袴田教授の依頼㉙


 

「先生……さっき言ってたって……?」

 

 テントに戻る道中かなめは卜部に尋ねた。

 

 その問いに卜部は前を向いたまま答える。

 

「まずは警戒レベルが跳ね上がったことだ。奴らとの境界が曖昧になりつつある……」


「それってつまり……?」


「このまま行けばいずれ奴らにもが見えるようになるってことだ。しかも霊蝿れいようが盆地の全体に行き渡ってる……これからはどこに出てもおかしくない……」


 かなめはその言葉に嫌なものを感じて、咄嗟に周囲を見回した。


 そう言われて見ると先程までと違い、何処も彼処も煤けたような嫌な気配を纏っている。

 


 ぶぶぶぶぶ……


    ぶぶぶぶぶ……

 ぶぶぶ……



 かなめの耳は地の底から湧き上がるような異音をとらえて、それを脳髄へと送り届けた。


 体は脳髄からの信号に従い、無意識に空を見あげる。



 かなめはそこで見た光景に思わず顔を歪めた。



 盆地全体を覆うように、小蝿のような黒い粒子がと不気味な幻聴を伴いながら飛び回っているのだ。


 その黒い蝿達のレンズを通すと、夏の明るい日差しまでもが色褪せて劣化し、まるでモノクロ写真のようにただのと化してしまう。

 


「せ、先生……これが……?」


「そう。これが霊蝿だ。この規模なら相当の数がここで死んでる」


 

 青木も卜部の言葉に身震いすると、かなめに倣って上空を眺めた。


 しかし変わったものは何も見えない。

 

 ただ燃え尽きたかのように白い日差しと、黒々と青い空がひろがるばかりだった。

 

 しかしそれが生命力に満ちた夏の日差しではなく、どことなく不吉な死を孕んだものだということは青木にも理解できた。

 

 

「霊蝿がこれだけ空を覆っていれば、この範囲はもう奴らの陣地だ。どこに出てもおかしくない……」



 気まずい沈黙が流れた。


 その沈黙を破って再びかなめが口を開く。



ってことは……他にも何かあるんですよね……? ややこしいことが……」


 

 かなめが顔を引きつらせながら尋ねると、卜部は黙って頷いた。

 

「おそらく……新井は奴らに捕まってる。捕まってる場所は御察しの通り……」


「研究所……」


 ぼそりとつぶやいたかなめに卜部は再び黙って頷いた。


 

 卜部とかなめが新井の安否と救出の方法を思案するなか、青木は別のことを考えていた。



 研究所……


 そこにある……!!


 帝国陸軍の秘密の研究内容が……!!


 しかも、今は兵隊の幽霊のお陰か何か知らないが、当時の様子がそのままじゃないか……!!



 青木はチラリと卜部を見やった。

 

 卜部はすぐに視線に気づいて青木を見た。

 

「何だ?」

 

「い、いえ……駐屯所でもこんなに危険なのに……研究所はどうなるんだろうって……」



 本当は一刻も早く研究所の中を見たかったが、青木は咄嗟に出任せを言った。



 卜部は目を細めて青木を見据える。


 心を見透かされているような気がして青木は思わず視線を逸らしそうになる。


 しかしなんとか耐えて卜部の目をじっと見据え返した。



「ふん!! その時になれば何とかする。それよりも今はどうやって身を隠すかだ……」

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