烏丸麗子の御遣い㊱ 榎本敏彦

【夜の弐】

 

 榎本はげっそりとした表情で列車を走らせていた。


 無意識に背後を確認しそうになるのをぐっと堪えて前方を睨みつける。


 その目の下にはどす黒いが出来ている。


 もはや苛立つ気力もなくただただ時間が過ぎるのを、卜部が帰ってくるのを待っていた。



「一体何が起きてるんだよ……」


 榎本は先程の出来事を思い返して独りごちるのだった。



 運転を交代した時にその事件は起きた。

 

 運転席のすぐ後ろの車両で女の悲鳴が上がったのだ。

 

 その悲鳴は伝染し、男女を問わず次々に叫び声を上げ始める。

 

 何事かと駅員達が駆けつけると、先程まではいなかった蛆の大群が壁や天井を覆い尽くしていた。

 

 

 急遽、一両目の立入禁止が決まり、榎本は誰も居ない車両を背にして運転を続けることとなる。

 


 そんな中、榎本は背中に感じる視線を必死で無視していた。

 


 誰も居ないはずの一両目にのだ……

 

 ガラス越しであるにも関わらず息遣いさえ聞こえてくる気がした。

 


 そこにいるのがなのは明らかだった。

 

 榎本はフロントガラスの映り込みを見ないように暗いトンネルの闇の先を睨み続けている。

 


 しかしとうとう女の息遣いを真後ろに感じて、榎本の心臓が跳ねた。

 


「開けて…………開けて……」

 

 

 榎本は女の声を無視して前を睨み続けていたが、気が付くと膝が嗤っている。



「開けて…………開けて……」


 

「うるさい……俺はお前なんか知らない……!! 知らないんだ……!!」


 震える声で泣き縋るように囁く女に、榎本は苛立ち思わず叫び返した。 

 


「敏彦さん……開けて……お願いよ……ここを開けて……」

 

 

 運転席のドアがガチャガチャと音を立てた。

 

 榎本は咄嗟に鍵がかかっていることを確認する。

 

「開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて」

 

 女は狂ったように同じ言葉を繰り返し、開かないドアにしつこく挑んでいた。



 天井から何かが肩に振ってきて、榎本は悲鳴をあげる。


 見るとそれは真っ白な蛆だった。



「あっ……」 



 榎本の脳裏に突然、以前住んでいたアパートのドアが思い浮かんだ。

 

 鉄の重たいドアだ。

 

 そのドアに開いた郵便受けから、こちらを覗く目を思い出した時、前方の暗い線路に人影が飛び込んでくるのが見えた。

 

 

「わあああああああああああ……!!」

 

 榎本は慌てて急ブレーキをかける。

 

 けたたましいブレーキ音がトンネルに響き、車内のあちらこちらから悲鳴が上がった。

 


 榎本はフロントガラスにしこたま頭をぶつけてうずくまっていたが、我に返って窓のその外を確認する。

 


 そこには人影などなく、事故の痕跡は何一つ見いだせなかった。

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