烏丸麗子の御遣い60


 痛む傷口を押さえながら大畑は走っていた。

 

 虫の知らせというにはあまりにも強烈な感覚。


 それだけを頼りに、明暗が連続する坑道をひた走る。

 

 吐き出す唾には血が混じっていた。

 

 それでも大畑の足が止まることはない。

 


 喜美子……!! 喜美子……!! 喜美子……!!

 

 

 懐かしい匂いが次第に強くなる。

 

 同時に邪悪な気配が色濃くなっていく。

 


 構うものか……!! 構うものか!! 今更自分の命など……構うものか!!

 

 ずっと独りで悩みを抱えて彷徨ってきた喜美子の苦しみを思えば……こんな痛みも恐怖も構うものか……!!

 


 そんな大畑を試みるように天井の裸電球に不吉なノイズが走った。

 

 ジィジィ……と音を立てる電球に不安が影を落とす。


 

 それでも恐怖を振り払って走っていた大畑の足が、突然ピタリと止まってしまった。



 一見すると先程までとなんら変わらない通路が、延々と続いている。


 しかしそこには景色が歪むほどの、強烈な腐臭が漂っていた。



 ごくり……

 

 大畑は顔を両手で叩いて、眼前に横たわる死の気配に足を踏み入れる。


 

 瞬間、酷い目眩と吐き気が大畑を襲った。


 

 身体を支えようと壁に手を付くが、その壁までもがと歪み、大畑は地面に崩れ落ちる。

 

 

「喜美子……待ってろ……喜美子ぉぉぉ……!!」


 

 大畑は形を失った世界の中を懸命に這って進む。

 

 耐えきれずに途中何度も嘔吐を繰り返して、口の中は胃液と血の味でいっぱいになった。


 それでも大畑の伸ばす手足は止まらなかった。




 どれほどそうしていたのかも分からない。

 

 霞み歪んだ視界の中に、大畑は黒い何かを見出した。

 

 それはだった……

 



 に喜美子がいると直感が告げる。



 手に取るように分かる。


 娘はにいる……!!



「うっ……うううぅ……ぐぅううううう……!!」


 大畑は堪らず嗚咽を漏らして泣いた。

 

 あまりにも無念だった。

 

 大きく育った大事な娘は、今や小さなボストンバッグの

 


「ま゙ってろ喜美子……!! い゙ま出じてやるから゙な……!?」

 


 身体の奥底から最後の力を振り絞って大畑はボストンバッグに這い寄った。

 

 あと数十センチ手を伸ばせばボストンバッグに手が届く。

 

 ……!!

 

 

 それだというのに、その数十センチが果てしなく遠い。

 

 目眩は一層激しくなり、自分がどうなっているのかも判らない。



 ついには激しく揺れ動く世界に視界がおぼつかなくなってしまう。


 大畑は役に立たない目を閉じて、娘の気配を頼りに前へ進もうとした。 



 必死に藻掻くそんな大畑の手を誰かがしっかりと握りしめる。


 その手は大畑の手をグッとボストンバッグに引き寄せた。

 

 

「う、卜部先生……!?」

 

 大畑はボストンバッグを抱きしめながら顔を上げる。




 歪んだ世界の中で大畑が目にしたのは、邪悪に口角を吊り上げる姿だった。

 

 

でなくて残念だったね。まぁ先生ドクターであることに変わりはない。さあ行こうか? 娘ともども女王陛下がお待ちだ……」

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