袴田教授の依頼㉜

 

 卜部は天井の梁にロープを渡すと、それに半紙で作ったしでをぶら下げた。


 続いて適当に見繕った台に、かなめの手鏡と卜部のナイフ、そして勾玉の代わりに青木の予備のメガネを乗せると、それを小屋の奥に安置した。


 こうして荒れ果てた小屋が簡易の御社おやしろに姿を変える。

 

「仕上げに入る……」

 

 そう言って卜部は親指の腹をナイフで傷つけた。

 

 真っ赤な血が指先から滴り落ちる。

 

「これを扉の鴨居に塗れば完成だ……」


「鳥居の象徴ですね……?」


 かなめの言葉に卜部は頷く。


「まぁ、正確にはの作法だがな」


「過ぎ越し? ですか……」


「ああ。古代ヘブライの礼祭の一つだ。門柱に子羊の血を塗った家はヤウェの送った災いが過ぎ去る。それより……亀!! ちょっと来い。青木はそこで待ってろ」


「亀じゃありません!!」


 そう言いながらかなめは卜部の後を追って小屋の外に出た。


「先生……!! 実は話が……」


 かなめはここぞとばかりに切り出したが、卜部が先に口を開いた。


「青木のことか……?」


「先生も気づいてたんですね……!?」


 かなめの背中にじっとりと嫌な汗が流れた。


「ああ。俺との契約で縛られているはずだが……何か引っかかる……これを渡しておく」


 卜部は一枚の紙を差し出していった。


 それには真新しい血文字でと書かれていた。


「奴が何かしようとしたらそれを出して命令しろ。命令に逆らえば地獄の苦しみで身動きできなくなる」

 

 かなめは黙って頷くとを丁寧に折りたたんでポケットにしまった。

 

「夜明けには戻る。それまで頼んだぞ」


 卜部はそう言い残すと最低限の荷物を持って小屋を後にした。


 かなめは敬礼で卜部を見送った後、独り小屋を睨みつけた。


「大丈夫……もある……!! ほんの一晩乗り切るだけだ……負けるなわたし!!」


 唐突に訪れた心細さを打ち消すために、かなめはピシャリと音を立てて両頬を叩いた。


 こうして己を鼓舞してから、かなめは小屋の引き戸に手を掛ける。

 

 ふと見上げると鴨居に塗られた卜部の血と、上空を覆う無数の霊蝿れいようが同時に目に止まった。



 

 

 卜部は盆地の崖によじ登って潜伏するのに好条件な廃墟が無いか眺めていた。

 

 できるだけ目立たず、出入り口が複数あり、周囲の見通しがきく……

 

 そんな条件に当てはまる廃墟を探す。

 


 卜部が手頃な廃墟を見つけたのとほとんど同時に、それとは別の廃墟の周囲で霊蝿の群れに偏りが生じた。

 

 偏った霊蝿は黒い塊になり、やがて兵隊の行列へと姿を変える。


 その廃墟はいつの間にか当時の姿に戻っており、ノイズがかった異様な雰囲気を醸し出していた。

 

 がちゃっ……がちゃっ……がちゃっ……がちゃっ

 がちゃっ……がちゃっ……がちゃっ……がちゃっ

 がちゃっ……がちゃっ……がちゃっ……がちゃっ

 

 行列は廃墟の前に整列すると一斉にガスマスクを装着した。

 

!! 投下用意!!」

 

「投下用意よし!!」

 

「投下!!」

 

 掛け声に合わせて一斉に何かが投げ込まれた。

 

 窓ガラスを破って投げ込まれた何かはシューシューと音を立てて緑色のガスを噴出する。

 

 ガスは建物の隙間から漏れ出し、やがて兵隊達の足元には緑のが出来ていた。

 

 

「ちっ……虱潰しにガスを投げ込む気か……」


 卜部は忌々しげにそうつぶやくと、気配を消して目当ての廃墟へと向かって駆け出した。

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