第4話
――それから二日間。
俺は意識がなかったらしい。
らしい、というのは、気がつけば近所の病院に入院していて……――ありすと別れた日、仕事から帰ってきた母ちゃんは玄関で倒れている俺を発見し、即救急搬送、即入院。
原因は熱中症。
三日目にはすっかり元気になって、退院。
そして四日目の今。母ちゃんの作る味噌汁の匂いと音で目が覚めて、布団から気怠い身を起こした。
正気に戻れた俺に、あんた働きづめだからだよ!と母ちゃんは笑い、それから俺の肩をポンポンと叩き「あんたの学費くらいは母ちゃんが何とかするからさ、無理しなくていいんだよ!」と見当違いな解釈をしていた。
母ちゃんからしたら、貧乏だから俺が働き過ぎて倒れたと思っていたらしい。俺の肩から離れるその手の薬指に、見かけない美しい銀の指輪を見た。
三日前にはその指に無かったそのリング。
そのせいか、息子が倒れたと言うのに嫌に上機嫌だ。
――父ちゃんを八歳の時に事故で亡くしてから母ちゃんは一人で俺を育ててくれた。それまでだって裕福じゃなかった俺んち。金がなくて、困って、母ちゃんは賃金の良い夜勤の職場に就いた。
だから幼少の頃は寂しくて、独りぼっちの夜を過ごした事も多かった。
母ちゃんが仕事から帰って来ると、母ちゃんに縋っていつも抱きしめて貰った。
誰にも母ちゃんは渡したくなかった。
俺だけの母ちゃんで居て欲しかった。
――でも、俺だってもう分別のつく年齢だ。
母ちゃんは美人だ。そういう人が出来たなら祝福だってしてやりたいと常に思えるくらいには成長した。
……でも、失恋したばっかりの俺には母親とはいえ、祝福する元気がまだ出てこなくて。
だから祝える時までもう少し待っていて。
それから俺はお盆に乗せられたおかゆ入り味噌汁を布団の上で座って食べながら、続きとなる居間で母ちゃんが何気なく見ていた朝のワイドショーを眺めていた。
すると「なにこれー!?」と母ちゃんが声を上げた。改めて見たテレビ画面に、おかゆをすする手が止まった。
『病院に響き渡る謎の呻き声!? 割れた窓ガラス。近隣住民が語る恐怖』
「なにこれ? ホラー映画の番宣?」
母ちゃんは興味津々にリモコンの音量を上げた。
映し出された映像に、胸がドキリと鳴った。
テレビの画面にはモザイクがかかっていたが、見覚えがある。N町にあるS病院だった。この辺りでは一番大きな総合病院だ。
それから近隣に住む人や、通院患者の足元が映し出されて『ここ最近、病院からギシギシと何かが軋む様な嫌な音昼夜響く』『若い女性の呻き声が聞こえて怖い』『昨日は北の病棟のガラスが一気に割れた』など、証言している。
「えー? 実際の話? だとしたら、超ホラーじゃん」
それから、病院前にニュースキャスターが現れ『近隣住民からの苦情を受け入れた病院側は、近日中に原因究明をし、住民が安心して通える病院作りへの体制を整える』と伝えた。
……ありすだ。
ドッドッドという心臓の音が、脳内まで響き渡る。
ありすは……まだ大きくなり続けているのだろうか。
最後に見たありすは、俺の二倍ほどの大きさ。
……あれから四日経った今、彼女は……?
その時、布団の脇に置いてあったスマートフォンが鳴る。
画面を見れば、バイト先の店長からだった。
◆
「桐谷君、ごめんよ、ごめんよ~。病み上がりなのにっ。急にシフトに入って貰ってありがとう……!!」
五十代半ば。ひょろっとした覇気のない店長は俺に何度も頭を下げた。
「いえ、俺も長くお休みしてすみませんでした。もう体調も良いので大丈夫です」
「早川さんも11時には出勤出来るって言っていたから、それまでで良いからね!」
今日は早川さんが家の事情で遅刻する事になったらしい。他のバイト仲間にも連絡したが全滅。ダメ元で俺に電話したらしいのだ。
その日は土曜日で駅前の商店街でお祭りが行われていた。
とにかく客の出入りが多く、仕事をしている間は何も考えなくて良くて、気楽で、俺はあのニュースの後すぐに店長に呼ばれて良かったと心から思った。
きっと家に居たら、ありすの事を考えてしまうから……。
10時も少し回る頃。
早川さんがいつもは束ねている色素の薄い髪を垂らしたまま、出勤して来た。
そして、店長と俺を見るなり深々と頭を下げた。
「店長! 桐谷君! 遅れてすみません!!」
「ああ、お家の方は、大丈夫なの?」
「あ……は、はい」
早川さんは歯切れ悪く返事をする。
それから、俺に帰って良いと店長は言ったのだが、今日の状況を見る限り、お昼は大混雑になりそうだ。
自分から申し出て14時まで延長する事にした。
ひっきりなしにやって来るお客。今日の気温は41度。暑くてドリンクとアイスが大量に売れた。俺と早川さんがレジに集中し、店長は補充に追われる。
忙しさにあっという間にお昼が過ぎ、もうすぐ14時になる頃、やっと店内は落ち着いてきた。
「ありがとう、桐谷くん! もう上がって良いからね!! それからアイス、好きなの一つ選んで食べていって」
店長はお店のアイスを一つ驕ってくれた。
俺はラムネのアイスバーを貰い、バックヤードで口に突っ込んだ。
労働をした体に、アイスは沁みる。
アイスを頬張っているところに、ひょっこりと早川さんがやって来て、顔だけをバックヤードに覗かせた。
「……今日はありがとね」
「あ、いえ」
「体調は良くなったの?」
「はい。おかげさまで。元気です」
「そっか。じゃあ良かった。…………ねえ、桐谷君。余計な話かもしれないけれどさ……この前って何があったの?」
ぽたっとアイスが手に落ちた。
「桐谷君、あの小さな女の子と出て行った後、コンビニに帰って来たのを覚えている? 覚えていないよね? 桐谷くん、心ここにあらず、って感じだったもん」
「……あ、その」
「もしかして、失恋した?」
アイスの水滴が、ひやりと俺の手と心を冷やした。
「……」
「……そっか。ごめん、出過ぎた質問だったね。……でも、桐谷君なら、すぐに新しい彼女出来るよ! 忘れな忘れな!」
忘れな。
なんて酷くて、甘美な言葉なんだろう。
……忘れる事が出来たのなら良かったのに!
忘れたい、忘れてしまいたい。
ありすの存在を綺麗さっぱり忘れてしまいたい。
時間を戻せるならば出会った日。
告白をする彼女と出会わない道を選びたい。
――でも、今の俺にはあの姿を見ても、ありすを恋しいと思う気持ちも確かにあって。
怖いと思う反面、心のどっかが、なんであんなに苦しみ嘆く彼女を見捨てたのかと責め立てる自分もいて。
恐ろしい光景を見て、ビビッて何も出来なかったくせに、今の俺ならば、もう少し優しく出来たんじゃないか?……なんて、未練だけはしっかりとあるなんて……ね。しょうもない。
「それとさ……。私ね、バイト辞めるから」
「え!?」
感傷に浸っていた所で、早川さんの突然の告白に現実に引き戻された。
「私の遅刻の理由よ。旦那が急に転勤! それも東京とは名ばかりの本土から数百キロ離れた不便な離島だって! スーパーもコンビニも無いらしいのよ。私もそこで旦那の手伝いする事になったの」
「じゃあ、バイトはいつまでなんですか?」
「本当にびっくりするぐらい急で。明後日にはもう引っ越し。だから今日まで」
「そんな」
「あーあ、残念。桐谷君、イケメンだから目の保養だったんだんだけどなぁ~!」
なんて冗談交じりの会話を二、三交わし「せっかくだから、連絡先交換しよーよ。離島でもスマホは使えるんだって」と、きっと今後もすることのないだろうなと思いつつ、ライン交換をした。
しかし、それから二週間後。
俺のラインが鳴った。
――早川さんからだった。
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