第6話


 キャンプ地から温泉、更に下って行けば目前に絶壁の目下に海岸が見えてきた。

 あの後、早川さんは途中まで一緒に来てくれたが、海岸へは俺一人で行けと言う。そして「晩御飯の支度があるから」と、ベースキャンプへと戻っていった。


 地平線が広がる海。

 太陽に照らされた銀色の世界。濃い潮の匂い。海の匂い。

 日の光を浴びて、白いカモメが大空を思い思いに羽ばたいている。


 その海の中央に、ぽつんと一つ。

 横座りする後ろ姿。

 くびれた腰まで浸かった海水、小麦色の背中。


 カモメは彼女を守る様に周囲を旋回しながら羽ばたき、彼女の人差し指に、肩に、たくさんのカモメが止まっていた。

 伸びた黒髪。微笑む横顔。

 俺は目が潤み、胸が痛んで、苦しくなって、喉が震えて、その名前を叫びたくて堪らなくなって、声をあげた。


「……ありすっ……!!」


 驚いたカモメが一斉に彼女の傍から飛び立った。

 それからゆっくりと、大波をつくりながら振り向いたのは、ありすだった。


 最後に見た時は俺の二倍ほどだったありす。

 その時よりも、とても大きくなっていた。


 今のありすだったら、俺を彼女の手のひらに乗せる事が出来るほどに。


 愛くるしい目。幼い顔立ち。

 その目が信じられないと俺を見つめ、両手を口に当てた。

 それから、ポロポロと目から涙が零れて海に落ちた。


 ……うん、少し日に焼けた様だけど。

 何も変わっていない。

 ありすは何も変わっていないんだ。


「ありすっ……!!」


 俺は想いの丈を声に乗せて、もう一度叫んだ。


「斗真くん!」


 ありすの手が、俺の方に伸びて来た。

 しかし、ハッとしてその手を引っ込め、自分の胸に包むありす。


 ありすはあの日、俺が大きくなった手に触れなかった事に傷ついている。


 俺は、リュックを降ろした。

 それから上着を脱いで、靴を脱ぎ、崖めがけて走り、そのまま海に飛び込んだ。


 穏やかだと思ってた海も、飛び込めば波は強く荒く、ありすに近づこうにも距離はなかなか縮まらない。

 もどかしい。早く、ありすの元へ行きたいのに……!


 すると、目の前に影が出来た。

 見上げれば、ありすの大きな指。

 その指が泳ぐ俺のすぐ傍に静かに沈んだ。

 それから、俺を掬う様に手のひらが上昇する。


 指の隙間から海水が零れ、俺だけが手のひらに残った。

 まだ泣いているありす。


「どう……して? どうして、斗真くんが此処に居るの……?」

「ありすにどうしても会って伝えたい事があって」


 俺は深く息を吸っては吐き、それから一気に思いの丈をありすへ伝える。


「ありす、ごめん。あの日のあの時、俺は最低な態度だった。ありすが一番苦しんでいたのに、俺は自分のことばっかりで。一番苦しいのはありすなのに。俺、あれからずっとありすの事考えていた。……でも、ぶっちゃけて言うと……まだ、すっげえ怖い。ありすと一緒に居て、ありすの症状にちゃんと心から向き合えているか、と言われても自信も全然ない。……また怖気ついて、ありすを深く傷つけてしまうかもしれない。……でも! でも、やっぱり、俺、ありすが好きなんだ。調子良いのは分かっている。何も出来ないし、今だって来たのは良いけれど、俺が出来る事なんて一つもないのは分かっているんだ。でも…………傍に居たい」


 ありすの小指が、俺に伸びて来た。

見上げれば、ありすの泣き崩れている顔。

 俺はその小指に触れ、それから強く抱きしめた。

 ありすの指から伝わる鼓動。

 その熱いぬくもりが、体に甘く痺れた――。

 



 ◆




 ありすは、今日までの事を教えてくれた。


 あの日、あの後ありすは予想通りS病院に運ばれたらしい。ありすの体に起きた現象は当然だが世界初の事象であり――、


 ――最初は下垂体異常から発症する先端巨大症とも思われたが、ありすの体はそれを証明するまでもなく、急速に成長し続けた事で――


 ――それから数日間、ありすは体が急速に巨大化するのが止まらなかった。成長痛は大量の鎮痛剤を投与して耐えられた。しかし巨大化するに従って病室を壊す様になり、更に鎮痛剤も効かなくなり、ありすは痛みに暴れる事が増えた。

 ちょうど、テレビのワイドショーが騒いでいたのもこの時だった。


 ありすの突然変異を究明するチームが作られた。

 進化生態学を専攻する早川博士もその一人だった。


 しかし、他の研究者達はありすの感情は二の次。

 彼女の巨大化した現象を追究するばかりで、彼女の苦しみ……体が巨大化する不安や恐怖を考える人間はそこに居なかった。それを悲しく思った博士は研究チームに抗議し、そこから色々と諍いがあり、結果、早川博士は研究チームと決裂。


 博士はありすの心に寄り添い、彼女の話を聞いた。すると、ありすが大きくなる前に庭にポツンと咲いていた珍しい青色の花が、ありすの願いを叶えてくれたと言うのだ。

 早川博士は俄に信じがたい話だと思いつつ、本土で見かけたことのない……というか、この夕日島にしか咲かない希少種の花「アオユウヒ」がありすの家の庭に咲いていた事に疑問を持つ。


 やがて、隠しきれないほど大きくなったありす。世間からの注目を避けるためと原因究明のため、早川博士達とその協力者と共に、この希少種「アオユウヒ」が咲く夕日島へと国の支援を受けてやって来たそうだ。


 ありすは俺を海から飛び出した岩場に置き、それに四つん這い……猫のポーズで話しかける。これが全裸の体が海に隠れて一番恥ずかしくないからだと。


「早川博士は私のことを理解してくれる助手さん達やお友達をこの島に呼んで、アオユウヒを研究してくれているの。私が元の大きさに戻れるように。あいらやママは昼間の私の話し相手。美津さんは私の夜の話し相手。勅使河原先生は私の主治医なんだよ!」


 昔と同じ、朗らかなありすの声のトーン。

 あの時の様な悲壮感は見えない。

 少しでも希望を見いだせたからだろうか。


「アオユウヒの花って……確か、ヘリで見た青い部分がそうなのかな?」

「凄いのよ。島の至る所に咲いているの」


 ありすがググッと腕を伸ばす。

 すると、たわわな胸がブルンと揺れた。俺は慌てて見ない様に顔を逸らす。

 今だったら俺はあの胸の間に挟まれるな、なんて邪な思いをしつつ。


 ありすの腕が戻ると、その人差し指の先に『アオユウヒ』の花が――ありすの握力で潰れてしまっているが――付いていた。


 その花をマジマジと見つめる。

 ただの円錐形の、朝顔にとてもよく似た花。青臭い一般的な植物の匂い。

 違いは筒の部分が薄橙色で、葉っぱの形も卵型。


「ま、こういうのは、博士達にお任せして。……私たちは今しか出来ない事、しようよ」


「え?」


 肩にもたれた髪を掻き上げるありす。

 その仕草にどきりとする。

 いちいち反応するのも許して欲しい。

 一応、思春期なんで。

 一体、何をしようというのか。


 突如、ありすの手が俺をつかんだ。

 ぐわん、と景色が急上昇する。

 もしかして、本当にありすの胸に挟まって……? と思いきや、ありすの手は胸より高く上がり、俺をありすの肩に降ろした。


 すると、ありすは立ち上がる。

 俺は慌てて彼女の垂れている髪に掴まった。ありすはゆっくり前へ歩き始める。

 島から離れ、どんどんとありすの体は海に沈んでいく、濃い青色が示しているがの様に、底が深くなっている様だ。

 ありすの胸辺りまで海に浸かる場所に来ると、俺を小さな岩場に降ろした。


「泳ごっ! 夏休みは海に行こうって約束していたじゃない」


 そう言い、ありすはスイスイと俺の周りを泳ぎ始めた。しかしありすの平泳ぎによって作られた大波が俺を襲う。


「うわああああああ!!」

「斗真くん!!」


 波に飲まれた俺は、一気に海水に引きずり込まれた。

 ぐるぐると体が回り、水中なのに前後左右上下が分からなくなる。

 一瞬だけその恐ろしい感覚にヒヤリと肝が冷えたが、すぐさま大きな手が俺を水上まで押し上げてくれた。


 ありすの手のひらで、噎せて海水を吐き出した。

 その姿を蒼白な顔で見つめるありす。

 俺は噎せて言葉が出ないが、ありすは自分の大きな体が俺を危険な目に合わせた事に対して、なんて言ったら良いのか困っているようだった。

 だからこそ、今こそ、俺はあの日言えなかった台詞を伝えようと思った。


「だ、大丈夫。……俺、平気だから。ありすだったらどんな姿でも、好きだから」


 そう、ありすが今も昔も、好きだって気持ちは何も変わっていないんだよ、ってこと。

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