袴田教授の依頼㊺

 

 卜部はちらりと背後を振り返った。

 

 畑には続々と兵隊達が集まっている。

 

 幸いまだこちらの姿は見えていないようだが時間の問題だった。

 

「う……嘘だ……きっと……きっと何かの……」

 

 ぶつぶつとつぶやくかなめの身体から卜部にまで震えが伝わってくる。

 

 それは怪異の恐怖からくる震えとは質の異なるものだった。

 

 

 

 それはある意味、死よりも恐ろしい。

 

 じわじわと、しかし確実に……


 己を蝕む呪詛に、かなめは今まで感じたことのない鬼胎きたいを抱いていた。

 

 気がつくと左の肩を中心にじゅくじゅくと何かが這いずるような気配がする。

 

 それは血の管を内側から侵しながら、まっすぐに下腹部を目指しているように思われた。

 

「せ……!! 先生!! 肩が!! 肩の中が!! お腹に!! お腹に入ってくる……!!」

 

 肩を掻きむしろうと伸ばしたかなめの手を卜部が掴んだ。



「やめろ!! そんなことしても無駄だ!!」 


「は、離してください……!! すぐに出さないと!! そうだ……!! この手を切り落とせば……!!」

 

 かなめはポケットに仕舞ったナイフを取り出そうともう一方の手を伸ばす。

 

「やめんか!! !! 俺が絶対に助ける!! 馬鹿なことを考えるな!!」


 卜部はかなめの両肩を掴んで叫んだ。


「でも……でも……もう時間がないかもしれない……そうしたら……わたし……もう先生と……」



 言葉の途中で卜部がかなめを突き飛ばした。


 かなめが尻もちをつくと同時に、あたりに渇いた音が響く。



 パンッ……!!

 

 

「そっちで声がしたぞぉおおおお!!」

 

「姿が見えません……!!」

 

「構わず撃て!! 撃てぇぇえええええ……!!」



 パンパンと銃声が響き、そこかしこで土煙が上がる中、かなめは地面に倒れた卜部のもとに這っていった。



「先生……!! 先生……!!」

 

「大丈夫だ……掠っただけだ……」

 

 見ると卜部の左肩から血が流れていた。

 

「先生……!! ち、血が……!!」


「言っただろ。掠っただけだ。大したことない。それより行くぞ……!! 工場まであと少しだ……!!」



 顔を上げるとなだらかな坂の上に工場がそびえていた。


 四つ並んだ煙突からは黒い煙が立ち上っている。


 目を凝らすとその黒煙は不自然に膨らんだり縮んだりを繰り返しているようだった。


 

「どうやら……あの煙突から霊蝿れいようが湧いてるようだな……」


 

 立ち上った黒煙はある高度を境にして放射線状に拡散し、盆地を覆い尽くすように広がっていた。

 

 散り散りになった霊蝿は不規則に飛び回りながら盆地を徘徊する。

 

 さながら屍肉の臭いを察知してそれに群がる蝿のように、霊蝿は生者の気配を察知すると日本兵の姿に変わり卜部とかなめに群がり始めていた。


 

「見つかるのも時間の問題だ。急ぐぞ……!!」


 

 卜部がかなめの手を引いた。

 

 しかしかなめは動かない。



「わたし……行けません……どこかに隠れて待ってます……助手とか偉そうなこと言ってたのに……足を引っ張って……先生に怪我まで……」



 卜部は何も言わずに鞄から液体の入った瓶を取り出した。

 

 瓶の口にガーゼを差込み火を点けるとそれを畑の脇に置かれた藁の山に放り投げる。



 どっ……!! っと音がして藁山が勢いよく燃え上がった。



「敵襲!! 敵襲ううぅうううう!!」


 

 同時に怒声が響きわたり兵隊達は物陰に身を避けて敵を探し始めた。

 


 卜部は傷口から流れる血を人形に浸すと印を結んで命令を下す。

 

「我血即是現身!! 急急如律令!!」


  人形はむくりと起き上がると卜部に一礼して工場とは反対に向かって駆け出した。


 

「これで時間が稼げる……」



 卜部はそう言ってかなめの前に屈み込んだ。


「いいかよく聞け? ここに隠れていても必ず見つかる。生き延びるためには前に進むしかない……!!」

 

「でも……わたしは……わたしは……」


 かなめは俯いたまま言った。


 怖くて次の言葉が言い出せない。


 地面にはぽたぽたと落ちた雫が黒い染みを作っていく。


 

俺の助手だろうが……!! 他のでもないはずだ……!! 俺を助けるんだろ? ならその足で立って、いつもみたいに図々しく付いて来い!!」

 

 かなめは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 

 そこには小指を突き出す卜部の姿があった。

 

「それに必ず助けると言ったはずだ……!! 約束する……!! だからお前も諦めないと約束しろ……!!」

 

 かなめは泣きながら卜部の小指に自分の小指を絡めた。


「ふん……!! 言っておくが俺の指切りは……」


……ですよね……?」


 かなめは涙と鼻水を流しながら、ぎこちない笑顔を作ってそう言った。



「そうだ……!! 行くぞかめ!! まずはその不細工な顔をなんとかしろ!!」

 


 かなめは顔を拭って立ち上がると卜部を見据えて言った。



「亀じゃありません……!! かなめです……!!」

 


 いつしか身体の震えは止まっていた。

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