袴田教授の依頼㉞



 暗い廃墟の中に座禅を組んだ卜部の姿があった。


 読経の声が唵々おんおんと響き、霊蝿れいようがぽとりぽとりと地に堕ちる。


方便現涅槃ほうべんげんねはん


而実不滅度にじつふめつどう」 


常住此説法じょうじゅうしせっぽう


我常住於此がじょうじゅうおうし


以諸神通力いしょじんつうりき


令顛倒衆生りゅうてんどうしゅじょう


雖近而不見すいごんにふけん


 そこまで唱え終わると、卜部は長く細い息を吐き出した。


 その息は半透明の霧のようで、まるでそこに誰かが座しているかのような形に留まった。



「御仏が方便を用いて衆生に寄り添い、生きているように、また死んでいるように見せかけたように……我が霊もここに留まり彼の者たちに……」


 卜部は吐き出した白い息に片方の掌を当ててつぶやくと、夏の陽が沈んだ後の薄闇の中へと駆け出して行った。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 青木はあれからずっとハァ……ハァ……と荒い息をしながら壁を背に座り込んでいた。

 

「す……すみません……なんだか……研究のことになると頭に血が上って……我を忘れるんです……」

 

 かなめはそんな青木を油断なく見据えて黙っていた。

 

「お二人と一緒にカレーを食べた時……とっても心地よくて……それなのに……こんな……」

 

 そう言って青木は小さな声ですすり泣き始めた。


 ひっ……ぐす……


 ひん……ぐす……


 ぐす……ぐす……


 蝋燭の明かりだけが頼りの薄暗い小屋に青木の泣き声がこだまする。

 

「青木さん……大丈夫ですか……?」

 

 かなめは扉の前に陣取ったまま声をかけた。

 

 ぐす……たい……

 

 ひっ……たま……い……

 

 ぐす……なかに……



 

「い……痛い……」

 

「手が痛むんですか……? 先生が帰ってきたらきっと何とかしてくれますから……」

 

 かなめは青木の様態が不安になってきた。


 の効果のほどもわからない。


 もしかすると、委任状はとんでもなく強力なもので、あの程度のことで使ってはいけなかったのではないか…… 


 そんなことが頭を過ったその時だった。



「頭……」

 

 青木が頭を抱えてつぶやいた。

 

「頭が痛いんですか!?」

 

 かなめが駆け寄ろうとすると、突如青木が大声で叫んだ。

 


「頭の中に頭頭頭頭頭頭頭頭あああああああああああああ!!」

 

「頭が頭なんだ!! 頭の中が頭ぁぁぁあぁああああああ!!」

 

「あたまあたまあたま……数多……あ、あ、数多あまたあまた頭頭アタ、アタ、あたまたまたまたまたまたま!!」

 

 かなめの全身を恐怖が駆け巡った。


 膝が震え息を吸うことさえ忘れそうになる。



 かなめは壁まで退くと、震える声で青木の名前を叫んだ。

 

「あ、青木さん……!! お、落ち着いてください……!!」

 

 カタカタと頭を震わせながら痙攣していた青木の身体が一際強く、びくん……びくん……と跳ねた。



「ああぁ……あ? 思い出した」

 



 青木はそう言って床のナイフに飛びつくと、焼け爛れた手を見事な手付きで



 肉をぐるりと一周切り開き骨を露出させると、関節と関節のつなぎ目に刃を立てる。


 すると骨と骨の隙間に飲み込まれるように、ナイフはと進んでいった。



 ボト……

 


「ひっ……」


 かなめは小さな悲鳴を上げて体を小さくした。


 思ったより出血は少ない。

 

 それでも多少の血に塗れた関節のコラーゲン質が、ぬめった白い光を放っているのを目にして、かなめは思わず嘔吐した。

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