第2話 進化する堂々巡り
義之サイボーグは、図書館で秘蔵の歴史書を見て、大体のことは理解できた。しかし、理解できない部分も少なからずあった。その部分がどうしても繋がってくれないことで、過去に戻る気がしなかった。
家に戻ってみると、そこに義之自身がいないことを不思議には感じていたが、あまり気にはならなかった。
義之は、その頃沙織のところに行っていたが、沙織に予知能力が備わっていることは知っていたが、彼女がロボットに興味を持つことまでは想像していなかった。
――これも、一種の予知能力なんだろうか?
と感じていた。
香澄先生のことも気にしていたが、香澄先生が死んだことに対して、それほどショックを受けていないように見えたが、それも、沙織の性格なのかも知れない。
義之本人は、沙織の前から一旦姿を消した。そして、さらに過去に遡り、香澄に会いに行った。その時代は、自分のサイボーグが消えてしばらくした時代で、香澄の彼氏が自殺を図る前だった。
義之には、香澄の付き合っている男性が、余命いくばくもなく、自殺に追い込まれることは分かっていた。一度だけ香澄に会うことで、香澄の様子を伺いたかった。
「自分が姿を消しても、サイボーグが戻ってくる」
という計算があったからだ。
香澄はその頃、彼氏の様子に違和感を感じていた。何がおかしいというのは分からなかったが、ただ、急にソワソワして、何かに怯えている様子が伺えたのだが、何に怯えているのか、想像もつかなかった。
自分の気になっている相手が、怯えている。しかも、それが何に対してなのか分からない状況に対して、香澄は彼が怯えていることに不安を感じているわけではなく、
――何に怯えているのか?
ということの方が怖さを感じた。
相手が何者なのか分からないということほど恐ろしいことはない。それは、自分の未来の人間だからだろう。香澄の時代の人間なら、まずは相手が怯えていることに対して気になってしまう。それだけ、感情移入しやすいからなのだろうが、だからと言って、相手のことを真剣に考えているわけではない。自分に置き換えて考えるのは、香澄の時代の人間も義之の時代の人間も同じなのだが、感情移入してしまうと、冷静さを失ってしまい、
――まずは自分――
という意識が強くなる。
しかも、自分が冷静さを失っていることを潜在意識は感じているのだろうが、表に出したくないという思いから、殻に閉じこもってしまう。それが香澄の時代の人間には頻繁に行われている。
だが、その力は、義之の時代の人間に比べれば微力なものである。隠そうとしても結局、表から見ると丸見えなのだ。自分にも同じようなところがあるにも関わらず、他人のこととなれば、分かってしまう。それは、義之の時代の人間も同じなのだが、それを自分に置き換えて活用できないのが香澄の時代の人間だった。
香澄の時代の人間は、ロボットを意識することはない。想像はできても、存在しないのだから、意識する必要がないのは無理のないことだ。
――彼らは人間だけを意識していればいいんだ――
この気持ちは、一人っ子や長男のイメージに似ている。意識するのは同じ人間だという意識があるせいか、
――人間ほど複雑で難しいものはない――
という意識を持っていない。
義之の時代の人間は、過去の大戦争を経験しての生き残りなので、人間の恐ろしさを実感している。世代は変わってもその意識は変わらない。
だから、学校で教える必要もなく、戦争を題材にした書物の検閲もきついのだ。それぞれ潜在意識で嫌というほど意識の中に埋め込まれている。しかも、
「人を傷つけてはいけない」
などというチップまでもが、人間に埋め込まれているのだ。
人間の体内にチップなど、普通なら考えられないことだった。「基本的人権」などという言葉は、有名無実となってしまったのだ。
香澄の時代の人間は、基本的人権はあるが、その安全性という意味では「紙一重」のところがあった。
「いつ、爆発するか分からない」
平和な時期は、そんなに続かないという格言が生まれたのもこの頃だ。世界のどこかでいくつもの火種が紛争として燻っている。未曾有の大戦争が起こってしまう要因は、どこにでもあった。
その中の些細な紛争から歴史は狂い始めた。いや、狂ったのではなく、着実に進んでいただけなのかも知れない。
「積み間違えた積み木細工を正しく組み直すには、一度壊して組み立て直すしかない」
という言葉の通りになってしまった。
「聖書」の中に出てくる「ソドムの村」や「ノアの箱舟」など、その最たる例ではないか。ただ。それを行うのは神であって人間ではない。それを人間自らしてしまういうのは、まさしく、
「人間が神になろうとした」
ということではないだろうか。
そのことも「聖書」は、「バベルの塔」という形で残している。
「聖書」というのは、一宗教の聖典でありながら、その実、「予言書」のようなものだと考えてもいいだろう。
それは、警告でもある。
「人間が神になろうなどとすると、不幸が訪れる」
ということだ。
それは「聖書」に限らず、古代文明の戯曲のテーマでもある。
神というのは、人間にとって絶対的な存在であり、侵すことのできないものだ。しかし、神は人間と同じように嫉妬深く、感情も激しい。力が強いだけに、人間などひとたまりもない。被害を被るのは人間なのだ。そのことを宗教として宣教しているが、そこに何の意味があるのか、誰に分かるというのだろう。
義之は、香澄の時代にやってきて、
「同じ人間なのに、ここまで考え方が違うんだ」
と感じた。
しかも、自分たちの時代に、国家というものは複数存在するが、国家主義がそんなに違うことはない。それに比べ、香澄の時代の人間には、国家が数多くあり、しかも、国家ごとに体制が違っている。
「これなら、いつ戦争になってもおかしくない」
しかも、同じ国家内でも、主義主張が別れていて、特に民族が複数いる国家は、国内紛争が絶えない。それこそ、歴史認識が大切で、自分たちの時代と違って、歴史の教育が重要だった。
しかし、ほとんどの学生は歴史が嫌いだったり苦手だったりする。
それは、本当に教えなければいけないことを教えるわけではなく、歴史を単なる「暗記科目」としてしまっているからだ。
せっかく歴史を知ることができる環境であるにも関わらず、歴史をないがしろにしているように見え、義之はやるせない気持ちになっていた。
義之自身、歴史という教科を勉強したことがなかった。
香澄の時代に来て、図書館で歴史関係の本を読み漁った。
義之の時代ともなると、本を読むのに時間は掛からない。本に書かれている文字を読まずとも、ヘッドホンカメラに文字を写すだけで、声となって耳に入ってくる装置があった。本当なら文字を読むのが一番いいのだろうが、あまり本を読んだ経験のない義之は、読んでいるうちに気が散ってしまうことが結構あった。しかも、ある瞬間を通り超えると急に睡魔が襲ってくる。これでは、本を読んでいるどころではないだろう。
歴史の本を読みこんでいると、今度はいろいろな疑問が浮かんでくる。
それは香澄の時代の人間が、きちんと勉強すれば、
「そんなのは当然のことさ」
と思えるのだろうが、歴史は未曾有の大戦争の時点で一度終わっているのだ。
「文明の崩壊」
それは、歴史の終焉を意味していた。
一度途切れてしまった歴史。そういう意味では、義之たちは「新人類」でありながら、香澄たちのような終末に近い歴史の中で生きている人たちと比べて、とても未来からの人間のようには思えなかった。
「人間として完成されているのは、どっちなんだ?」
と考えると、義之は分からなくなってきた。
沙織に対して情が浮かんだのも事実だし、沙織に対して、
「ウソをついてはいけない」
と感じたのも事実だ。
だからと言って、沙織や香澄が自分たちより優れているとは思えない。かといって、自分たちの方が優れているというのは、なおさら信じられない。義之の時代の人間は、真剣に生きているように心の中は感じられるが、さらに奥には、計算の元に生きているだけ、つまり生きているというよりも、
「生かされている」
という意識が強くなっているのだ。
香澄の時代の人間は、表向きは一生懸命に生きているように思えるが、それは自分のことに精一杯で、まわりが見えていない。それは社会体制が、義之の時代と違っているので仕方がないことなのかも知れない。
それでも、義之には香澄の時代の「自由な風紀」が気に入っていた。この時代に生まれて生きていくというのは嫌だったが、途中からでも、こちらの時代で生きてみたいという意識はあった。
義之は、サイボーグが香澄を置いて途中で元の時代に戻ったことは知っていた。しかし、それがなぜなのかまでは分からなかった。まさか、自分たちの時代の人間に入っていたチップが香澄の中に入っていないことに疑問を抱くなど、想像もつかなかったからだ。もっとも義之も自分の身体にチップが埋め込まれているなどということは、高校の時、ロボット工学を志そうと思わなければ、二十歳になるまで知らなかっただろう。
義之の時代にも、成人式という儀式はある。
成人は、香澄の時代と同じ二十歳であるが、その時になって、式典の中で、講演に来た人が、自分たちの中にチップが埋め込まれていることを話すのだ。
別に隠しておく必要はない。かといって、無理に話す必要もないということで、
「二十歳になったら、成人式の時、初めて知らされる」
というのが、義之の時代の恒例になった。
――ロボットでもない人間の体内に、異物が組み込まれているなんて――
誰もが自分の身体に違和感を感じるのだろうが、すぐに意識は元に戻る。チップにはそういう効力も組み込まれていた。
もちろん、香澄の時代の人間には、そんなことが未来の人間に起こるなど、想像もしないだろう。だが、人間の考え方はいつもギリギリになるまで、危険を回避できないようにできているということを知っている人は、義之の時代に比べれば多いかも知れない。微々たるものだということは間違いのないことだが、それでも間違いを繰り返してしまうのが人間というもののようだ。
義之は、この時代の歴史の本を読むのが好きになった。もちろん、未来に持って帰ることはできない。勝手に時代を超えさせることは許されないのだ。
もし、歴史書を自分たちの時代に持って帰ると、きっと風化してしまうだろう。逆にこの時代のものを過去に持って行っても、劣化はしないが、もし、過去の人間にその書物を見られて、未来を知ってしまうようなことになれば、どうなるだろう?
しかし、義之は未来の話を沙織にしてしまった。
――沙織には、未来の話をしても構わない気がした――
それは錯覚ではない。沙織は未来のことをちゃんと知っていた。半信半疑であったが、それを自分では予知能力の賜物だと思っていたようだ。
――予知能力というのは、沙織の特殊能力だが、それは本当に持って生まれたものなのだろうか?
義之は、自分の時代にあった学生時代にあった本を思い出していた。
確か、その時の本には、
「特殊能力は確かに人間の潜在意識の中にあるものだが、それを引き出すことは自分にはできない。かといって、他人にもできない。つまりは、特殊能力を持った人間というのは、自分の子孫が自分の時代にやってきて、その能力を引き出す力を与えることだ。その能力の存在有無を、与える人間が知っているかどうかは、その限りではない」
と、そんな話が書かれていた。
つまり、予知能力は、自分だけでは力を発揮できない。自分の子供か、あるいはタイムマシンでやってきた自分の子孫かのどちらかによって引き出されるもののようだ。
――沙織の場合は、俺ということになるのだろうか?
しかし、沙織の時代に来る前から、沙織には能力があった。
しかも、一度、先祖のある時代にやってきてしまったら、他の時代に行って、何かの影響を与えるようなことはないという。なぜなら、二度目は、相手から自分を見ることもできないければ、意識することもできないからだ。
沙織のことを気にしながら、義之は香澄も気になっていた。
いずれ、二人は一緒になる運命だとは分かっているが、今の時点での二人は、性格が違いすぎる気がした。
二人の時代の人間から見れば、さほど違いを感じることはないというが、義之には分かった。違う時代の人間だからだろうか。それとも、自分は子孫だという意識があるからだろうか?
どちらにしても、二人は平行線を描きながら、いずれは交わることになるのである。
香澄に会った義之本人の第一印象は、
――自分とは、合わないな――
というものだった。
この時代の人間とは、
――元々、種類が違う――
という意識を持っていた。種類というのは、同じ人間であっても、生まれ変わりでもなければ、突然変異というのでもない。
――一度滅んだ種別――
という意識を持ちながら、心の奥では自分の先祖だと思っている。どちらの気持ちが大きいのか、実際に会ってみて確かめたかった。
沙織に会ってみて感じたのは、
――やはり自分の先祖だ――
という意識だった。考えていることが何となく分かるし、話をしていて繋がる話も結構あった。
だが、それは沙織が三十歳になってのことで、今の香澄が、
――沙織の中に入っている――
という意識で見ていたからなのかも知れない。
もし、沙織だけしか意識しない相手だったらどうだろう? いずれ昔の沙織を見に行きたいと思っているが、今は香澄が気になっている。この時代にも沙織はいるはずだが、まだ香澄と知り合っているわけではない。まずは、自分のサイボーグと一緒にいた香澄を見てみることで、サイボーグから得た香澄の印象と、実際に見る香澄の印象がどれほど違っているかが、義之にとって大きな問題であった。
実際に会ってみた香澄の印象は、サイボーグから送られてきた印象とはかなり違っている。
サイボーグから送られてきた印象は、
――大人しくてどこか弱弱しいところを感じる。自分がそばについていてあげないと、彼女は精神的にまいってしまう――
というものだった。
しかし、実際に会ってみた香澄は、義之本人に対して挑戦的な目をしている。
――この目は、初対面の相手を威嚇するような目だ。確かにこんな挑戦的な目を最初にする人は、精神的にそれほど強い人ではないだろう。それだけ気持ちに余裕がないから、相手を最初に威嚇して自分を鼓舞しようと考えるだろう――
そう感じた義之だが、香澄には、その奥に、
――他人には絶対に負けない――
という思いが隠されているのを感じた。
――サイボーグは気付かなかったんだろうか?
最初は気付かないにしても、途中から気付きそうなものだが、もし、彼女が相手によって態度を変える人ならありえることだが、だとすれば、香澄には自分がこの間まで一緒だったサイボーグとは違うと、瞬時に気付いたことになる。
長く一緒にいれば、気付くこともあるだろうが、そう簡単に見分けがつくとは思えない。それだけ、義之がこの時代の人間を甘く見ていたからなのか、それとも、香澄という女性を甘く見ていたのか。それとも、香澄自身が、サイボーグに対して、かなりの思い入れがあり、真剣に好きになってしまったということなのか。サイボーグの送ってきたデータには、自分が香澄を好きになったという意識は垣間見えたが、香澄がどう考えているかということを送ってきてはいなかった。本当はそのことが一番知りたかったのに送ってこなかったということは、分からなかったからだというよりも、わざと送らなかったからなのだと、義之は感じていた。
香澄の目に、母性本能のようなものが芽生えていた。
――分からない――
香澄は、義之サイボーグがそばにいるのに、彼を好きになった印象は感じるのに、なぜ他の男性と付き合うことになったのだろうか?
その人は余命いくばくもない状態だったということを、最初から知っていたかどうかが、問題ではないかと義之は感じた。
もし、そのことを知っていて付き合ったのだとすれば、香澄は自分が悲劇のヒロインになったような気がしているだろう。それはメルヘンの世界の女王様のような憧れに似たもので、実際にその人が死んでしまった時、どのように自分が感じるかなど、考えもしなかったかも知れない。
だが、もし、好きでもない相手と「同情」で付き合ったのであれば、死んでしまってからしばらくはショックが残るだろうが、ある瞬間を境に、まったく感情が変わってしまうかも知れない。
――冷めた感覚――
というより、
――冷静さが冷徹さに変わったような感覚――
と言えるだろう。
――香澄はきっと、彼が死んでから自分がショックを受けることは分かっていただろう。すべて分かっていて受け入れた。そんな彼女が自分が想像していた立場に追い込まれた時、ちょっとでも想像と違えば、その小さなアリの穴から、大きな落とし穴ができてしまう――
そんな状況を、義之は頭の中に描いていた。
――交わってしまう平行線――
義之は、遠くに消えて行く二本の線を、ずっと眺めていた。それは、どこまで行っても消えることのない、
――限りなく細い二本の直線――
だったのだ。
香澄は、しばらくして自分の前に現れた義之が、ずっと一緒にいてくれたサイボーグとは違っていることを、一瞬にして見抜いた。
それはきっと香澄にしか分からない何かを感じたからなのかも知れないが、香澄にとっても、自分が分かるのは、義之サイボーグだけだった。義之本人が本当は自分の子孫であり、恋愛感情を抱いてはいけない相手であるということに気付いたわけではなかった。
――ただ、彼とは別人なんだ――
ということを漠然と感じた。それが、次第に予知能力に繋がっていくことを、香澄は分かっていなかった。沙織の中にある予知能力とは違うものだが、二人が一緒になってから今まで、ずっと描いてきた平行線が、次第に近づいてきた。そのことを強く感じていたのは沙織よりも香澄の方だったのだ。
香澄は、義之サイボーグと一緒にいる時も、
「近い将来、自分に関係が深くなる女性と知り合うことになると思うの」
と、話をしていた。
沙織のことは、ほとんど知らなかったが、頭の中には意識として残っている。それは、義之本人の意識を、埋め込まれているからに違いない。
――ひょっとして香澄は、自分の後ろに、まだ見ぬ沙織を見ているのかも知れない――
と感じていた。
だが、本当は香澄が誰かの後ろに沙織を感じるとすれば、それは義之本人であろう。
香澄が、義之本人とサイボーグが違うということを一瞬にして認識したのは、おぼろげながら、後ろに見えるものが違ったからなのかも知れない。
義之本人の後ろには沙織を感じた。では、義之サイボーグの後ろには誰を感じたのだろう?
誰かを感じたのは間違いなかった。その人は自分が知っている人だったのかどうか、後から思い出そうとしても思い出せない。
香澄は、自殺した彼の葬儀で、不思議な会話を聞いたのを思い出した。
お寺の境内の奥の方だったので、誰もいないと思って話をしていたのだろうが、
「どうやら、遺体は見つかっていないようなのよ」
「えっ? じゃあ、自殺というのも分からないということ?」
「ええ、話に尾ひれがついて自殺ということになったらしいんだけど、滝つぼに身を投げたという話で、遺書と靴は、その場所にあったというの。その場所は身を投げると、なかなか遺体を確認できないところのようで、自殺と判断したのは、やはり、彼の余命が決まっていたこともあって、世を儚んで自殺したんだと思う方が自然でしょう? 遺書があった以上、自殺以外だとすれば、彼は誰かに殺されたということになるわね」
香澄には、彼が誰かに殺されるというのはイメージが湧かなかったが、急に目の前から消えてしまうというのは、想像できるような気がした。
最初は信じられなかったことも、彼の顔を思い出そうとしているうちに、
――あの人になら、少々何があっても、驚かないわ――
と、感じるのだった。
そういう意味では、自殺したとされる彼は、義之サイボーグに似ていた。どこか不思議なところを醸し出しているが、その不思議な感覚は香澄にしか分からない。
「ただの変わり者」
として、他の人の目には写るだろう。だが、同じ変わり者でも、性質はまったく違う。義之サイボーグは、途切れた会話を繋ぐことができる相手だが、余命いくばくかの彼氏は、一旦会話が途切れてしまうと、そこから先は静かで冷たい時間が続くことだろう。
香澄にとって、
――彼は何だったんだろう?
という思いが頭を過ぎった。
香澄自身は彼が死んだことにショックは受けたようだが、遺体が見つからなかったことで、何かホッとしているように見えた。
義之本人は、サイボーグと違って、
――彼女は自分の先祖である――
という意識が強い。
ただ、あくまで情報は限られている。何しろ、香澄の時代から自分たちの時代までの溝は、限りなく深いものがある。もし、この世界にパラレルワールドというのが存在するのだとすれば、
――香澄の時代から見て、義之の時代は本当にパラレルワールドなのだろうか?
という疑念が浮かんでくる。
しかし、香澄と沙織の子孫が義之であることは、科学的にも証明されている。それが違っているのだとすれば、今までの行動がすべて間違っていることになる。わざわざ自分に似せたサイボーグを創り上げ、危険を顧みず、過去に送り出すなど、暴挙とも思えることをしているではないか。
――そもそも、こんな暴挙に出る価値が、本当にあるのだろうか?
パラドックスに逆らってまで、なぜ義之はサイボーグを作って送り出したり、先祖に会いに来たりする必要があったというのだろう?
もちろん、最初は、
――どんな危険があろうとも、この計画は成功させないといけない――
と思っていたはずだ。
義之は。そもそもの計画が何だったのか、少しずつ忘れかけている。もちろん、計画を残しているのは間違いないが、後から見ても分かるつもりで書いていたはずなのに、実際に後から見ると、
――どうして、こんなことを考えたんだろう?
と、本当に自分の考えであることを疑ってみたくなるほどだった。
義之の性格から、お世辞にも
――綿密に練られた計画――
というわけにはいかないが、それなりに理路整然としていた。
元々の計画は、数少ない過去の歴史認識の材料と、先祖に対する認識の中で計画したもの、当然、状況が変われば、計画も軌道修正を余儀なくされるだろう。
義之はそのことも計算はしていたが、やはり過去に来てみれば、自分の想定とはかなり違っていることに戸惑ってもいた。
サイボーグが、香澄を好きになるところまでは計算できたが、香澄の方がサイボーグを好きになるなどということは計算に入れていなかった。
人間がサイボーグを好きになるという感覚に対して、タブーだと思う感覚は、香澄の時代よりも、義之の時代の方が遥かに大きい。サイボーグというものを、
――まだまだ近未来の架空の存在――
だと認識している香澄の時代の人間がサイボーグを好きになるというのは、夢物語のように思っていても、実際に比較対象がないのだから、ただの想像で、それだけ可能性という意味で、
――サイボーグを好きになる人間がいたっていいじゃないか――
という発想を持つ。
それは、存在しないものに対して感じることは無限であるという、ある種の「妄想」のようなものである。
そういう意味では、妄想ほど「強い」ものはないかも知れない。妄想が無限ではないとしても、限りなく無限に近ければ、強さは他のものに比べても真実味を帯びてくるというものだ。
――無限というものは、本当に存在するのだろうか?
過去というのは、必ず始まった時期があるはずなので、無限ではない。では、未来には限りがあるのだろうか?
それは誰にも分からない。
もし、それを調べようとして、タイムマシンを開発したり、いろいろな想像を巡らせることで、理論として確立させようとする人はたくさんいる。だが、そこで何かの力が働いて妨害があれば、少なからず、どこかに限界が存在しているという考えは、突飛な考えだと言えるだろうか?
無限だと考えていることは、
――限りなく無限に近い有限――
だったり、あるいは、
――堂々巡りを繰り返しているだけで、結局いつかは同じところに戻ってくる――
という考えもあるのではないか。
――歴史は繰り返す――
という言葉もあり、聖書にしても、香澄の時代から義之の時代に至るまでに起こった「浄化」を思わせる未曾有の大戦争など、その最たる例ではないだろうか。
――必ずどこかで一度は壊さなければいけない世界――
「積み間違えた積み木細工を正しく組み直すには、一度壊して組み立て直すしかない」
という言葉がそのことを表しているのかも知れない。
その時、ずっと平行で走っていて、決して交わるはずのない二本の線が交わる瞬間を、ずっと待っているという感覚が、義之の中に芽生えた。
パラドックスとして踏み入れてはいけない世界もあるが、すべてをパラドックスとして片づけてしまっているだけなのではないかと思った。
頭の中で理解できないこと、いろいろ考えて、結局結論が出ることもなく、それ以上考えることが自分の思考のギリギリであることを悟ると、そこから先を「パラドックス」のせいにして、考えるのをやめてしまう。
つまりは、パラドックスという言葉を使って、考えるという「無限」の意識にピリオドを打とうとする。無意識であるが、無限を求めているくせに、求めている無限が自分にどのような影響を与えるかを思い知るという皮肉な結果を産んでしまうことになるのだ。
――やっぱり無限なんて存在しないんだ――
本当は存在するのかも知れないが、それが自分以外のところで展開されるものであればいいのだが、自分に関わってくると、これ以上の恐怖がないことから、途端に逃げ腰になる。
――それが人間なんだ――
ただ、香澄の時代の人間には、その感覚がない。
それは、香澄の時代の人間が強いわけではなく、そこまでに至るまでの精神状態になれないのだ。香澄の時代の人間は義之の時代の人間ほど、自分を大切にし、真面目にいろいろ考えている人間が少ないということになる。やはり歴史を勉強できる環境にあるのに、歴史が嫌いだという人がほとんどの香澄の時代の人たちと、歴史を勉強したいと思っているのに、勉強する機会を極端に制限されている義之の時代の人間の考え方、おのずと、どちらが真面目で、一生懸命に生きているのかが分かるというものだ。
それは、個人主義という考えとは異なっている。
義之の時代は、基本、個人主義だ。
もっとも、結社や団体の形成を極端に制限されているというのもあるのだが、個人個人の研究が、自然と世の中の形成に一役買っている。
逆に香澄の時代の人間は、道徳や同和などで、団体行動を重要としている。
義之の時代には、戦争の悪夢からの教訓だが、本当は香澄の時代の人間もさほど変わらないはずだ。
「集団意識」
という言葉があるが、それは、
――集団であって、集団ではない――
と言えるだろう。
集団意識というのは、
「あいつがやっているなら、俺も」
というように、自分の意志よりも、他の人の行動を正当化することで、自分の行いを悪いことではないと納得させ、容易に行動に移させるだけの、
――言い訳――
にしか過ぎない。
言い訳がまかり通ると、集団ではない個人の状態のモヤモヤしたものを纏めようとする人間が現れる。
歴史に残っている場合、そのほとんどは、
「独裁者」
である。人の心を洗脳することで、集団を形成していく。マスコミはプロパガンダしか放送せず、独裁者は集団のリーダーとして君臨し、自分がまるで教祖にでもなったかのような危険分子に変わるのだ。
そのことを一番分かっていなければいけないのは、香澄の時代の人たちのはずなのに、歴史に対しての認識が極端に薄いので、結果、同じことを繰り返すようになる。
歴史は事実しか語らない。つまりは、その人がどのように考えるかによって、いくらでも変わってくるものだ。一人一人漠然とした認識を持っているだけで、歴史を嫌っているのだから、バラバラである。
それを一つに纏め、導こうとする人が現れれば、自分の意見を持っていない人は、その人に一番洗脳されやすいだろう。
洗脳されてしまうと、
――集団意識こそ、一番強いものだ――
ということを自分の中で納得する。
それまで納得するということがなかった人たちは、納得ということに飢えていたのだ。それを教えてくれた人についていこうという考えになるのも当たり前だというのものだろう。
独裁者の歴史に、
「明日はない」
ということは、歴史が答えを出しているのに、それでも独裁者に引っ張って行かれるのは、それだけ歴史認識がないからなのだが、それは、歴史というものを、
「暗記科目」
だとして教育を受けてきたからだ。
歴史は、一番思考を必要とする学問である。
なぜなら、一番情報が少ないものだ。過去のことであり、いろいろ発掘や考古学は発展して、少しずつ解明はされてはいるが、それでも、発掘物から何を学ぶかということの方が、発掘自体よりも重要であり、はるかに難しいことである。
義之は、この時代に来て、この時代の人間と接してみて、本当にガッカリしてしまった。こんな連中が自分の先祖だったのかと思うと、
「浄化も仕方がなかったのかも知れないな」
とひとりごちた。
――交わることのない平行線があるとすれば、この時代の人類と、我々の時代の人類、同じ人類でありながら、決して交わらないんだ――
と、考えるようになった。
だが、事実として、自分の先祖がここにいることは間違いない。何かを正さなければならないと思ってこの時代にやってきたが、次第にその気持ちも薄れていった。
ただ、自分の先祖は救わないと、自分が生まれてくることはない。義之は、是が非でも自分の先祖を守らなければいけないと思った。
自分が沙織や香澄の前に現れて、ストレートに事実を述べたとしても、
「何言ってるのよ。あなた、どこかおかしいんじゃないの?」
と、言われるのがオチである。
義之の時代の人間は、義之を含め、性格は真面目で、一生懸命なのだが、精神的には脆くなっている。ちょっとしたことを言われただけでも、すぐにショックで寝込んでしまうほどである。
――あの時の戦争がすべてだったんだ――
人間のいいところ、悪いところ、過去も未来も帳尻が合うようになっていた。どちらの世界の人間が、ずば抜けて素晴らしいということはない。それぞれに一長一短、
「天は人に二物を与えず」
という言葉は、義之の時代の人間にも言えることだった。
そういう意味で、サイボーグやロボットに、あまり考える力を埋め込もうとする人は少なかった。義之はそれを敢えて、自分のサイボーグに、考える力と、成長する力を埋め込んだ。
義之は、香澄の時代の人間と、まともに話すことはできないだろう。
自分のことを言われているわけではないのに、会話を聞いていると、心が折れてくるのを感じる。
――どうして、相手に罵声を浴びせられて、あんなに笑っていられるんだ?
香澄の時代の人間は、世間話の中に皮肉などを込めて、少々悪たれをついたりする。それが義之には信じられなかった。
絶えず一生懸命に生きている義之の時代の人間に、そんな悪たれは信じられない。そう、「遊びの部分」
つまりは、
「ニュートラル」
が、一生懸命にしか生きることのできない人間には理解できないのだ。
それも、義之の時代の人間の「一短」なのだ。
心が弱いということに結びついてくるのだが、香澄の時代の人間であれば、考えるキャパが狭い人がそうなりがちなのだが、義之の時代の人間には、考える力は、香澄の時代の人間に比べても遥かに強い。それなのに、遊びの部分がないというのはどういうことなのだろう。義之には納得できることではなかった。
やはり、二つの時代は表裏一体でありながら、
――決して交わることのない平行線――
なのに違いない。
サイボーグも、それなりに対応していたようだが、混乱は避けられなかったようだ。だは、最初から香澄を目指してやってきていたので、香澄に対しての想いがそのままこの時代の人間として認識したようだ。
それでも、香澄は他の人たちとは違って、自分からまわりに殻を作っていた。自分に馴染める人だけがまわりにいたようだが、
――私はそれでいい――
と思っていた。
彼には、香澄の気持ちが分かるような気がした。
――私はそれでいい――
というのも、決して言い訳のようには見えななかった。それはサイボーグが義之の時代に生まれたからだろう。香澄は、この時代の人間よりも、義之の時代の人間にはるかに近かった。
香澄は真面目で、一生懸命に自分のために生きていた。この時代の他の人は、集団意識を穿き違えていて、
「人に好かれたい」
というよりも、
「人から嫌われたくない」
という気持ちの方が圧倒的に強い。それは、人から嫌われると、孤立してしまい、まわりからの嫌がらせや、誹謗中傷に晒されることを意味していたからだ。そんなことは少しでも集団意識を持っていれば、耐えられることではない。孤立が孤独に結びつき、いずれ誰も相手をしてくれることもなく、
――まわり全体敵だらけ――
四面楚歌の状態になることだけは避けなければならなかった。それは、
――人は一人では生きられない――
という言葉が強く意識の中にあるからだ。
助け合うという意識から生まれた言葉が、孤立を意味する言葉に変わってしまうのが、香澄の世界の人間だった。
義之の時代の人間は、孤立主義だった。
言葉を変えると、自由主義、個性派主義と言えるだろう。そういう意味では、香澄のような女性は、義之の時代にこそふさわしいのかも知れない。サイボーグが香澄を好きになったのも、香澄がサイボーグを好きになったのもそのせいであろう。特に香澄が義之サイボーグに感じたことは、
――好きになった――
という感情よりも、
――興味を持った――
という感情だったのかも知れない。
義之の時代の恋愛は、まず相手に興味を持つことから始まる。この時代でも、相手に興味を持つことから始まる場合もあるが、それよりも感情のまま突っ走るというパターンの方が多いだろう。
義之の時代には、それはない。感情のまま突っ走るというのは、
「子供のすることだ」
という割り切りがあった。
香澄が、どうして余命いくばくもない彼に惹かれたのかということは、義之には分かる気がした。
――香澄さんは、自分の命が長くないことを予感しているのかも知れない――
それが予知能力だとすれば、予知能力という言葉をもう一度考え直さなければならないだろう。あくまでも、自分以外のことを予知するのが、義之の考えている「予知能力」だと思っている。
では、自分のことが分かるのは、「特殊能力」ではないのだろうか?
「人のことはよく分かっても、自分のことはなかなか分からないものだ」
と、言われるが、先のことに関しては、逆ではないだろうか。先のことを自分のことであれば、ある程度察しがつくというのは、感覚の問題であって、「特殊能力」とは違うものだと義之は思っている。
「特殊能力」とは、元々人間の中に潜在しているもの、つまりは隠れているものが、「覚醒」した時、「特殊能力」と呼ぶのではないかと思っている。「超能力」という言葉もあるが、それは香澄の時代の表現であり、この時代にも「特殊能力」という言葉もあった。しかし、使われ方が曖昧なところがあったので、義之の時代には、「超能力」ではなく、「特殊能力」という呼び名で統一されるようになった。「特殊能力」の中には、ある程度まで科学で解明されてきたものもあるが、まだまだ全部を解明するまでには至っていない。
香澄は、自分のことを分かってはいるが、そのことを自分で信じられなかった。他の人のことよりも、自分のことがよく分かるなどということは、錯覚だと思っていた。自分のことを分かったつもりでいても、他の人には決して話そうとはしない。だから、まわりとあまり調和することができないでいたのである。
香澄には、他の人との話題性もなかった。二十歳代の女の子の会話がどんなものなのかというのも、あまり意識していない。
そんな香澄に共鳴できる相手は、沙織が最初だった。
香澄は元々、自分が教師になりたいと思っていただけに、自分の考えを話したり、会話は苦手ではなかった。ただ、発想が他の人と違ったりすることで、自分から避けていたところがあった。
自分と同じような考えを持っていて、合うと思った人が見つかれば、会話は決して難しいものになるわけではない。他の人がしているような他愛もない話から、教師として、教え子に諭す話し方も、身についていた。
――一体、どこで身についたんだろう?
と、自分でもビックリするくらいに「いい先生」になっている。沙織と一緒にいる間は自分が、
「生きているんだ」
という感覚を取り戻せる時であった。普段は、一人でいる時は、嫌ではないが、生きているという感覚から遠ざかっていたような気がした。沙織と一緒にいる時の香澄は、一種の気分転換をしているものだと思うようになっていた。
生きていることが気分転換というのもおかしな感覚なのかも知れない。それでも、普段の自分でいいと思っていた。生きているという感覚を味わいたいだけのために、沙織以外の人と一緒にいたいとは思わない。もし、一緒にいたとして、沙織と一緒にいる時に感じた「生きている」という感覚を持つことはできないことだろう。
香澄は、「生きる」ということに、執着しているわけではなかった。
――私はいつ死んでもいいんだ――
というくらいにまで思っていた。中学、高校時代は特にそう思っていた。
別に誰かに苛められたり、毎日逃げ出したいような苦痛に苛まれていたわけではないが、生きていることの意味が分からない以上、生きていても死んでからも、あまり変わらないと感じていたのだ。
義之サイボーグを好きになってからでも、沙織という共鳴者を得てからでも、その気持ちにあまり変わりはなかった。
――この人たちがいるから、死にたくない――
と思ったり、
――死ぬのが怖い――
と思ったりしたこともない。ただ、もし、本当に死というのを目の前にしたら、
――恐怖で身体が動かなくなるかも知れない――
と感じた。
それは実際に感じていることと、身体が受ける反応では、かなり違いがあるのだと思っているからだ。そのことに対しては、
「当たらすとも、遠からじ」
と、言ったところであろうか。
「死を恐れない」
というのは、子供の頃は、
「勇気のいることだ」
と思っていた。だが、今の香澄は、勇気があるから死を恐れていないわけではない。生きることに疲れているわけでもない。しいて言えば、
「死ぬことが怖くないだけだ」
ということになるのであろうか。それはきっと、まだ死んだことがないから言えることであって、そういう意味では、他の人が感じている死に対しての恐怖は、
「死んだらどうなるか」
ということが分からないことへの恐怖なのだろうと感じる。
それこそ、人のことは分かるということなのだろう。その感覚は、何も「死」というものだけに限ったものではない。「死」を目の前にすると、「生きる」ということを一緒に考えないようにしている。それは、「生」と「死」が絶対に一緒にならない領域で支配されていることの証拠であり、逆に「死」を意識すると、「生」を意識しないようにするものなのかも知れない。
香澄が、
――「死」を怖くない――
というのは、その時に「生」を一緒に考えていないからではないだろうか。一緒に考えてしまうと、急に臆病になり、我に返ってしまって、「死」について考えることをしばらくできなくなってしまうほどになってしまうことだろう。
香澄は、死んでからのことをほとんど考えたことはなかったが、ある日急に考えるようになった。
それは、彼が死んだという話を聞く前のことで、義之サイボーグがいなくなってから少ししてからだった。
つまり、香澄に影響を与えた二人の行動が、香澄に死を意識させたというわけでもないようだ。
香澄が意識したものは、死というものが、香澄にとってどういうものなのかというよりも、死というものが、漠然とどういうものなのかという考えだった。
――自分にとって――
などという考えは、香澄にとっては「余計なこと」のように思え、考えたとしても、すぐに考えるのをやめていたに違いない。
それでも、
「死んだらどうなるのか?」
という発想が最初にやってくる。
宗教などでは、極楽浄土や暗黒の地獄などの発想があるようだが、香澄の中では、信じられないという思いが強かった。
死んでも、同じような世界で生き返るというイメージを抱いていた。
しかし、その世界で生き返るのは人間とは限らない。まったく違うものに生まれ変わることになるだろう。
そして、死んでから行く世界で、また死んでしまったら、今度はまた別の世界で生まれ変わる、そこは、どんな世界なのだろう?
今いる自分が死んでしまえば、同じ時代の同じ時間の違う世界で生き返る。そして、その世界で死ねば、今度は、また違う世界の同じ時間に生まれ変わると考えれば、まるでその世界は、
――パラレルワールドの綱渡り――
のようなものに見えてくる。
それは、この世界に人間として生まれたことが「偶然」であるということになり、偶然であれば、
――死を迎えたとしても、怖がることはない――
と、言えるだろう。
それは、死を恐れないための勝手な妄想なのかも知れない。
ただ、そんな考えが頭を擡げるということは、死が近づいたことの表れなのかも知れないと感じ、それまでに、死について考えたことがなかったからだ。
今までに少しでも死について考えたことがあれば、それほど意識しないことなのだろうが、初めて考えることが、突き詰めれば、
――死を恐れないための勝手な妄想だ――
と感じたのだから、
――死が近い――
と感じたとしても、不思議なことではない。
自分にとって近い世界は、次の世界の「死」を迎えた世界。いわゆるパラレルワールドであって、自分の子孫、つまり義之の時代ではない。
――この世界に未練を感じなくなったら、おそらく、その時は自分の死を迎える時なんだわ――
突然襲ってくる死でもない限り、その考えが当て嵌まる気がした。寿命と呼ばれるものを全うした場合はもちろん、病気などで死んでしまう場合も、きっと死の刹那には、この世に未練はないんだろうと思った。そうでなければ、完全な死は訪れず、この世を中途半端な形で彷徨うのではないかという考えは、他の人の発想と同じものであった。
本能を持った動物は、自分の死期が分かるというが、本能で悟ることができるというのも、一種の知能があるからではないかと思う。そう思うと、彼らの中には、前世が人間だったものも少なくはないだろう。
ただ、これはあくまでも勝手な妄想。
――死が怖くない――
と言えばウソになる。
死を目の前にして、自分がどんな心境になっているのかと思うと、あまり考えたくないことだった。
彼が自殺したという話を聞いて、ショックを隠せなかったのは、この発想を引きづっていたからだ。それでも、時間というのは冷酷に流れていくもので、数日もすれば、死への恐怖も薄れていき、驚くほど、彼の記憶がスーと消えていたのだ。
――彼は、私にとって何だったんだろう?
という思いを抱いてみたが、考えてみれば、会話が多かったわけでもない。一緒にいた時期のことを思い出そうとしても、なぜか思い出せない。彼は、すでに香澄にとって、「過去の人」になっていたのだ。
――もし、思い出すとすれば、私が死ぬ時かしらね――
死を迎えると、それまでの人生が走馬灯のようによみがえってくるというが、本当だろうか?
香澄にとって、それはありがたくない発想だった。
それまでの人生がどれほどのものだったのか、考えただけでは想像もつかない。それが走馬灯となってよみがえってくるというのだから、どれほどの長さなのか想像もできないだろう。
――そんなに長い間、「死」と直面していなければいけないなんて耐えられない――
と、感じた。
ただ、走馬灯を見ているうちに、死に対しての感覚がマヒしてくるのかも知れないと思った。
だが、その時間を経なければ、次の世界に行くことができないのだとすれば、どうだろう?
この世に未練が残っていれば、見えてきた走馬灯を見ていなければならないのは、苦痛でしかない。
――いい思い出と、嫌な思い出を見ている時、どっちが自分にとって辛いと感じるようになるんだろう?
未練が残っているのなら、その思い出は「いい思い出」の場合が多いだろう。そうなると、
――いい思い出を見せられる方が辛い――
と感じるに違いない。
だが、未練が残っていなければ、走馬灯は逆に邪魔でしかない。
――さっさと、この世とおさらばしたい――
というくらいに感じることだろう。
――彼の場合はどうだったのだろう?
彼は自殺したと言っても、未練があったに違いない。理由はやはり余命いくばくかしかない自分に対して、
「世を儚んで」
ということになるのだろうか。
香澄は、思い出すこともなかった彼が、何を考えていたのかということだけは意識していた。それは、
――彼のことを思い出す――
という考えの外のことだと思っている。
義之本人は、そんな香澄の前に現れた。
義之には、香澄が「死」を意識していることは分かっていた。実は、未来で開発されたアイテムを、こちらの時代に持ち込んでいた。それは、相手の心を察知するというもので、まだ試作品だった。
本来であれば、未来のものを過去に持ってくるのは禁止されていたが、試作品ということで、問題ないと判断した義之の発想だった。
ただ、この機械の効果は、義之の時代の人間に限定されていた。
いや、限定されていたわけではなく、あくまでも、自分たちの時代の人間でしか効果はテストされていない。要するに、
「結果は保証できない」
というわけだ。
それでも、義之は香澄に試してみた。
それは、香澄の性格が、この時代の人間よりも、義之の時代の人間に近いという思いがあったからだ。その情報は、サイボーグから送られてきた香澄のデータと、義之本人が調べた香澄の残存していた数少ない「過去」とを総合的に評価した結果だった。
義之の意識は、香澄よりも沙織に変わっていったのは、沙織に最初に会ったからだ。もし、最初に香澄に会っていれば、どうだったか分からない。
ただ、香澄に会って、義之は彼女の考えを察知していたが、次第についていけなくなる自分に気が付いた。
それを最初に感じたのが、香澄が考えている「死」についての発想だった。
そして、彼女がどのようにこれから自殺に向かって進んでいくのか、いろいろと考えるようになった。香澄が自殺したのは事実だし、それからどうなったのかというのは、変えようのない歴史が証明していた。
義之は、香澄の「死」に対しての発想に、途中からついていけなくはなっていたが、香澄の考え方というのは、義之が考えていることに、かなり近いものだった。ただ、あまりにも近すぎて、それでも交わることのない二つの考えは、平行線であることに気付く。もしどこかで交わることがあるとすれば、それは、香澄が死を迎えた時ではないだろうか。
香澄のような考え方をする人は、この時代には、まずいないだろう。しかし、義之の時代になると、香澄の考え方も決して特異なものではないという発想が生まれた。
きっと、未曾有の戦争があったことで、人間の発想が変わってきたからだろう。義之に至っては、香澄の時代と自分たちの時代は、
「本当に繋がっているのだろうか?」
という疑念を抱くほどだった。
一度滅んだ文明だという意識があるからで、
「生き残った人間の意義はどこにあるのか?」
という発想が、義之の時代でも、永遠のテーマとして、受け継がれていたのだ。
義之は、香澄と一緒にいた時期は少なかった。それは、香澄が自分のことを、すぐにサイボーグの自分ではないことを察知し、さらに、自分が本当に意識したのは人間の義之ではなく、サイボーグの義之であることを自覚したからだった。
義之は、香澄の顔を見ていると、
――本当にこの人は自分の先祖なのだろうか?
と思うようになった。
沙織に対しては、紛れもなく自分の先祖だということを悟ったのだが、自分の先祖としての香澄は、あくまでも沙織の中に入ってからのことであって、目の前にいる香澄ではないということになるのだろう。
義之が知っている二人の運命、今目の前にいる香澄を見ていると、
――どこかが違っているのではないだろうか?
という発想が浮かんできた。
その根拠はない。ただの発想でしかないのだが、見ているうちに、本当に香澄は自殺を試みるようになるのか信じられなくなってきた。
確かに、「死」について意識している。恐怖を感じないようにしようという意志も感じられる。それは、死を目の前にした人が感じることと変わりはない。状況から見ると、香澄は歴史が証明している通り、自殺することになるだろう。
――だが、何かが違う――
それが、義之サイボーグの存在であることを、義之本人には分からなかった。
――サイボーグを送り込んだのは、間違いだったかも知れない――
という発想は、香澄を見てから感じるようになった。
それは、香澄がサイボーグを、サイボーグは香澄をそれぞれ意識するようになったからに違いないのだが、その気持ちの微妙なずれが、香澄の中の悲劇を呼び起こしているように感じた。
――この二人の想い、本当は限りなく近いだけで、絶対に交わることなんてないのかも知れないわ――
それなら、まだ「片想い」の方が救われる。
すぐそばに存在を感じながら、決して触れることのない距離、そして次第に香澄の中には彼以外のものが見えなくなり、暗黒の世界を自分の中で創作してしまわないと気が済まなくなってくるのだ。
香澄は、自分の中に流れている「真っ赤な血」を意識するようになった。
それは、義之サイボーグがいなくなってからしばらくして、包丁で指を切った時のことだった。
かすっただけだったが、その瞬間に血が出てきたわけではなく、少ししてから、玉のようになった血が指から浮かんできた。表面張力で、綺麗な球になっていたが、その色は、今まで出そうと思っても出なかった色だった。
香澄は、「赤」という色が昔から好きだった。
色彩に興味を感じるようになったのは、元々好きだった「赤」を、他の色が際立ててくれるのを感じたからだった。
そのことは、誰にも話したこともないし、これからも話す気はないと思っていた。しかし、そのことを知っているのが二人いることに、香澄は気付かない。
一人は、相手の思いを感じるアイテムを持っている義之本人と、そしてもう一人は、他ならぬ、義之サイボーグの二人だけだったのだ。
サイボーグが、自分の心を分かっているかも知れないとは思っていたが、まさか、義之本人が知っているとは思わなかった。だから、義之本人に見つめられた時、理由は分からないが、「真っ赤な血」を意識するようになったのだ。
真っ赤な色には、子供の頃から恐怖があったはずだ。小さい頃、友達の家に遊びに行った帰りに、偶然見かけた交通事故。国道での、バイクと車の出会いがしらの事故だったのだが、最初は何があったのか知らずに、人だかりができているのを見て、好奇心から近づいていった。
子供の頃は好奇心旺盛だった。今も好奇心は強いが、興味本位だけで、迂闊に飛び込んでいかなくなった。それがいつ変わったかというと、この時だったのかも知れない。
あれは小学五年生くらいの頃だっただろう。それはハッキリとしている。人だかりを少し強引に押しのけるようにして前に進むことができた。それは、あまりにも悲惨な状況に、見てしまった人が後ずさりしたからだったのだろう。子供の香澄にはそのあたりの事情は分かっていなかったので、
「しめた」
とばかりに、前に進み出たのだ。
見た瞬間は、何が起こっているのか分からなかった。分からなかったが、背中がゾクッとして、背筋が伸びて、一度大きく、肩を上げ下げしたのを覚えている。息をのみ込みながら、口はバカみたいに開いていたかも知れない。我に返った時に最初に感じたのが、大きく開いている口だったからである。
その時、身体には何も感じなかった。まわりの声もざわめきも、籠ってしか聞こえなかった。
「見た瞬間、身体を動かすことができなかった」
と、恐怖を味わった人が、味わった瞬間のことを思い出して、よく言っている言葉だが、香澄は、その前に感じたことまで覚えている。
他の人が、香澄が感じたのと同じことを感じていないだけなのかも知れないが、それは覚えていないというよりも、忘れてしまったと思っているからだろう。
覚えていないという言葉と忘れてしまったという言葉では、同じように聞こえるが、ニュアンスが違っているように思う。覚えていないという方が、まだ思い出せるような気がする分、曖昧な記憶に思えてくるのは、香澄だけだろうか。
その時に見た光景で覚えているのは、真っ赤な色の鮮血が、放射状に飛び散っていたことだ。どす黒さを最初に感じたにも関わらず、次第に光って見えてきたのはなぜだろう?
時間が経つにつれて、普通なら色褪せてくるはずなのに、色褪せるどころか、鮮明に赤い色を鼓舞しているかのようだった。
そう感じた途端、複数の臭いが漂ってくるのも感じた。一つは、その時から少し前に始まった生理を思い起させるものだった。思わず、吐き気を催してきたが、まわりからは、状況を見ただけの判断に見えるに違いない。
そしてもう一つは、土の匂いだった。
ケガをした時、ケガをする前に、臭いを感じることがあったが、その臭いに似ていた。その臭いとは、鼻に抜けるような感覚だった。土の匂いというよりも、埃をそのまま吸い込んだような感覚に違いないが、その感覚は今でも時々あり、雨が降ってきそうな時などに、雨の前兆として感じることがあったのだ。
バイクに乗っていたのは青年だった。グレイのつなぎを着ている上に、ヘルメットは吹っ飛んでいて、顔が見えていた。
口からはおびただしい血を吐いていて、目はあらぬ方向を見ている。
カッと見開いた目は、あらぬ方向を見ているくせに、どこに逃げてもこちらを向いているような錯覚を覚えたのが印象的だった。
「ああいうのを、断末魔の表情っていうのかな?」
と、後ろから誰とも知らぬ声が聞こえたが、誰だか確かめられなかった。倒れている青年から目を離すことができなくなっていて、後ろを振り返ることがしばらくはできなかったのだ。
初めて聞いた「断末魔」という言葉、その言葉もしばらく忘れることができなかった。
「見るんじゃなかった」
自分の心がそう叫んでいたが、もちろん、声になるわけもない。さっきの断末魔という言葉を発した人は、その時の香澄とは逆だったのかも知れない。
本当は、声に出すつもりなどなかったのに、思わず口から洩れてしまったということだってありえることだというのは、後になり冷静になると、分かってきたことだった。
その時は、断末魔の表情の恐ろしさだけが、そのまま忘れられないんだろうと思っていたが、実際には、それよりも、その時に感じた臭いと、真っ赤な鮮血だった。特に色に関しては、恐ろしさからか、その日の夢に出てきたが、色などあるはずのない夢の中で、唯一、真っ赤な鮮血だけが、鮮やかだったという意識を持ったまま、目を覚ましたからだった。
――どうして、色と臭いだけが、印象に残るのだろう?
そこに五感というものが、特殊能力を引き出すというところに繋がってくることに気が付いた最初だということを、その時はまだ分からなかった。
夢の中で色を感じたのは、その時が最初というわけではなかった。
――夢の中で色を感じるはずはない――
という考えは、ずっと昔から持っていた。実際にほとんどの夢で、色を感じたことなどなかったからだ。
だが、夢に見た内容はおろか、
「色を覚えている」
などということは、分かるはずないと思っていた。
夢というのは、目が覚めるにしたがって、忘れていくものだという意識が強いからであった。
色を覚えているということは、
――見た夢に、何か忘れられない思いがあるのか、それとも、色そのものに、インパクトが強く、意識として残ってしまったかの、どちらかなんじゃないかな?
と、感じていた。
夢で見たものは、
――忘れてしまったわけではなく、思い出せない部類に入る――
と思っている。
忘れてしまったのであれば、夢を見たという意識すらないのではないかと感じるからだ。
夢ということであれば、香澄は義之サイボーグの夢を何度か見た。付き合った男性の夢を見ることはなかったのに、なぜサイボーグの彼のことがそれほど気になったのか、自分でも理解に苦しむ香澄だった。
夢の内容は、ちょっと人に言えるような内容ではなかった。
――相手はサイボーグなのに――
実際に、直接本人から、
「俺はサイボーグだ」
という言葉を聞いたわけではなかった。
しかし、夢の中での彼は、面と向かって、
「俺は、サイボーグだ」
といい、
「サイボーグだと分かっていて、君のことが好きになった。君は、俺のことをどう思ってくれるんだい?」
というと、
「私もあなたのことが好きよ」
と、答えた。
しかし、その言葉が彼には届いていない。
「えっ、何?」
と、聞き返してくるので、再度答えるが、やはり聞こえないようだ。
最初は、香澄も自分の喋っている声を自分で感じることができた。喉の震え、そして、口の中の震え、明らかに声として、表に出ていたものだ。
だが、彼が何度も聞き返してきて、何度もそれに答えているうちに、自分の声を感じなくなった。喉の震え、口の震え、そして、目の前の空気が微動だにしていないのを、肌で感じていた。
――どうしてなの?
と、思っているうちに、今度は、彼の声が聞こえなくなってくる。口は明らかに動ているが、空気の振動は感じない。まるで真空状態にいるかのようではないか。
そう思っていると、今度はまわりの空気が薄くなってくるのを感じた。
空気が薄くなってきているにも関わらず、息苦しくないのは、息苦しさよりも、もっと感じなければいけないものがあって、そちらに集中しているからなのかも知れない。それだけ、自分で考えていると思っていることが虚空を掴んでいるような感覚に陥ってしまっていて、
――普段なら、掴むことなどできるはずのない空気を、掴むことができるようになっているのかも知れない――
と、感じた。
――普段は、形になっていないものを、夢の中では形のあるものとして掴むことができる。つまりは、「夢の中では掴めないものはない」と思ってもいいのかしら?
と、考えるようになった。
それは、義之サイボーグの夢に限ったことではないが、色に関してだけは、他の人が夢に出てきた時とは違っていた。
――そういえば、私の夢には、複数の人が出てきたことってないわ――
子供の頃に一度、同じ疑問を感じたことがあったが、
――自分だけじゃなく、皆同じなんじゃないかしら?
と思うことで、納得していたが、大人になるにつれて、
――どこかおかしい――
と思うようになっていた。
大人になるにつれて、子供の時に、
――それが当然のことなんだ――
と思っていたことが、
――実は違った――
と思うようになったことも少なくない。
夢についてもそうだったし、色についても、似たようなことがあった。
高校の時に、通学のために朝出かけようとした時に、綺麗な虹が出ているのを見た。歩きながら虹を見上げながら歩いていたが、まわりは、どす黒い雲に覆われた中での虹だったので、本当は綺麗な虹だとは言い難いのだが、後から思い出すと、虹のまわりは雲一つない真っ青な空だったという記憶しか残っていなかった。虹があまりにも綺麗だったために、まわりがどんなに曇天であっても、綺麗な晴天だという、
――歪んだ記憶――
が意識して格納されてしまったに違いない。
「人間の記憶なんて、曖昧なものなんだ」
と言えなくもない。
それは、きっと記憶として残そうと思った時、自分を納得させるものでなければ、意識が記憶の格納を許さないようにできているのではないだろうか。
もちろん、それが色にだけ言えるわけではないが、香澄のように色彩感覚に自分の存在意義すら感じ始めていた香澄にとって、自分を納得させることは大切なことだった。
義之は、香澄を見ていて、そのことが分かってきた。
香澄は、本当は自分をあまり隠そうとするタイプではない。一人でいることが多いので、
まわりからは、
「何を考えているのか分からない」
と思われがちだが、実はそうではない。
元々、不器用な香澄は、隠そうとしないわけではなく、隠すことができない性格だと言った方が正解だろう。
香澄にとって、付き合っていた男性が自殺してしまったことはショックではあったが、自分の人生の中での、通過点でしかなかった。
彼が死んでから二か月ほどは、さすかに心の中にポッカリと穴が空いたような気がしていたが、それも、急に気持ちが冷めてきたように、普段の香澄に戻っていた。
絵を描くことをやめていたのも、すぐに再開し、
――どうして、描くことをやめてしまっていたのかしら?
と、感じた。
やめている時期は、再開しようという意識はなく、それが心の中にポッカリと穴を開けていたのだろう。絵を再開することによって、ポッカリと空いていた穴が、一気に埋まったのだ。香澄にとって絵を描くことは、それだけ大きな意義があったのだ。
――ここまで絵を描くことが大切だったなんて――
この感覚は、忘れていたわけではなく、初めて感じたことに思えてならなかった。
では、今まで香澄は絵を描く時、漠然と描いていたということなのだろうか?
いや、そうではない。絵を描き上げた時の充実感は確かに大きなものだった。それを感じたいために、絵を描いていた。充実感を味わっている時、
――これが自分の存在意義だ――
と思っていたのも間違いない。
やめている時期に、いつも感じていた色があった。それは、真っ赤な色で、小学生の頃に見た、交通事故を彷彿させるものだった。
そのどす黒さだけが印象に残っていたつもりだったが、思い出す時は、鮮やかな鮮血だった。
元々、香澄は赤という色が大好きだった。今でも大好きなのだが、その大好きな赤い色と、小学生の頃に見た真っ赤な色はよく似ていた。鮮血のイメージがなければ、文句なしに好きな色だったはずなのに、どうしても、どす黒い部分が頭の中に残ってしまって、それが記憶に封印され、普段は表に出てくることはないが、ふとしたことで表に出てくることがある。
――夢に出てきたこともあるな――
とも感じた。
もちろん、
――夢の中で色を感じるなんてことはない――
という意識を持っているのにである。
香澄が好きな色は、原色が多い。赤だけではなく、青も好きだし、紫のような色も好きだった。
ただ、赤にだけは、ずっと小さい頃から好きだという思いを持っていても、その時々で好きだという感覚に微妙な違いがあった。
小学生の頃に見た事故で、赤い色にショックを受けもした。その時に初めて、
――そうだ。赤というのは血の色でもあるんだわ――
と、認識を改めさせられたのを思い出した。
それに、赤という色は他の色に比べて、インパクトが強く、攻撃的な感覚を受ける。香澄が描く絵も、赤が基調のものが多い。それは風景画であっても同じことで、真っ青な空を、真っ赤に染めるような絵も描いたことがあった。
「小説にだって、ノンフィクション、フィクションとあるんだから、絵にだって、見たモノを正直に描く必要はないんじゃないのかしら?」
と、友達と話をした時、
「それはそうだけど、見た目というものもあるでしょう?」
と言われて、
「見た目? そんなに私の絵って、刺激的かしら?」
「そりゃあ、これだけ空が真っ赤なら、刺激的でしょう」
「私はそうは思わないわ。どうして皆、赤い色をそんなに悪いイメージで見るのかしら? 私は、赤い色で自分の気持ちを表現しようと思っているの。悪いことなのかしら?」
「そんなことはないけど、一般受けはしないわね」
「それでもいいの。別に絵描きになるつもりはないから。私は自分で納得できればそれでいいのよ」
少しムキになっていたようだが、相手はあくまで冷静だった。
「普通なら、相手にムキになられると、こっちもムキになりそうなんだけど、香澄が相手だと、ムキになるような感じはしないのよ。不思議なことなんだけどね」
と言って笑っていた。
「私が自分で納得したいと思っていることを分かってくれているからかな?」
というと、
「そうかも知れないわね」
という返事が返ってきた。
「それとね」
友達は、さらに続ける。
「あなたの絵には、どこか『紙一重』のところがあるのよ」
「どういうことなの?」
「見る角度によって、全然違う感覚になるというのか、たとえば赤い色一つをとってもそうなんだけど。情熱的なところと、冷徹なところが見えるのね。まるで『燃えない灼熱』という表現が合っているのかも知れないわ」
そんなことを言われたのは初めてだった。
その時に話をしていたのは、大学の同級生で、彼女も教師を目指していた。彼女は、高校の頃からの付き合いで、自分が教師になろうと思った気持ちに、さらに拍車を掛けたのが、彼女の存在だったのだ。
「『天国と地獄』のように、紙一重なのかも知れないわ」
「『天国と地獄』が紙一重だっていうの?」
「ええ、昼と夜とが紙一重のように、きっと天国と地獄も紙一重だと、私は思うのよ」
彼女の発想は突飛に思えたが、その時には理解できなくても、頭の中に残っているので、一人になって再度考えると、さらに考えが進み、納得できるまでになっていくのだった。
昼と夜とが紙一重だというのは、香澄にも理解できそうだった。ただ、その間に朝や夕方があるのだが、香澄は、朝と夕方は、昼と夜の間にあるものではないと思うようになっていた。
つまり、昼と夜とが紙一重なら、朝と夕方も紙一重ではないかと思うのだ。
香澄にとって、夕方の方が神秘的で好きだった。
ただ、時々体調を崩すのは夕方の時間が多く、夕方には、何か目に見えない魔力のようなものがあるのではないかと思っていた。
――夕方は、密かなエネルギーを秘めているようだけど、実は、夕方という時間帯だけでは何も起こすことはできないんじゃないのかしら?
夕方の風のない時間帯を「夕凪」といい、魔物に一番遭遇する時間帯だと言われ、「逢魔が時」という言葉もあるくらいだ。
――ということは、夕方のエネルギーは、まだ見ぬ魔物によって与えられるものではないか?
という考えが、香澄の中に生まれてきた。
香澄は、魔物や魑魅魍魎を信じる方ではなかったが、夕方の時間帯を考えると、魔物の存在抜きには納得できないような気がしたからだ。
そう考えると、世の中には、人間の力だけでは納得できない何かが起こっているのだとすれば、そこに目に見えない力が働いていると考えるのが自然である。その目に見えない力を総称して、
「魔物」
という言葉で言い表すのなら、魔物の存在を信じないわけにはいかない。それは自分の普段からの考えに完全否定に繋がるからだ。
紙一重という意味では、こちらの世界と、魔物の世界も紙一重で、その入り口があるとすれば「夕凪の時間」、つまりはその時間の存在を信じなければ、永遠に納得できないということである。
――永遠に納得できない?
それが紙一重であればあるほど、
――どこまで行っても交わることのない平行線――
であり、普通の時間も、夕凪という時間も、どちらも直線であることを示していた。なぜなら、平行線で、距離は紙一重だからである。
少しでも湾曲していれば、同時間で進行しているものであれば、必ず距離や隙間ができるはずだからである。
「そうだわ。平行線の定義というのは、二本の直線が互いに同じ距離を保って、永遠に交わることのないものだ」
ということなのではないだろうか。
香澄は、意識が堂々巡りを繰り返しているのを感じたが、それはその時に、虹を見たことを思い出したからだ。
――あれは朝の時間だったけど、見えた虹は湾曲していたわ――
直線の虹などというのは見たことがない。
ということは、虹に描かれる七色の色の帯は、それぞれの色の長さは全部違っていることを意味している。
もっとも、人工のものではなく、自然現象なのだから、色の長さを合わせる必要などあるはずもない。
それでも長さが合っているのではないかと思うのは、虹の両端の境目の見分けが付かないからだ。
――平行線と堂々巡り――
それぞれ、まったく違ったもののように感じる。
なぜなら、それぞれに個別でのインパクトがあまりにも大きいからだ。
ただ、そこに、
――紙一重――
という言葉が入り込んでくると、また趣が変わってくる。
平行線は、ニアミスを起こせば、完全に紙一重である。
堂々巡りは、逆に直線ではありえないこと、つまりは、平行線ではありえないという発想から、逆説としてパラドックスが存在しているのだろう。
タイムマシンの開発者から、
「堂々巡りと、平行線の発想は、必須だったな」
という話を聞いたことがあった。
最初は何を言っているのか意味が分からなかったが、こうやって考えると、それぞれに紙一重というキーワードを使って、それぞれに意味があるということが分かってきたのだった。
さらに香澄には、「色彩感覚」というものが、それぞれの言葉と影響があるように思えてならなかった。そのカギを握るものとして、虹という言葉がキーワードとして浮かび上がってくるのだった。
義之は、香澄の頭の中を解読していくうちに、自分の意識が混乱してくるのを感じた。
自分の発想にないものを、強引に相手の考えを頭に入れて、計算しようというのである。混乱するのも仕方がない。
「だけど、一つの糸がほぐれると、後は芋づる式に、謎がほどけてくるんじゃないんだろうか?」
と考えるようになった。
「ということは、人間の頭の中には、無数の紐があって、それがどこに繋がっているか分からない状態になっているということなのかな?」
そう思うと、一つが解決すると、後が解決してくるのも納得できる。すべてが理屈で繋がっているわけではないだろうが、一つの理屈が繋がると、ある程度まで、少々のほつれなら、解消できるというものだ。
沙織に出会う前の香澄は、沙織が知っている香澄とはイメージが違っていた。沙織の方も、香澄が知っている沙織と雰囲気の違う女の子だったお互いに出会ったことで、変わってしまった。それは歩み寄ってきたようにも見えたが、単純にそれだけではないような気がする。そこに、義之本人と、義之サイボーグが関わっていることを知っているのは、誰もいないだろう。
香澄も沙織も、変わってしまったのは、お互いに刺激し合ったからではない。他からの影響があったからなのだが、その影響の元になったのは、義之サイボーグだった。
義之本人には、二人を変えることはできなかった。生身の人間が過去を変えることはできないという掟が存在するが、その掟を守るために義之の時代にはないが、さらに未来には、
「携わった人間の性格を変えないで済むアイテム」
が、売られていた。その時はタイムマシンも、
「一家に一台」
と言われるほど、テレビやパソコンが普及した時のイメージがあった。
だが、もう一つのアイテムとして、
「変えてしまった過去を元に戻す力が備わったアイテム」
も売られていた。
しかし、これには制限があり、時間的な制限、効き目の制限などがあった。
時間的な制限は、
「どれくらい前の過去を元に戻せるか」
というもので、効き目の制限は、
「どれくらいの間、効き目があるか」
ということである。
つまりは、性格を変えないで済むアイテムと、過去を元に戻すアイテムをうまく併用しない限り、うまくはいかないということだ。そこには制御の力が不可欠で、いかに運用するかは、かなり難しい。しかも、人に迷惑を掛けることは、悪質な犯罪として規制も厳しい。未来に行って、それを購入することはできても、いかに運用できるか、アイテムだけに頼っていては、絶対にうまくいかないようになっていた。
それでも、何とか手に入れ、義之本人が及ぼしたことを、過去に引きづらないようにした。ただ、
「義之が及ぼした」
という前提がないだけで、結果的には、香澄も沙織も変わってしまっていたのだ。
香澄が自殺したのは、そこに起因しているのかも知れない。自殺などする素振りも理由も何もないのに、いきなり自殺したのは、何も知らないまわりよりも、何もかも知っているはずの義之を驚かせた。自殺したことよりも、理由が見つからないことにである。
当然、義之は自分の存在が、香澄に影響を及ぼさないようにしていたはずだから、自分が現れたことが原因ではないと思っている。
しかし、逆に言えば、
「起こってしまったことは変えられない」
という意味で、自殺は止められない事実だったのだろう。
というよりも、自殺を止めれば過去が変わってしまう。ただその理由が分からないことが不思議で仕方がないのだ。
香澄の自殺の理由を知りたいとまで思ってこちらの時代に来たわけではない。沙織の中に香澄を入れるのは、当時の医学では不可能なはず。それがどのようにして行われたのかを確かめに来たのだ。
――ひょっとすると、俺がしたことなのかも知れない――
という意識も少しはあった。それでも、
――事実は事実として受け止めることが大切だ――
という意識が強かった。
そのためには、ここで起こったことを、一つ一つ丁寧に、観察していく必要がある。
義之が一度沙織の前から姿を消したのは、その事実を見極めるためには、どの時点から見なければいけないかということが重要であることに気が付いたからだ。
しかも、それを見極めるのは極めて難しい。
さらに輪を掛けて問題になってくるのは、一度自分がいた時代を、もう一度見直さなければいけないということだ。
――俺が、同じ時代に二人いていいのだろうか?
いわゆるパラドックスの問題だが、その発想も、
――どの時点に立ち上るか――
という問題が大きなウエイトを占めている。
パラドックスを考えていると、先が見えなくなってくる。それは、堂々巡りを繰り返しているからで、時々、自分が分からなくなる。
義之は、香澄や沙織に比べて、
――優れている存在だ――
と、思いがちだった。
その理由は、未来から来ていることで、
――未来を知っている自分の方が、未来を知らない人たちに比べて優位性がある――
と思うからだ。
優位性というのは、相手より優れているというわけではない。立ち位置として、少し前にいるというだけで、その人との優劣には関係がないからだ。そのことに気付かなかったのは、自分は最初から冷静だと思っていたのだが、本当はそう思いこんでいたことに気付かなかったことだろう。
そしてもう一つ感じたことは、自分たちの時代の人間は、老若男女、ほとんどと言っていいほど、時間や時代に対して興味を持っている。学校で習う科目にもなっていて、ほとんどの生徒が、成績如何にかかわらず、興味を持っていた。
だが、この時代の人たちは、ほとんど誰も時間や時代に関して、興味を持つことはない。一部の学者や、SF小説ファンが読むくらいであって、まだまだSFは妄想の世界でしかない。
それに比べて、義之の時代は、ある程度まで科学で解明されてきたことが多いことで、それが学問としての認知を受け、学生には最初「教養」として始まったことが、すぐに「教育」として、浸透するようになった。
そのこともあって、一気に、時間や時代に対しての研究が加速した。それは歴史や考古学の発展にも寄与していることで、相互関係が生まれ、相乗効果となって、研究者の数も爆発的に増えていった。
さらに、科学の発展も輪を掛けての、研究に拍車を掛けた。
そのおかげで、知名度はグッと上がり、国家予算も研究費用の捻出に、そんな苦労はなくなっていた。
ただ、国立の研究所はそれなりにあるが、民間の研究所はまだまだだった。
研究費用には莫大な費用が掛かり、まだまだ民間ではそこまで費用を捻出できるところは、大企業でも難しかった。
義之は、そこまで大げさな研究所を持っているわけではない。
だが、一通りの研究マシンは持っていて、時代を行き来するくらいのタイムマシンや、元々からのロボット工学の研究には、問題はなかった。
そういう意味では、科学の先端への教養は持っている。
だからこそ余計に、この時代にやってくると、ほとんどの人間、つまりは、時間や時代に興味を持てない人に対して優越感を持つのも無理のないことだと思っている。
――こちらが優越感を感じているのに、向こうは劣等感を感じていないなんて、信じられない――
これも、義之の時代の考え方だ。
こちらが優越感を感じると、それが相手に伝わって、相手はそれなりのリアクションを示す。
相手にも優越感があれば、火に油で、口論になることもあるだろうし、逆に相手が劣等感を感じてしまえば、そこで完全に二人の間の関係は、上下関係に固まってしまう。
それは致し方ないということで、義之の時代の人間は、割りきっている人が、この時代よりもかなりいるようだ。
割り切っているということで、感情が表に出にくい人も多い。優越感がぶつかって口論になっても、すぐにどちらかが妥協する。お互いに、相手を見る目は優れているのも、義之の時代の特徴だ。
どうしても、比較してしまうと、一長一短、どちらの時代の人間がいいというわけではない。優越感を感じてしまうと、そのまま突っ走るのも、ある意味、ありえることではないか。
ただ、サイボーグは少し違った。どちらかというと、香澄の時代の人間に近いのではないかと思った。
それは、サイボーグ本人が感じていることで、義之は、サイボーグがそんなことを思っているなど、想像もしなかった。むしろ、自分の考えを移植しているので、自分に近いと思っていた。
ということは、義之本人には自覚がないが、義之本人も、香澄の時代の人間に近い考えなのかも知れない。
そんなこと、それまで感じたこともなかったはずなのに、どうしてそう思うようになったのか、すぐには分からなかった。
義之にとって、サイボーグは自分の分身というだけではなく、個別に意志を持った独自の個性だと思っている。だから、いくら自分の考え方を移植したとしても、一緒にいる人に影響を受けないとは限らない。
いや、優秀なロボットほど影響を受けるものだろう。そう思うと、義之サイボーグは、優秀なのではないかと思うのだった。
サイボーグの成長のスピードは、義之の考えている以上だった。
それは、相手が香澄だったからなのか、それとも、成長というのは、創造主の思いも及ばぬものなのか、そのどちらでもあるかのように思えた。
義之は、自分の作ったサイボーグに自信を持っている。それは、成長することを前提としているからだが、この時代の人間と親しくなれるという意味で、優秀性を感じていたのである。
自分そっくりに作ったサイボーグだが、決して同じではない。むしろ違っているところの方が多いと思っていた。
サイボーグは、創造主のことを考えることはタブーだと思っていたので、比較したことなどないが、もし、比較してみれば、サイボーグにとって義之は、
――優越感のある相手――
ということになる。
だが、サイボーグは義之について考えないようにしていても、香澄の方が気になっていた。
香澄は、彼をサイボーグだと感じた時から、彼の後ろにいる本人を意識しないわけにはいかなかった。確かにサイボーグを好きになってしまったことに間違いはないが、その後ろにいる誰かを気にしているのも事実だった。
だが、香澄にとって義之本人は、
――遠い存在――
だった。
香澄の感覚として、
――サイボーグはどうしてこんなに近くに感じるのに、他の人は遠く感じるんだろう?
元々、他人とはいつも一線を画しているつもりだったが、なぜサイボーグだけ、一線を画さないのか、香澄は、自分が次第に人間ではなくなっているような錯覚を覚えていたのだ。
堂々巡りを繰り返しているのを、義之も夢に見たことがある。それと同じ夢を、他の人が一度は見ているのだということを、知らなかった。だが、どんな人でもこの夢を見ているのだが、ほとんどの人は意識がない。
なぜなら、
――ほとんどの場合、見た夢を覚えていることはない――
ということだった。
夢を覚えていないという感覚は、サイボーグにはない。何しろ、夢というものを見ることがないからだ。
義之はサイボーグであっても、「睡眠」という概念はある。夜になると眠くなり、睡眠を摂るが、それはあくまでも、
――エネルギーの浪費を防ぐ――
という意味のものだった。
夢を見ることがないとは言え、夢らしきものを感じたことがあった。それは、義之サイボーグが、
――人の心も読めるようになったから――
だと思っていた。
人の心を読めるようになると、人の夢を垣間見ることができる。それは、その人の心理を読むことで、あたかも夢の中を覗いているような感覚に陥るが、だからと言って、夢の中が本当に見えているとは思えなかった。
それは、人間の感覚であって、サイボーグである彼の場合は、
「人の心を読めさえすれば、夢の中にだって入りこむことができるんじゃないか」
とまで考えていた。
人の夢に入り込むことなど不可能なのに、入りこめるような気がするのは、義之本人がそういう研究をしていたからなのかも知れない。
――自分はサイボーグだから、本人よりも優れている――
という発想、それも、元はと言えば、義之本人の潜在意識の中にあるものだ。そう思うと、考え方も堂々巡りを繰り返しているように思う。だが、堂々巡りを繰り返しているとはいえ、少しでも前に進んでいれば、それは、
――進歩する堂々巡りだ――
と言え、その発想が、
――平行線は決して交わることはない――
という発想を覆す考えに行きつくのではないかとも思えた。
義之サイボーグが、香澄の前から姿を消したのは、実はその夢を垣間見てしまったからだった。
彼がどんな夢を見て、その夢に何を感じたのか、それは、彼にしか分からない。
ただ、香澄の目の前から姿を消したのは、夢に感じたことが、自分の想像できる許容範囲を超えたためであることを、彼本人がどこまで自覚していたのか、もし、彼から理由を聞かされたとしても、察することは難しいに違いない。
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