袴田教授の依頼61
注射器らしい薄汚れたガラスの筒を大事そうに差し出す袴田を見て、かなめは哀れに思った。
その注射器は割れてこそいなかったが劣化が著しく、中身の黄ばんだ液体には無数の黒い不純物が漂っている。
錆まみれで凸凹になった針は途中で折れてひどく不格好だった。
瞼のない目から涙を溢しながら縋るように見つめる袴田に向かって、卜部は静かに口を開いた。
「死んだ者はもう返ってこない……仮にその呪物で黄泉帰ったとしても、それはもはや別物だ……あんたの妻じゃない……」
「黙れ……!! 妻はまだ死んでいない……!!」
「袴田……伊邪那岐は伊邪那美に会うために黄泉に下ったが、変わり果てたその姿を見て逃げ出した。生者と死者の隔たりは越えてはならない重要な境界線だ……それを冒したところで望むものは何一つ手に入らない……むしろ今持っているモノまで失うだろう……生きて罪を償え。そうすればいずれまた妻に会える日も来る……」
「黙れ黙れだまままっままままっまままま……!!?」
叫ぶ袴田の頭が突如異様なほど膨れ上がった。
内側から圧迫された目玉が飛び出し、剥き出しになった歯も外側に向かって開いていく。
「か……かは……かは……かは……」
袴田は手に持った注射器を振り上げると自らの太ももにそれを突き刺した。
膨らんだ頭がしゅるしゅるしぼみ、袴田は勝ち誇った顔で卜部を見る。
「見ろ……!! やはりこの薬は死を超え……」
ぼっ……
不吉な破裂音と共に、袴田の首から上が吹き飛んだ。
鮮血と肉片が辺りに飛び散り、色のない小屋を赤く染める。
卜部の肩に乗った肉の欠片を見て、かなめは思わず固まった。
咄嗟に卜部は肩の肉を払い除けかなめに叫んだ。
「しっかりしろ……!! 目を閉じろ……!! 何も見るんじゃない……!!」
「はいっ……!! 先生……急いで……!! この匂い……頭が変になりそうです……!!」
卜部はかなめを背負ったまま小屋を飛び出すと矢倉に手をかけて上へ上へと登り始めた。
するとどこからともなく蹄の音が迫ってくる。
卜部が音の方に目をやると、佐々木が馬に跨ったまま銃剣を構えてこちらを狙っていた。
「大丈夫だ。不安定な馬の上からでは当たりはしない……」
そう言った卜部の頬を弾丸がかすめていった。
頬から流れる血にかなめが悲鳴を上げる。
「先生……!! 美味しそうです……!!」
「バカタレ!! この状況で食い意地を張ってる場合か!!」
「でも……でも……お腹が空いて死にそうです……!!」
「電波の良いところを探せ!! これが終わったらたらふく食わせてやる……!!」
「約束ですよ……?」
かなめは開ききった瞳孔で卜部の顔を覗き込む。
その表情には底知れぬ狂気の気配があった。
「ああ……!! 人間の食い物をな……!!」
卜部はかなめの顔を片手で後ろに押し戻しながら言った。
かなめは不貞腐れた表情で電波を探し始める。
その間も佐々木の放つ銃弾は卜部達の近くに着弾しては破片と煙を巻き上げていった。
的を絞らせぬよう、卜部はかなめを背負ったまま左右に身体を揺すっては隣の骨組みに飛び移る。
卜部の全身から大量の汗が流れ、筋肉は痙攣し始めた。
汗で血が流れたせいか、かなめはふっと我に返る。
「先生……!! 登ってきてます……!!」
かなめが叫んだ。
見ると弾切れの銃剣を捨てて、ピストルを握った佐々木が矢倉に足をかけていた。
「貴様らはただでは殺さん……!! 拷問にかけて洗いざらい吐かせてやる……!!」
佐々木は叫びながらみるみるうちに矢倉を登って迫ってくる。
「電波はどうだっ……!?」
歯を食いしばって卜部が尋ねる。
「まだ不安定です……!! 先生……!!」
「なんだ……!!」
「わたし黙ってたことがあります……!!」
「なんだっ……!?」
「わたし、四〇キロ以上あります……!!」
「……」
その時だった、ラジオの周波数がピタリと合うように電話から明瞭な声が流れ、それはスピーカーを通して盆地中に響き渡った。
「この声は……まさか……!?」
佐々木はあたりを見渡し動きを止めた。
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