袴田教授の依頼⑳
漆黒の夜空を埋め尽くすほどの
太古の昔に散った命の残光が、死してなお輝くことを許された夜がやってきた。
虫の声と、遠く川のせせらぎのほかには何も聞こえない。
焚き火の明かりはあるところを境に力を失い、その先には暗い影が横たわるばかりだった。
先程までの談笑は幻のように消え失せて、もはや言葉を発するものは誰もいない。
かなめはちらりと卜部の横顔に目をやった。
炎のゆらめきに合わせて卜部の横顔に映る影が踊っている。
卜部は廃工場がある方角をじっと睨みながら何かを考えている様子だった。
青木に視線を移すと火を絶やさぬように時折静かに薪を放り込んでいたが、その表情から心中は読み取れなかった。
パチパチと樹皮が爆ぜて火の粉が舞い散ったその時だった。
「今日はもう休むぞ。明日から本格的に新井を探す」
卜部はそう言って立ち上がるとリュックから紙切れを取り出して青木のテントに向かった。
「卜部先生……なんですか? それ?」
青木も立ち上がって自分のテントに向かう。
「うっ……!?」
それは見慣れぬ文字がびっしりと書き込まれたお札だった。
「袴田の話を信じるなら、用心するに越したことはない」
卜部はそう言って焚き火の前に戻ると一枚の護摩を火に投げ込み読経を始めた。
「あとは香か……」
卜部はそう独り言ちてからテントの周辺に三つの香炉を置いた。
ちょうど二つのテントを囲むように、三角の香炉の結界が出来上がった。
「これだけやれば大丈夫とは思うが……」
そう言って卜部は青木をじろりと睨んだ。
「絶対に外に出るんじゃないぞ……? それと中に招き入れるのも無しだ!! いいな?」
青木は強張った顔でこくこくと頷いた。
「じゃあな」
そう言って卜部は暗がりの方へ向かって歩き出した。
「ど、どこか行くんですか!?」
かなめが慌てて立ち上がる。
「野暮用がある……」
「……トイレですか……?」
「霊障だ……」
卜部はそう言って立ち止まった。
かなめもスタスタと卜部の後ろについていく。
「何も言わないでください」
「何だ……」
「何も言わないでください!!」
かなめの剣幕に目を丸くして卜部は小さく頷いた。
無言のまま沢にたどり着くと卜部が懐中電灯で岩陰を照らしながら言った。
「お前はあっち。俺はこっちだ」
「了解です……」
感情の籠もらない声でかなめが答える。
卜部が自分のテリトリーに向かおうとするとかなめが口を開いた。
「ここで待ち合わせです。絶対先に帰らないでくださいね?」
卜部は懐中電灯で自分の顔を下から照らしながら無言で頷き去っていった。
独り暗闇に取り残されたかなめは覚悟を決めて沢に向かう。
怪異による恐怖のためか、あるいは剥き出しの自然の前であまりにも無力な人間の
「うぅぅ……落ち着けかなめ……平常心……平常心」
そう唱えながらかなめは急いで用を足し、沢の水で手を洗った。
小走りで待ち合わせの場所に戻る途中、かなめの視界の端に人影が一瞬だけ映った気がした。
「え……?」
影の消えた方に目を凝らすと、微かにざりざりと砂利を蹴る音が聞こえた気がする。
しかしその気配もすぐに闇に溶け込んで消えてしまった。
へい……
耳元で声がした。
「ひぃいぃっ……!?」
かなめが驚いて振り返るとそこには卜部が立っていた。
「おい!! どうした!?」
「せ、先生……!? い、今あっちに人が走って行くのが……」
そう言ってかなめは暗闇に自分の懐中電灯を向ける。
しかしか細い光はすぐ手前で闇に負け、ただただ奥に控える深い闇を浮き彫りにするだけだった。
卜部は何かを探し求めるように目を細めていたが、やがてため息をついて言った。
「今は分が悪い。テントに戻るぞ」
かなめはじっとりと嫌な汗を拭って頷いた。
二人が戻ると青木のテントの前には靴が脱いで置かれていた。
どうやら先に休んだらしい。
「おい青木戻ったぞ。約束は覚えてるな?」
卜部はテントに向かって声をかけた。
すると青木の不安げな声が返ってくる。
「はい……絶対開けません、外にも出ません……この声も、卜部先生とは限らない……ってことですよね……?」
「いいだろう。その意気だ」
「青木さんおやすみなさい」
こうして卜部とかなめも自分たちのテントに入っていった。
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