烏丸麗子の御遣い56 榎本敏彦


 終電を終えた榎本は虚ろな目で列車を車庫へと走らせていた。


 身体を置き去りに邪悪な思考が脳内を駆け巡る。



 次は冥途……冥途……お降りの方はお忘れ物のないように……


 身体をお忘れになりませぬよう……


 足をお忘れの方は這ってお進みください……


 腕をお忘れの方は指を咥えて御覧ください……


 口をお忘れの方は飢えにお苦しみください……




 環状線のようにぐるぐるぐるぐると脳内を巡る暗い殺意が、脳内アナウンスを伴って何度目かの冥途駅を通過する。




 狂々くるくると廻る目に映しだされるのは、事故を起こしたあの日、瞼の裏に焼き付いた赤い肉と臓物の海だった。


 血の海の中に落ちた真っ白な足。


 開かずの扉から伸びた手に縋るように差し出した白い足。



 封印していた記憶が鮮明に蘇ってくる。



 二本目の足を差し出した時、でぽとりと靴が脱げ落ちた。

 

 しかし暗がりに転がり落ちた靴を無視してせっせと死体を扉に運んだ。

 


 しかしどれだけ肉片を運んでも

 

 吐き気を堪えて必死に臓物と血の海を這い回ったが、頭部だけは見つからなかった。

 

 やがて扉が静かに閉じていく。

 

 その扉に吸い込まれるように血と臓物が地を這いながら、……と啜り上げられていった。

 

 呆気に取られて見ていると、全ての血を飲み干した扉が完全に閉じてしまった。

 


 ことり……

 

 音がした方を見ると、真っ赤な靴が落ちている。

 

 それを拾い上げそっと鞄に仕舞い、帰り道の河川敷で念入りに燃やした。

 

 


「あの女の首から上はどこ行った……?」

 

 榎本がそうつぶやいた時だった。

 

 前方の闇に女が立っている。

 

 慌てて榎本はブレーキをかけた。

 

 けたたましい音を立てながら車輪と線路が火花を散らす。

 

 つんのめった顔を上げるとヘッドライトに照らされた顔の無い女がこちらを嗤っていた。

 


 ぷちゅ……


 

 その顔を見た瞬間、榎本の頭の中で何かが弾けた。


 どす黒く粘着く液体が脳内に滲出しんしゅつする。


 それは神経の隙間を埋め尽くすように拡がりやがて脳漿を黒く染めた。


 

 榎本は乱暴にドアを押し開けて線路に降り立つと、女に向かって怒鳴り声を上げた。

 

「こんなところまでのこのこ出てきやがって……!!」


 女はニヤニヤと嗤っている。 


「またバラバラに殺されてぇのか!? ああん!?」

 

 顔の無いはずの女の目がぐるぐると廻るのが見えた。

 

「やめろ……」

 

 ゲラゲラと嗤う女のくぐもった声が暗いトンネルに木霊する。

 

「やめろって言ってんだろおおおおおおおおおおおお……!?」


 榎本は叫び声をあげて女に駆け寄ると、女の顔を乱暴に殴りつけた。


 ぐしゃり……と鈍い音が響く。


 それでも榎本は倒れた女に馬乗りになり、何度も何度も顔を殴りつけた。


 女の顔がみるみる腫れ上がり、とうとう血が流れ始める。



「敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん敏彦さん」


 狂ったようにそう繰り返す女の顔を、狂ったように榎本は殴った。


 殴れば殴るほどに女は徐々に顔を取り戻していくことに榎本は気づかない。


 とうとう見る影もないほどに損傷した大畑喜美子の顔が現れ、榎本はやっと手を止めた。


「き、喜美子……」


 内出血を起こして赤く染まった目がぐるぐる廻る。

 

 回転がゆっくり止まり榎本を見つめた。

 

「ずっとずっとずーっと……あなたに憑いていくわ……」

 

 にぃいいい……と嗤う喜美子を見て榎本は悲鳴を上げて後退った。

 

 

 線路の上で痙攣する女は、無様に四肢をバタつかせて立ち上がろうとしている。

 



 殺さなきゃ殺される……!!



 それを見た榎本は電車に飛び込みアクセルを全開にした。

 


 ぐしゃああああああああ……



 加速しきらない列車に身体が巻き込まれる感触が伝わってくる。

 

 全身に鳥肌が立つ。

 

 それでも榎本はアクセルを緩めない。

 


「あははははははははははははは……!! あははははははははは……!!」


 速度を上げた列車の中で、榎本は狂ったように笑った。


「俺の勝ちだ……!! 何がずっとついていくだ……!! 死ね死ね死ねぇええええええええ……!!」



 どーん……!!



 強烈な衝撃が榎本を襲った。

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