袴田教授の依頼⑮


 胃の中身を吐き終えた青木が真っ青な顔で卜部の方を見た。

 

「な、何でわかるんですか……?」

 

 卜部は青木の方をほんの一瞬だけで見てから再び藪の奥に視線を移す。

 

「その鹿が纏ってるのと同じ、得体の知れない嫌な臭いがするからだ」

 

 獣の臭いが入り混じった内臓の腐臭を言っているわけではないだろう……

 

 かなめは卜部でさえもとこぼしたことが気がかりだった。

 

 いつもなら大抵のことには当たりがついている卜部にもこの怪異の正体は見当がつかないのだ。

 

「先生……本当に行くんですよね……?」

 

 かなめは思わず尋ねた。

 

 そんなかなめに卜部はニヤリと笑って答える。

 

「解らないなら進む他選択肢はないだろう?」

 

 かなめは頷き、ごくりと唾を飲んだ。

 

「行くぞ……!! 暗くなる前に集落にたどり着きたい」

 

 

 車を路肩に停めて藪に入る直前に、卜部は青木に声をかけた。

 

「お前が先頭を歩け」

 

「えっ……!?」

 

 青木は予想外の言葉に戸惑っている。

 

「当たり前だ。殿しんがりを任せて逃げ出されたら困る。それに何より……」


「お前に背中は預けられない」

 

 卜部はそう言って青木の肩を叩いた。

 

「亀!! お前が真ん中だ!!」

 

「かめじゃありません!! かなめです!!」

 

 こうして三人は重たい荷物を背負って道無き道をひた進んだ。


 せり出した木々や伸びた草の先には見たことのない昆虫や毛虫がついていることもあった。


 そのたびに青木は小さな悲鳴を上げ、後ろからは卜部の怒鳴り声が響いた。


 

「ハア……ハア……ハア……」

 

 かなめは強い日差しと酷い蒸し暑さのせいで大量の汗をかいていた。 


 いつしか呼吸は荒くなり、手足が重たくなってくる。



 そんなかなめに気がついた卜部が青木に叫ぶ。

 

「そこに沢が見える。一旦休憩するぞ」

 

 その声に振り返った青木もぜぇぜぇと荒い呼吸をしながら額の汗を拭う。

 

「りょ、了解です……」

 


 こうして三人は獣道から少し逸れた場所にある沢まで下っていくのだった。



「おい亀。靴を脱いで足首を冷やせ。体温が下がる」

 

「はい……ありがとうございます……」

 

 手渡された水筒から水を飲みながらかなめが答えた。

 

 卜部は沢の水を掬って口に含むと何かを確認するように水を口内で転がした。


「おいお前の水筒を寄越せ」 


 卜部はかなめの水筒に自分の水筒の水を移すと、空になった自分の水筒に沢の水を汲んだ。

 

「俺は沢水に慣れてるが、お前たちは一応煮沸してから飲め。いいな」


 卜部はそう言ってかなめに水筒を返しながら青木に視線を送る。


「わ、わかりました」

 

「でも先生……お腹壊したりしませんか……?」


 かなめが心配そうに卜部を見つめる。


「余計なお世話だ……」


 卜部はかなめを睨んで忌々しそうにつぶやいた。


 かなめはしばらく冷たい沢水に足を浸していた。

 

 すると体の火照りがすぅと引いていくのが分かり、いつしか呼吸も元に戻っていた。

 

「先生!! もう大丈夫そうです!!」


 かなめの方をちらりと見てから卜部が言う。 


「よし。出発しよう」

 

 こうして三人は再び獣道に戻ってきた。

 

 しばらく進んだ頃、かなめはふと草に埋もれた赤いものに気がついた。

 

「あれ何でしょう……?」

 

 かなめは獣道の脇を指さして声を出した。

 

「看板……みたいですね……?」

 

 青木はそう答えて看板を覆う草を脇に退けた。

 

 

「此ノ先 立チ入リヲ禁ズ 立チ入ル者ハーーー殺ーーー ーーー師ー」

 

 所々に錆が浮いた赤いブリキの看板には、筆書きのような筆跡でそう書かれていた。

 

 下に行くほど劣化が激しかったが、かろじての文字は判別できる。


「本当に陸軍の施設があったみたいですね……」

 

 かなめは暑さとは違う嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

 

「ああ。先を急ぐぞ……」

 

 そう言った卜部の声にも緊張の色が混じっていることにかなめは気がついた。

 

 ただ青木だけはその看板を見て目を輝かせているのだった。

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