 


 激しい蒼い火柱が上がった。

 

 蠅の女王の翅がちりちりと焼け落ち、身体が床に叩きつけられる。


 蝿のドレスも今や散り散りになって、膿と傷だらけの皮膚を露わにした蠅の女王は、悲鳴にも似た咆哮を上げた。


 

「どうだ……!! 大畑さんのランプから拝借しただ……!! ……!?」

 

「地に足を……?」

 

「ああ。奴がさっき叫んでた言葉は聖書からの引用だ……!! ……!! 無論、奴にとってのは神ではなくだろうがな……」

 

「意趣返しは済んだ……!! 奴をぞ……!! 手筈どおりに……!!」

 

「はい……!!」

 

 かなめが卜部の元に駆け寄ろうとしたその時だった。

 


「動くな……!!」

 

 

 背後からの声に二人の動きが止まる。

 

 振り向くとそこには大畑を人質にした青木が立っていた。

 

 

「よくも女王陛下の美しい翅を……」

 

 憎々しげにつぶやく青木の顔の中で何かが蠢いた。

 

 それは顔面の皮膚を盛り上げながら脳の方へと移動していく。

 

 それに合わせて青木は小刻みに首を震わせた。

 


「ふん……悪いがそいつらはつい昨日知り合ったばかりだ……人質にはならんぞ?」


 卜部の言葉に青木が意地の悪い笑みで応える。


「いいや。お前はこの二人を見捨てない……お前たちもこいつらがいないとからだ……違うか?」

 

 

 黙って睨みつける卜部を見て青木は満足そうに口角を上げた。

 

「君には本当に興味が尽きない。だが残念だ……完全な状態の君を解剖することはとても叶わないだろう……」

 

 そう言って青木はうやうやしく礼をした。

 

 

 再び二人が振り向くと、そこには焼けただれた肌に無数の蛆を纏わせ、怒りに震える蝿の女王が立っている。

 


 臨戦態勢に入ろうとする卜部だったが、女王の手のほうが早かった。

 

 無数の蝿の手が卜部の四肢を貫き空中に持ち上げる。

 

「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ……!!」


 自身の体重で棘が深々と肉に食い込み、卜部は悲痛な叫び声をあげた。

 


 それでも女王の怒りは収まらず、無表情のまま突き刺した手を捻った。

 

 それに合わせて肉が傷口に巻き込まれていく。

 

 赤い血は、ぽたぽたと床に滴る速度を上げていった。

 


「ぐううぅううう……あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙……!!」

 

 堪えきれずに再び卜部の悲鳴があがる。

 

 それに満足したのか、女王の口元に笑みが戻ってきた。

 


 居ても立っても居られず、飛び出そうとするかなめを睨んで卜部が首を横に振る。




 メル・ゼブブは、さらなる残酷な遊びを考えるように人間の形をした腕を組み人差し指を唇に当てた。

 

 すぐさま何かを思いついたような表情を浮かべるとメル・ゼブブは玉座の側に置かれた小箱へと手を伸ばした。

 


 箱の中には棘のように短い毛の生えた一匹の蛆が入っている。

 

 メル・ゼブブはそれを摘み上げて卜部に見せつけた。

 


 顔を仰け反らせて避けようとする、そんな卜部の腕に、メル・ゼブブは蛆を押し当て嗤った。


 

「くくく……アレは恐ろしいぞ?」

 

 いつの間にかかなめの隣に立っていた青木が愉快そうにつぶやく。

 

「何なんですか……? あれは……? 先生はどうなるんですか……!?」

 

 泣きそうな声で尋ねるかなめに青木が言う。


 

「あれは熟死うじだ……あれに刺された者にとっては死こそが救いになる……それほどの苦痛と苦悩を味わう……!! やがて彼も死を望むようになり、メル・ゼブブ様の眷属になるだろう……


 

 そう言った青木の耳からぺたぺたと無数の蛆が這い出してきた。


 それらは顔中を這い回り、鼻の穴や反対の耳から身体の中に戻っていく。


「お前もあの男もこうなる運命だ……!! せいぜい恐怖し、絶望に震えるがいい……!!」



 かなめの膝ががくがくと震えた。


 背後からは卜部の悲鳴が聞こえてくる。




 恐怖に呑まれそうになったその時、かなめの頭の中に卜部の言葉がよみがえった。

 


「恐怖を乗り越えるためには、もっと怖いことを思い浮かべればいいんです……」

 

「は?」

 

「わたしはメル・ゼブブもあなたもちっとも怖くない……!! わたしが怖いのは……」

 

 

「このまま先生を失うことです……!!」

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