烏丸麗子の御遣い㊷ 榎本敏彦


 【続夜の弐】


「今日は上がってください……緊急停車の件はブレーキ系統のトラブルということになっています……」


 駅長は何の感情もこもらない声で榎本に言うと、受話器に向かって何やら囁いた。


 榎本は小さく頭を下げて駅長室をあとにする。


 緊急停車の影響で乗客数名が頭を打ち付け、うち数名が救急車で運ばれる騒ぎになった。


 普通ならば責任問題だったが、今この沿線を取り巻いている異様な状況が責任を有耶無耶にした。

 

 

 いや。もっと大きな何かが事故の存在そのものを闇に葬ったのかも知れない……

 


 榎本は恐ろしくなり考えることをやめ、おぼつかぬ足取りで出口へと向かった。

 

 

 今日は帰ろう……家で酒を飲んで眠ってしまおう……どうせ何処に行ってもは現れる……


 

 榎本はタクシーを拾って目的地を告げた。

 

 不思議なことに窓の外を過ぎ去る人混みの中にも、路地の暗がりにも女の姿は見当たらなかった。

 

 

「今日地下鉄でトラブルがあったらしいですね」

 

「え?」

 

 榎本は思わず聞き返した。

 

「事故ですよ事故!! 救急車が何台も来てたんですよ」

 

「あ、ああ……」

 

 榎本が間抜けな声を出すと運転手が鏡越しに顔を顰めるのが見えた。

 

「もしかしてあれですか? 駅員の?」

 

「はぁ……まぁ」



 曖昧な返事をしながら榎本の喉元に苦い汁が分泌される。 


 勘の鋭い男だな……

 


 気が付いた頃には榎本はこの運転手に無性に腹が立っていた。


 こっちの気も知らずにゴシップを垂れ流しやがって……

 


 どくどくと胸に溢れくる毒が口をついて飛び出す機会を狙っている。

 

 こっちはずっと安全に列車を運行してたんだ……

 

 それなのに……たった一度トラブルが起こっただけで悪人扱いか……!?

 

 それだけのことで俺の車掌としての功績が無かったことになってたまるか……!!

 


 榎本が運転手に文句を言おうと身を乗り出した時、フロントガラスに張り付く女と目が遭った。

 

 左右で別々の方を向いた女の目が、確かに榎本の目をとらえている。



「あ……あ……ひっ……」

 

 榎本が言葉にならない声を漏らしているとタクシーが停車した。

 

「到着です。おっ……! お客さんラッキーですね! ですよ」

 

 運転士はメーターを指差して笑った。

 

 その瞬間、焦点の合わなかった女の目がぎょろりと榎本を見据えた。


 嗤う女の口元からは泡立った血が流れている。



 榎本は五千円札を運転手に押し付けてタクシーを飛び出した。



 後ろから運転手の呼び止める声が聞こえたが、榎本は振り返らずにマンションの入口へと走り去った。


 いつも遅いエレベーターを避けて階段を駆け上がる。


 息を切らして自室に飛び込むと急いで鍵を閉め、チェーンロックをかけた。

 

 

 付いて来た付いて来た付いて来た付いて来た付いて来た付いて来た付いて来た付いて来た……!!

 


 榎本はドアに背を預けて、荒れ狂う心臓の音を聞きながら頭の中で繰り返した。

 

 恐ろしくてとてもドアスコープを覗く気にはならない。

 

 榎本はキッチンまで這っていくと冷蔵庫から缶ビールを取り出し震える手でプルタブを開ける。

 

 

 味のしないビールを一気に飲み干すと、榎本は手を擦り合わせてつぶやいた。

 

「神様……仏様……なんで俺がこんな目に……なんで俺がこんな目に……」

 

 

 こと……

 


 不意に音がした方に目をやると、埃を被った写真立てが倒れていた。

 

 榎本は吸い寄せられるようにして写真立てを拾い上げる。


 見るとそこには花見に興じる同僚と自分、そして…




 赤い靴を履いたが映し出されていた。

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