烏丸麗子の御遣い㉘ 榎本敏彦

【夜の壱】 


 人混みが怖い。

 

 またあの女が現れそうでどうしようもなく怖い。

 

 榎本は普段は使わないタクシーを捕まえ早口に行き先を告げた。

 

「渋滞してますけど構いませんか?」

 

 少し怪訝な顔をしたタクシーの運転手とルームミラー越しに目が合った。


「構いません……出してください」 


 運転手はすぐに視線を前に戻し、慣れた手付きで赤いブレーキランプの群れに紛れ込む。

 

 遅々として進まないタクシーの中で、榎本は早くも後悔し始めた。

 

 やっぱり最寄り駅までは電車で帰ればよかった……

 

 窓の外の繁華街には会社帰りのサラリーマンや夜の街を彩る女達がひしめき合っている。

 

 その雑踏の中に例の人影はいた。

 

 その人影はただただこちらを見つめて佇んでいる。


 辛うじて女であることが分かったが、顔がどうしてもわからない。 


 その上誰も女を気にかける様子はなかった。

 


 自分にしか見えない顔のない女……

 

 そんなことが脳裏によぎり、榎本は思い切って運転手に声をかけた。

 

「すみません……あそこに立ってる女の人、ほら。こっちを見てる……あれって芸能人の方ですかね……?」

 

 うまい嘘だと思った。

 

 運転手も興味をそそられたようで窓の外を眺めて言う。

 

「どれですか?」

 

「ほら。あそこに立ってこっちを見てる……白い服を着た……肩くらいまでの髪で……」

 

「もう……冗談言わないでくださいよ……!! それってのことでしょ? 若い女の子捕まえて隅に置けませんねぇ……」



 榎本は息が止まりそうだった。


 窓の外に女の姿はなくなっている。


 ひゅう……ひゅう…… 


 耳元で苦しそうな呼吸音が聞こえて、榎本は悲鳴を上げた。


「降ります……!! ここで降ります……!! 早く降ろして……!!」


 榎本は千円札を数枚握って運転手に押し付けた。


「お客さん……!! お釣りお釣り!!」


 榎本は人混みをかき分けて地下鉄の入口に駆け下りた。

 

 切符を買う手が震えて上手く小銭が入らない。

 

 振り返ると女が階段を降りてくるのが見えた。

 

「ああああああああああああ……!!」

 

 改札をこじ開けるように通り抜け、榎本はホームに走った。

 

 ちょうど列車がホームに入ってくるのが見える。

 

「し、しめた……!!」

 

 列車に飛び乗り窓の外を睨んでいると、通路から女が現れた。

 

 しかしそれとほとんど同時にドアが音を立てて閉じ、榎本はほっと胸を撫で下ろす。

 

「助かった……」



 そう独りごちて顔を上げるとドアのすぐ目の前で、女が手を振っていた。

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