第3話



「う、ううう……うああぁ……あっ!」


 低く鈍い呻き声。

 辛そうな、痛みに耐える音。

 声と共に、ゴキゴキ、メキメキと何かが裂ける音が部屋中を満たし、俺の耳へと容赦なく入ってくる。


「ぐう……ううう……ああ!」


 俺が入った部屋は淡いピンクと白を基調とした可愛らしい女の子の部屋で。

 目の前に飛び込んだのは、乳白色の木製フレームのベッド。

 そんな可愛いらしい外観と不釣り合いな呻き声。

 花柄ピンクのシーツがこんもりと盛り上がり、その中から恐ろしい音が聞こえてくるのだ。


「うううう……、痛い、痛いよっ……!!」


 俺は息を飲んだ。

 ありすだ。この声は。

 ありすに間違いない。


 そのありすから、バキバキ、ゴキゴキという音が響いている。


「こ、こ……これは……?」


 縋る様に、隣に佇むあいらに尋ねれば、彼女は伏し目がちに呟いた。


「お姉ちゃんが……今朝から急に体が痛み出して……」

「いやこれ、かなりヤバい状態だろ!? 普通、体が痛んでこんな音が出るわけがないじゃないか!早く救急車を呼んで!!」

「お前と会わないと病院に行かないって、ずっと言っているんだよ!!」


「……俺と!?」


「と、斗真……くん……?」


 ベッドの中から、弱々しいありすの声が俺の名を呼んだ。

 自分でもびっくりするほど身が竦んだ。


「あ、あ……うん、俺……だよ」

「と、斗真……くん、来て、くれたんだ……嬉しい……!」


 その間にも、ゴキゴキとありすのベッドの中からは鈍い音は響いている。

 俺は得体の知れない恐怖に、自然と手が震え出す。

 そんな怯える俺を、あいらはじっと見つめていてた。あいらの目は強く俺を見据えている。それは俺を信じている、というよりも、姉を理解して助けて欲しいと訴えているかの様だった。


 俺はあいらの期待に圧されて逃げる事も出来ずに、ありすのベッドに恐る恐る近づいた。

 動揺して気が付かなかったが、ベッドから片足がはみ出している。すらっとした白く綺麗な足。

 

 ――しかし、なんだろうか。

 とても大きく見える。

 俺よりも遥かに大きな足だ。


 俺が盛り上がるシーツに手を掛けると、ビクンッとシーツが揺れて形が変形した。ありすがシーツの中で上半身を起こした様だった。

 はらり、とシーツが床に落ちる。落ちたシーツを追っていた目線が、その中から現れた人間に焦点を当てる。


 そこには、俺をありすがいた。


 長い髪を振り乱し、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに汚れ、体中から汗を吹き出しているありすの姿が。


 ネグリジェの袖は二の腕を圧迫し、今にもはち切れそうになっている。裾は臍までしか隠していない。それより下の衣類はちぎれた物が散乱していた。

 俺は咄嗟に顔を反らした。

 あいらが慌ててありすの下半身にシーツを掛け直した。


 この状況に混乱しつづける俺の思考回路。

 だから、次に出てきた言葉はとても安っぽくて。


「……あ、ありす……どうした……の?」

「わかんないっ……! 今朝から、体がすごく大きくなって……全身、痛くて、痛くて……!」


 分からないとばかりに首を振るありす。

 ぽたりぽたりと大粒の汗がベッドに落ちて滲みる。

 はあぁ、と大きく荒く息を吐くありす。

 それから、あいらと母親に言った。


「……ママ、あいら。桐谷くんと二人に、して」


 母親もあいらも素直に、ありすに従い部屋を出ていく。

 あいらは、俺をジロリと睨みつけて何か言いたげだったが、唇を噛みしめながら、静かに部屋の扉を閉めた。


 二人きりになると、俺は今までに感じた事のない緊張感を味わった。

 その間、ありすはじっと俺を見下ろしていた。

 その強い眼差しに、俺は怖くて……どうしたら良いのか分からなくて、目を合わせる事が出来なかった。


 ――すると、ありすから感じる気配が和らぎ、ふっと笑った気がした。


「……怖い?」


「――えっ?」

「私、こんなに不気味に大きくなって……怖いでしょ?」

「…………!」


 そんな事ない! と即座に否定できなかった。

 事実、俺はありすを怖いと思っていたのだから。


 間の悪い空気が流れ始めた時、やっと「……そんな事は無い」と言いかけ、それを遮る様にありすは低く笑った。


「当たり前、だよね。……気持ち悪いもん。私だって、斗真くんが突然規格外に大きくなったら、引くもん……」

「そ、そんな、俺は……君を……」


 ありすは本心を見抜かれて何も言えなくなった俺を見つめ、いつもの柔らかい笑顔で言った。


「……ごめんね。すごく自分勝手な話だけど。……別れてください」

「え?」

「お別れしてください……。短い間だったけれど、楽しかった。……ありがとう」


 俺の二倍ぐらいに膨れたありすの大きな手が、こちらに伸びて来た。

 握手を求めてきたのだ。


 これは、別れの儀式だ。


 ――この手を握れば。

 二人きりになった時から……いや、この部屋に入った時から感じていた、最も恐ろしい不安から逃れる事が出来る。

 この姿のありすを今までと変わらずに愛せるのか? という不安から。


 ありすは好きだ。大好きだ。

 世界で一番大事に思っている女の子だ。


 ……なのに。


 好きな女の子の変わりゆく姿に恐怖を感じ、今すぐこの場から逃げ出したくなっている。


 ――今苦しいのは、彼女なのに。

 自分が逃げ出す言い訳ばかり考えてる。

 

 一向に手を握らない俺に、ありすはその手を下げた。「……ふふ、私に触るのも、気持ち悪いよね」という言葉も加えて。

 その手を慈しむ様にもう一つの手で包むありす。その姿に胸が痛んだ。


「さようなら」

「いや、待って、俺……」


「出て行って!!」


 ありすの叫び声に、あいらが飛び込んできた。扉のすぐ傍で待っていたのだろう。あいらは俺を睨みつけて「帰れ!」と罵った。


「帰れ! やっぱり、それだけの奴だったな!! 帰れ、帰れよっ!!」


 と、俺を何度も突き飛ばした。

 細くて小柄なあいらは非力だったが、放心状態に近い俺にとって、その力は背面から倒れるほどの威力があった。

 倒れた俺は何が起きたのか、分からずにしばらくありすの家の天井を見ていた。

 ありすの母親に起こして貰い、玄関先まで無様に送られると、ありすの母親は言った。


「……無理に来て頂いたのに、こんな事になって、本当にごめんなさい」

「いや、俺こそ、ありすさんに……酷い事を……」

「いいえ、桐谷君はありすの事をとても好きでいてくれたんでしょう?

 ありすもね、貴方とお付き合い出来てから、とってもとっても楽しそうだったのよ。……でも、お互い時間が短すぎたし、貴方はまだ子供。それなのに「こちら側」に来てほしいだなんて、私たちの我儘だったわよね……。本当にごめんなさい」


 母親の言っている事が、身に沁みて、情けなくて、ほんとに情けなくて、涙が零れた。


 ……その通りかもしれない。

 好きだったのは確かなのに。


「ありがとうね。ありすの事はもう、忘れてくれて良いからね。あとは私たち家族がなんとかするから……」


 深く頭を下げられた。

 それから玄関の扉がパタン、と冷たく閉じた。










 ――それから。

 俺はどうやって家まで帰ったのか覚えていない。


 ぼんやりと、早川さんの顔が見えたから、俺はバイト先のコンビニにも寄ったのかもしれない。

 気が付けば、自宅のアパートの玄関で項垂れていた。

 蒸し暑い玄関。汗で蒸れた靴の、饐えた匂いが充満している。玄関扉の擦りガラスから零れる日差し。ジワジワと五月蠅い蝉の声と相まって、微かに聞こえるのはサイレン。

 救急車の音が俺の鼓膜に響く。


 ありすの家と俺の家は遠い。隣町だ。

 だから、このサイレンがありすの家へと向かっている訳がない。

 ……そんな訳ないのに。


 でも、俺は想像してしまう。


 ありすの家にも、今頃は救急車が止まっているのではないか。

 ありすの姿を見て驚く隊員達。

 ありすは恥辱にまみれ、居た堪れない気持ちになるだろう。

 ありすは……。


「なんだよ……なんだよ!! ありすの手を取れなかった俺が悪いのかよっ!!」



 ――鳴り止む事のないサイレンは、俺の追い込まれた心を更に追い詰めたのだった。



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