船上にて

 そこから三日間は実にのんびりとした安穏な船旅だった。船乗りたちは私が人斬りだったと聞いてからあまり部屋には来なくなったし、最低限のことでしか部屋から出られないのも退屈ではあったが、それでも私たち三人で暇を持て余すことはあまりなかった。


「今日は少し霧が濃いからあまり進めないかもしれねぇ」


 その日、朝食用の缶詰と水を届けてくれた船乗りがそう言った。私が人斬りだったと聞いても態度をほとんど変えなかった一人で、最近は彼がよく食事や情報を持ってきてくれていた。


「この海路でこんだけ濃い霧が出るってのはあんまり聞いたことがないんだけどな。なんかの前触れじゃなきゃいいんだがよ」


 そんなことを言いながら部屋を出ていき、私は妙な胸騒ぎを覚えた。この世界に来てからこういった時に何事もなく平穏に物事が過ぎ去った経験がほとんどない。嫌なものを感じつつ時間が過ぎていく。

 そして、それから数時間経った時だった。

 急にバタバタと廊下を走る音が増えたかと思うと、何を言っているかはわからないが怒声にも思える言葉が飛び交い始めた。


「何かあったのかもしれないわね」


 流石に無視をするわけにはいかない。

 兵士と似たようなフードをかぶり、準備をしてから廊下を出ると一人の船乗りとかちあった。


「あ、ああ、兵隊さんよ! 頼むよ! あれは魔族なんだろう!? なんとか出来ないのか!?」

「何があったの? 魔族っていうのは?」

「わからねぇ! わからねぇけど、黒い影に触られた連中が狂ったように海に飛び込んでいくんだ!」

「海に飛び込んでいく?」

「ああ、それで誰一人として浮き上がって来ねぇ!」


 確かにただこととは思えない。

 おシノちゃんやフロースタと共に急いで甲板に出ると、ひどい霧で視界はほとんどないに等しかった。

 ツェーフェレナの兵士たちも集まってきているようだが、この霧のせいか統率はとれているようには思えず、わけのわからない叫び声に、神に祈るような声、許しを乞う声が聞こえ、そして……


「飛び込んでいく、ね……」


 『ドボーン』という音が不規則に次々と聞こえてくる。霧は出ていたが、風はなく周囲は人の声ばかりなだけあって、その『飛び込み』の音はやたらと大きく不気味なものに聞こえた。


「おシノちゃん、フロースタ」


 声をかけ、それぞれ背を預けるように固まる。


「一体なんなんだろうね、これ……」


 普段は能天気なことが多いフロースタが珍しく少し怖じ気づいたように言った。


「この霧は? フロースタでもどうにも出来ない?」

「うん。って言うか、正確に言えばこれ、霧じゃないよ。霧に見える何か、だよ」


 その時おシノちゃんが「千影さん!」と言った。

 指を差した先を見やると、黒い影が見えた。

 大きさは成人男性ほどだろうか? ゆらりゆらりと歩きながらこちらにやってくる。軽く周囲を見渡せば、そういった黒色の影は一体ではなく多数いるようだった。


「………………」


 少し考えてから軽く居合いを放つ。

 が、手応えはなし。

 黒いソレは剣圧で一瞬揺らいだが、すぐに元の形に戻ってしまう。


「今ここにその熱き刃を示せ!」


 今度は前鬼と後鬼をまとったおシノちゃんが炎を放ったものの、黒い影に炎が纏わりつくわけでもなく火はそのまま消えた。


「効果はなし……みたいですね……」とおシノちゃんが小さく言った。


 緊張からか、おシノちゃんがごくりと生唾を飲み込むのがわかった。

 その間にも「ドボーン!」という人が落下していく音は絶え間なく続く。


「ち、千影、どうするのさ、これ!」


 フロースタが大きい氷の結晶を作り出し、黒い影を捕まえようとするがそれも上手くいかない。焦っているのか僅かに声が上ずっていた。

 その間にも黒い影はどんどんと近づき、落下していく音は続いていく。あとどのくらいの人が残っているのかもよくわからないが、甲板にいる人がどんどん減っていっているのは明らかだった。


「………………」


 正直に言ってしまえば、連中を倒すのは私にとっては難しいことじゃなかった。普通の居合いが通じずとも、攻撃をする手段はある。

 ただ、かと言ってここで私が人命優先だのなんだのという偽善の下で出しゃばって全部倒してしまっては得るモノが何もない。

 人の心に入り込み、操ってしまう魔族。

 そのような魔族がどのくらいいるかは知れないが、いつかは再び出くわしてしまうかもしれない。

 そうなった時、ここでおシノちゃんやフロースタに修練をしていないとしていたのでは天と地ほどの差が生まれてしまうだろう。いや、そもそも魔族などというものを出さなくても、この『技』は習得しておかなくてはならない戦の技術だ。

 この機会を逃すのはあまりにももったいない。


「二人とも、よく見ておいて」


 私は二人に言ってから、ふっ、と再度小さく息を吐いて居合いを放つ。

 瞬間――


「っ!?」


 黒い影が両断されたかと思うと、「あ、ああぁぁっ……」と小さな断末魔をあげながらその形を保てなくなり、やがて完全に消え去った。


「千影さん、今の……ただの居合いじゃありませんでしたよね?」

「斬るってのはなにも物質だけに限った話じゃないのよ」


 私は御刀を鞘に戻し、再び居合いの形を取った。


「『空』を斬る。曖昧模糊とした『ナニカ』を斬るのは難度の高いものとされていて、これが出来るかどうかが無想月影流を習得出来るかどうかにも大きく関わってくるわ」


 言いながら遠くの黒い霧に居合いを放つ。

 と、こちらも身体を両断されて断末魔を上げて消えていった。


「二人ともよく聞いて。相手は単なる『モノ』じゃないわ。現実でいくら倒そうとしてもそれは全くの無意味。相手はそこに在る『ナニカ』なの。頭で理解しようとしないで。目に見えるモノにとらわれず、自分の感覚を信じなさい。今の貴女たちの実力なら十分出来るはずよ」


 それに二人はごくりと唾をのんだ。そして、そのまま目を閉じる。

 良い判断だ。

 目に見えている限り、人間はどうしてもそちらに引っ張られてしまう。目に見えることが仇となってしまうのだ。だから、いっそのこと視界をゼロにしてしまう。理に適った判断だ。

 そして、


「あ、があぁぅぅぅ……」


 黒い影の一体がいきなり体をひねったかと思うと、足元から真っ赤になっていったかと思うと、ボロボロと身体を崩していった。

 そうして別の一体。そちらは悲鳴をあげない。いや、あげられないと言った方が良いだろう。完全に固着化された冷気に閉じ込められているのだ。フロースタは目を瞑ったまま右手を出すとそのままぐっと手を握った。それと同時に固着化された『ナニカ』はバラバラに破壊された。


「二人とも、合格。花丸ね」


 私がそう言って二人の頭に手をやると彼女たちはふうぅと少し長く息を吐いた。


「これは結構精神力が試されますね」

「何と言うか……今までの感覚と全然違う。連続してやれって言われても無理かも」

「大丈夫。やっていればそのうち慣れてくるわ」


 一体、二体、三体。

 私も手伝いながら三人で処理していっていると、このままでは分が悪いと見たのか、バラバラに動いていた黒い霧がまとまり始め、前方に三メートルはあろうかという影を作り出した。


「千影さん……このサイズは少し……」


 おシノちゃんの言う通り、これだけの大きさになられるとおシノちゃんやフロースタでは苦戦を強いられてしまうだろう。二人はたった今に『ナニカ』に対する戦い方を覚えたばかりなのだ。

 黒い影はそれをわかってか、まるで笑うかのように揺らめいている。

 が、


「その程度で勝ち誇られても困るわね」


<無想月影流――朧月おぼろづき


 居合いの形から放つのは変わらないが、言うなればこちらが本物の『空』を斬る『技』だ。

 おそらくだけれど、先ほどの雑魚を蹴散らすことくらいならカグロダレベルの冒険者なら自然とやれただろう。強者ほどただ『物を倒す』ということから離れ、強さの本質が見えてくるものだ。


「ただの居合いがそんな大業な技だと思う? 相応のモノには相応のモノを。そういうものなのよ、世の中っていうのはね」

「が、あ、ぐぐぅ……がぁ……っ!!」


 大きな黒い影は数秒間のたうち回るように黒い身体をねじっていたが、突然がくんとうなだれるように動かなくなると、まるで風に流されるように消え去っていった。

 それと同時にそれまで周囲を囲っていた濃い霧が嘘のように晴れていく。

 甲板に残ったツェーフェレナの兵はせいぜい十人ほど。船乗りは船内へと逃げ込んだだろうから、全体の生き残りは三十かそこら、といった具合だろうか?

 もちろんあの黒い霧をそのままにしていれば、やがて黒い霧は船内まで入り込み、全ての人間を海へと飛び込ませたに違いない。

 と……。


「これ……」


 甲板に何か光るものがあると思って近づくと、そこには鈍い輝きを放つ小さなモノがあった。拾って光にかざして見せる。不思議な色調に輝くそれからは多少の『力』が感じられた。


「千影さん、その石は……?」

「おそらくだけど、勾玉の欠片ね」

「勾玉の欠片?」

「ええ。少なくとも多少の『力』が残ってるわ」

「もしかしてさっきの魔物が持ってたのかな?」

「だとしたらいきなり奇怪な事件が起こったのも頷けるわね。『空』を『喰らう』存在はその維持さえ難しいの。実際にあんな風には魔族なんかにもなりにくいはずよ。それをこの欠片を得たことであの存在にまで急激に育ったと見て間違いないでしょう」

「ではテーロが何かを考えて?」


 私の言葉を継ぐようにおシノちゃんが言った。


「彼女は何を考えてこんなことを……」

「おシノちゃん、まだ犯人がテーロって決まったわけじゃないわ」

「いえ。こんなことをしでかすのはテーロのような存在に決まってます」


 その表情は頑として譲らない表情が見えた。相変わらずテーロに対してはかなりの嫌悪を持っているようだ。

 とは言っても、今この場で誰が仕掛けたものなのかを解くような必要はない。


「まぁ、実際はわからないけれど、今回のことはこの欠片が影の首謀者だった、というわけね」

「い、一体なんなんだ、お前たちは……っ!?」


 ふいにやってきた声の方を見やると、木で鼻をくくった対応をしてくれた第四聖隊の隊長が顔に恐怖の色を浮かべ、腰を抜かした状態のまま問うてきた。残念ながらこいつは憑り殺されずに済んだらしい。


「ろ、ローブを着てはいるが、お前たちのような隊員は知らんぞ!」

「ええ、生憎ツェーフェレナの兵士ではありませんよ」


 そう言って私はEランクの認識票を胸元から出して見せた。


         *


 幸い船乗りの多くは早々に船内へと逃げ込み、残った人員でケアド帝国へ向かうことは十分可能らしかった。

 ツェーフェレナの隊長は事情を書いた紙を鳩の足にくくり、ツェーフェレナの港に飛ばすと言っていた。

 これでツェーフェレナがどう動くか?

 それは正直何もわからないが、それは私たちにとってどうでもいいことだった。


「確かに我々だけではどうにもならなかったのは認めよう」


 船内にある船の一室。

 ツェーフェレナ、第四聖隊の隊長だというゼガという男は苦虫を噛みつぶすかのように言った。

 戦闘訓練をしっかりと積んだと自慢していた部隊がほぼ壊滅したのだ。隊長としては様々思うところはあるだろう。


「だが、我々が冒険者……ましてやEランクの冒険者に劣るとはどうしても考えられない」


 苦虫を噛みつぶしつつ、それでもなんとか戦闘部隊としての矜持は保ちたいらしい。

 まぁその気持ちもわからないものではなかった。きっと普段から真面目に訓練してはいたのだろう。今回現れた魔族が『空』を喰らった魔族でなかったら彼らでも十分対応出来たかもしれない。


「あくまでランクは目安でしかありません」


 そんな彼の言葉に、私は前にカグロダが言っていた言葉を発した。


「私たちはランク上げに執着がなかった故、未だEランクではあります。が、ここにいる二人、そして私を含め全員がCランクかそれ以上の実力を有していると自負しています」

「だが、例えそれでも……」


 ゼガが言いながら口を歪める。


「あんな、影のような魔族に一方的に……」


 そう悔やんだところでどうなるものでもない。あのような敵を制するのには適切な訓練と相応の時間が必要となる。対人間としての訓練をしてこなかったのでは手も足も出なかったに違いない。


「こんなことをどう本部に報告すれば良いのだ……?」と独り言で彼は呟く。

 結局、宗教を中心とした聖教国と言えど、結局は人間の集まりなのだと実感させられる。

 魔族という共通の敵が現れても人同士の駆け引きや思惑が交錯してまとまることが出来ない。きっと今回の失態によって彼を中心とした第四聖隊は組織の中でその立場を危なくしてしまうのだろう。所詮、人間は人間。それはどこか私が生きた日ノ本という時代に似ているように思えた。


「では、私たちはこれで」


 そう言って部屋を辞そうとすると、「貴女たちはこの先どうするつもりなのだ?」と彼が聞いてきた。


「このまま何もなければケアド帝国にそのまま入ろうと思います。この船はツェーフェレナの公認船、貴方が余計なことを口にしなければ子女三人だけでもそう怪しまれずに入れると思っていますので」


 目に若干の殺気を混ぜて言うと、彼は顔面を引きつらせてごくりと生唾を飲み込んだ。これ以上の脅しはやりすぎだろうと、そのまま部屋を出る。


「Cランクなんて謙遜が過ぎるよ」


 廊下を歩きながらフロースタが言った。


「私やシノがどのくらいのレベルなのかはわかんないけどさ、千影は間違いなくAランクのはるか上をいってるわけでしょ?」

「そんなこと言ったって、私はAランクの冒険者に匹敵しますなんて言ったって現実感がなさすぎるじゃない?」

「それはそうだけどさぁ……」

「それより今は勾玉の欠片をどうするかを私は考えたいわね」

「それについてなのですが……」


 私とフロースタの会話におシノちゃんがおずおずと入ってきた。


「勾玉の欠片はフロースタが持っているべきではありませんか?」

「私が? なんでまた?」


 フロースタがきょとんとした声を出す。それにおシノちゃんはコホンと軽く息を整えてから言った。


「私は陰陽道を今も暇を見つけては千影さんから教えてもらうなり、稽古をつけてもらうなりで、徐々にではありますが強くなれています。ですが、フロースタは師となる方がいないでしょう?」

「なるほど。そういうことなら納得ね」

「千影もそう思うの?」

「まぁ私でも一応貴女を鍛えることは出来ないわけじゃないとは思うわ」


 私はおシノちゃんの言葉を補足するように言った。


「でも、精霊の手助けなんてしたことはないし、正直なところそれが適任かどうかはわからないのよ。それに、フロースタまで私が鍛えるとなると時間だってかかっちゃうわ。それだったら勾玉の力を活かすという意味ではフロースタが仕込んでおいた方が良いと思うの」

「で、でも良いの? 欠片って言ったって勾玉の欠片。相当にレアなものなんでしょう? それを私が持ってて良いのかな?」

「持っていてもらいたい、と言った方が適切ですね」

「そうね。その方がパーティーとしての戦力は大幅にアップさせることが出来るもの」


 フロースタもそこまで言われて反論する理由はない。

 欠片に紐を通したネックレスをフロースタがすると、フロースタのまとっている空気が変わるのがわかった。


「すごい……なんかよくわからないけれど力が湧いてくる。これ、本当に私がもらっていいの?」

「ええ。さっきも言ったけれど、貴女が強くなってくれれば私たちにとっても大きな貢献になってくれるもの」


 それからおおよそ一週間。航海を終えて、船はケアド帝国に着いた。

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