袴田教授の依頼58

 

「いたぞぉおお!!」

 

「裏切り者だあぁぁああ!!」

 

「非国民はただじゃおかねぇ……!!」

 

 背後から迫る怒声に怯えながら、倉本は背丈の高い草はらの中を逃げ回っていた。

 

 弾の切れた銃剣はとうに放り投げ、丸腰になって少しでも早く走ろうと試みるも、心臓は痛いほど激しく肋骨を内側から叩いているし、横腹は痙攣するほど収縮している。

 

 何より、さきほど食らった弾丸がまずかった。

 

 一歩踏み出す度に傷口から血が吹き出し、手足の先から感覚が消えていく。

 

 倉本は怖くなって傷に目をやった。

 

 赤い血が出るべき傷口からは、時々血に混じって黒い蝿が飛び出している。



「うぅうう……!! ぐぅうううう……!!」

 

 倉本は唇を噛み締めて前を向いた。

 

 血と蝿が吹き出すたびに、あの日の記憶がどんどんと鮮明になっていく。

 


 あの日、佐々木中将は何かしらの通信を受けると、険しい顔で小屋から出ていき、まっすぐ研究棟に向かって歩いていった。

 

 銃声が聞こえて駆けつけると、血まみれの正木大尉の横で佐々木中将が嗤っていたのだ。

 

 正木中将は全員を集めるよう命令し、そこで演説をした。


 

「国家のため、天皇陛下の御ために……!! 我々は覚悟を決める時が来たのだ……!!」

 


 その声を思い出した時、倉本の傷口から大量の蝿が飛び立った。

 

 すると足の感覚が無くなり、とうとう地面に崩れ落ちる。

 

 それでも倉本は両手で這って前に進もうとした。

 

「いたぞぉおおおお!!」

 

 背後の声に振り向くと、知った顔がこちらを睨んで銃口を向けている。

 

「倉本……!! 貴様がスパイの手引をした裏切り者だな……?」

 

「違う!! 佐々木中将は俺たちを騙してるんだ!! お前も思い出せ!!」

 

「黙れ!!」

 

 そう言って男は引き金を引いた。

 

「ああああああああああああああ!!」

 

 弾丸は倉本の右肩に命中し、血と蝿が飛び散った。

 

「裏……うらうらうあらああああらら……裏切り者は……ごごごごごごご拷問してててっててて」

 

 男の顔の中では無数の何かが蠢いていた。

 

 白目を向きながら痙攣し壊れたラジオのように喋る男を見て倉本は血の気が引いた。

 

 残った左手でなんとか逃げようと草を掴んだ時、その手を軍刀が突き刺した。

 

 

「うううううぅぅぅぅううう……!! 腕があぁぁぁああ……!!」

 

 見上げるとそこには佐々木が立っていた。

 

「この非国民め……あのスパイはどこにいる!?」

 

「い……言わない……あああああぁぁぁあああああ……!!」

 

 佐々木は突き刺した軍刀をぐりぐりと回転させた。

 

「ひと思いに死にたければ話すことだ……スパイはどこだ……?」

 

「あああああああああああああ……」

 

 いつの間にか周りは兵隊達に囲まれていた。

 

 やがて数名が木刀を持ってくると、兵隊達は代わる代わる倉本の手足や体を叩きつけた。

 

 声を上げることも出来なくなった倉本の髪を掴んで佐々木は倉本に言う。

 

「スパイはどこだ……?」

 

「……」

 

「もっと大きい声で言わんかぁ!!」 


 怒鳴る佐々木を見据えて倉本が口を開く。



「あんたは……嘘つきの卑怯者ひきょうもんだ……!!」

 

 その言葉とともに、倉本の口から飛び出した最後の蝿が佐々木の頬に止まった。

 

 腫れ上がり辛うじて開く右の目で、倉本は佐々木を睨むと薄っすらと口元に笑みを浮かべた。

 

 それを見た佐々木は無表情でタバコに火を点けると、それを倉本の右目に近づけて言った。

 

「死ぬ方がましだと思うほど痛めつけてやる……」

 


 キイイイイイイイイイイイイイイイイイン……!!



 その瞬間、盆地中の電柱に備え付けられたスピーカーからけたたましいノイズ音が響いた。

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