烏丸麗子の御遣い㉝ 榎本敏彦

 

 【夕刻の弐】

 

 駅の便所で榎本は顔を洗っていた。

 

 排水口から立ち昇る溝の臭いにうんざりする。

 

 しかしそれにもまして榎本の心を蝕んだのは飛び回る黒い蝿たちだった。

 

 何処からともなく現れては、いつのまにか自分の周囲に纏わりついている。

 

 払っても払って戻ってくる蝿は、振り切ることの出来ないのことを、榎本に嫌でも思い出させた。

 

 顔を洗い終え、鏡の中の自分と睨み合っていると、ふと鏡の隅に白い物が見えた。

 

 無意識に目線をそちらに向けると、小さな蛆が鏡にへばりついている。

 

 蛆虫を睨みつけた榎本は乱暴にその場を立ち去った。


 かと思えば、個室からトイレットペーパーを携えて戻ってくる。

 

 

「消えちまえ……!!」

 

 そう吐き捨てて榎本はトイレットペーパー越しに蛆虫を押しつぶした。

 


 消えちまえ……!!

 

 その時、頭の中でいつかの自分の声が聞こえた。

 


 うっうっうっうっうっ……

 

 同時に女の嗚咽が聞こえてくる。

 

 


 気配を感じて振り向くと、一番奥の個室のドアがゆっくりと開き始めている。

 

 うっうっうっうっうっ……

 

「ひいぃいいい……!!」

 

 榎本は腰を抜かしたまま出口に向かって後退りするが、開きゆくドアから目が離せない。

 

 

「く、来るなぁあああ!!」

 

 うっうっうっうっうっ……

 

「お前なんか消えちまえ……!! 消えちまえぇぇええええ!!」




「ドアを開けて……」

 

 

「ぎゃあああああああああああ……」

 

 榎本が叫んで出口に向かうと、ちょうど同僚の一人が便所に入ってくるところだった。

 

 

「な、何かあったんですか……?」

 

 同僚は怪訝な顔で榎本に尋ねる。


「あそこ……あそこに女がいる……!! 出てきて俺に扉を開けさせるつもりだ……!!」


「何言ってるんですか……? よく意味がわかりませんけど……」


「だから……!! 女がいるんだよ!! あそこに……!!」


 そう言って榎本が指差した先には開け放たれた個室が四つ並ぶだけだった。


「誰もいやしませんよ……?」


 同僚が顔をしかめてそう言うと、榎本はその同僚を睨みつけた。


「お前のような馬鹿に話した俺が間違ってた……!! そこをどけ……!! どけぇぇぇぇええええ!!」


 同僚を乱暴に押しのけて榎本は便所を出て行った。


 しかし何処にも逃げ場などないことは薄々感じている。


 逃げ延びる方法があるとすれば、卜部が無事に仕事を終えて戻ってくるほかなかった。

 

「畜生……なんで俺がこんな目に……」

 

 思わずつぶやいた瞬間、隣のドアから声が聞こえた。

 



「開けて……」

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