化け物
その日は私たちの旅立ちを祝うかのような晴天だった。
森を抜けると青空に白い雲が立っているのがよくわかった。
心地良い風が吹き、どこからか涼やかだけれどほのかに甘い香りが感じられる。もし日ノ本で言うなら春初といった季節なのかもしれない。
あの後、結局私たちはひと月ほど森に滞在した。
この世界に来た翌々日には式神に周囲を探らせ、一本のあぜ道を見つけたが、人工物はパッとしたところ見当たらず、念には念を入れおシノちゃんの体力がつくのを待った。
幸い、森での暮らしはそう悪いものではなかった。
大きな葉やちょっとした幹、ツルを材料に組んだ天幕は決して見栄えの好いものとは言えなかったが、そもそも気温があまり低くならなかったし、軽く雨が降った日はあったが、ひどい雨風にさらされることもなかった。加えて新鮮な水に果実は探せば豊富になっており、魚や獣肉も獲ることが出来た。ひと月の間に、骨に皮が張っただけのように見えたおシノちゃんの身体には多少の肉がついた。
私は一度森を出て式神が見つけたあぜ道を見に行ったが、あぜ道へはさほど距離はなく、道に出ると僅かだがわだちの跡を確認することが出来た。
それ自体は細く、そう頻繁に往来がある場所には思えなかったが、それでもこうしてわだちがあるということは荷車か何かの類が行き交っているということだ。一日……多く見積もっても二日もあるけばどこかの集落にたどり着ける気配がある。
そのくらいであれば今のおシノちゃんなら大丈夫だろう。少なくとも何もない野を行くよりかはマシに違いない。
前日にはしっかり準備をし、果実や肉を干してちょっとの保存食の類も作った。森には竹も生えていたので、それでもう二つ竹筒を作り、水の確保もした。これで、もし少し歩いても何も見つからないようであれば森に引き返すことも出来る。
おシノちゃんは森から出るのに少し緊張しているようだったが、それでもこのままではどうにもならないということもわかっているらしく、森を出るという私の案に反対することはなかった。
*
出発し、まだあまり体力のついていないおシノちゃんのペースに合わせて歩く。二時間ごとに少しの休憩をして、昼には干した果実をかじった。私としては今日一日で何も見えてくる気配がなければ引き返すことも考えていたが、昼を過ぎ、日が傾き始めようかとしたころに遠くに集落らしきものが見えた。
「千影さん」
おシノちゃんは小さな声を弾ませるように私を見やった。
「どの程度かはわからないけれど集落はあるみたいね。これでどうやらこの世界にいるのは私たちだけ、なんてオチにはならなそう」
「なんだか緊張します」
「別に普通で構わないわよ。そのままのおシノちゃんで」
集落の付近には狼煙のような煙がいくつも上がっていた。時間が時間だ。夕食の準備でも始めているのだろう。
その時はそう思って私もおシノちゃんも大して気にしなかった。
しかし、近づいていくにつれそう呑気な話じゃないというのがわかった。
家々から出ているにしてはあまりにも多すぎる。ただ事ではなさそうだった。
その雰囲気がおシノちゃんにも伝わったのか、彼女の顔は心配そうなそれに変わり、私は眉をひそめた。
吉兆を占うのは陰陽師の仕事。
好事多しという日を出発の日に選んだつもりだったというのに、最初からこれでは先が思いやられるというものだ。
「このままあそこを目指していいものかしら……?」
ただならぬものを感じて私は呟いた。
どういったことが起こっているのかはわからないが、面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。
しかし、だからといってまたここから別の場所を探すとなると時間がかかるし、おシノちゃんの体力にも心配が残る。
「ここまで来てしまったんです。引き返すには気になってしまいし、時間もくってしまいます。だったら、何があるかはわかりませんが行ってみるのも一つの手ではないですか?」
そんな私の心配をさとったのか、おシノちゃんが言った。
「もし何かあっても、足手まといにはならないように頑張ります」
「足手まといなんて言わないの。でも、そうね……ダメそうだったらその時はその時。黙って逃げることにしましょう」
そう悪戯に笑い、どうか杞憂であってくれと願ってはいたが、村に着いた時にはそこはすでに惨状と言える状態だった。
多くの家が崩れている上にいくつかからは火が出ている。遠くから見えた煙の元はこれだったらしい。
死体も多く転がっていた。逃げるところを襲われたのか、男の背には斧で斬られたような跡があり、その下では庇われた思われる子供が腹に大穴を開けてこと切れていた。
「ひどい……」
おシノちゃんがあまりの凄惨な状況に口を覆った。
農具を武器に戦おうとしたのか、中には死体の近くにクワやつるはし、先が三又になった農具が転がっているものもあった。
戦があった? ……いや、そういう雰囲気ではない。どちらかと言えば何かの賊の集団にでもやられたといったところだ。
そう考えたところで、気配を察した。
「おシノちゃん、気をつけて。まだ終わったわけじゃないみたい」
男の上ずった悲鳴。すぐ近くの民家。中から激しい物音がしたかと思うと中年の男が転がるように戸口から出てきたが、
「ぐぅ、がぶっ――」
「っ!」
建物ごと壊すように巨大な棍棒が振られ、男の脳天から腹辺りまでを一気に押し潰した。
骨のひしゃげる音。肉がぐちゃぐちゃになり、血が飛び散って地面に鮮血の溜まりを作った。
ひゅ、と小さくおシノちゃんの呼吸の音が聞こえた。とっさにおシノちゃんの頭を抱きかかえ、その光景を見せないように視界を奪う。
それはもう人間としての形をほとんど保っていなかった。反射反応か、命はもうとっくに失われているのに辛うじて形を保っている足がビクビクと痙攣していた。
「まったく……陰陽師としての力が落ちたのかしら? 吉日のはずがとんだ厄日に――」
言いかけ、建物から出てきた二体の存在に私は思わず息を呑んだ。
猪のように大きい鼻に垂れた耳。口からは太い牙がのぞき、多量のよだれが垂れている。ガタイは大きく、ゆうに八尺……二メートル半は超えていた。肌は汚れた薄桃色で下半身にはぼろきれを纏っているが、上半身は裸で腹は大きく出ていた。
「この国じゃ……白昼堂々物の怪の類が闊歩しているの?」
声が上ずっているのがいるのが私自身よくわかった。
正直、人間相手ならどうとでもなるという考えがあった。
例えこの前の連中のように話が通じなくとも、おシノちゃん一人を守りながら逃げることは今の私にとってそう難しいことじゃない。そう思っていた。
しかし、目の前の相手は人間でないのはもちろん、とても対話が望めるような相手にすら思えなかった。むしろ破壊と言う名の娯楽を楽しんでいるかのような雰囲気だ。
圧倒的な存在感。
私はおシノちゃんを背後に隠すようにして後ずさりした。
出てきた化け物はすぐに私たちに気づいたらしい。「フヒッ」と気持ちの悪い表情を浮かべる。
嫌な汗がじとりと頬を伝う。
「……おシノちゃん、怖いとは思うけれど、一人で走って逃げられる?」
「一人でって、千影さんは?」
「どうやらタダで逃がしてくれそうな相手じゃないみたいだから。私が出来るだけ引きつけている間に、おシノちゃんは遠くに……」
「逃げろと言うんですか?」
おシノちゃんが悲壮な声を出す。
「そ、そんなこと、出来ませんっ!」
「だけど、それが最善だとは思わない?」
巨大な棍棒の先端からは先ほどの男の血が滴っている。
私とて相手が人間なら多少の立ち回りで負ける気はしない。が、目の前のそれは八尺を越える化け物だ。そんな、暴力のために存在するような相手にどれだけ己の力が通用するかはわからない。
しかし、だからと言ってここにいたって二人とも狙われるだけだ。
と、その時だった。
「……千影さん?」
それまで乱れていた心が一気に落ち着きを取り戻す。
そして、頭にはあの時……そう、ここに来てすぐに出会った人間を斬った時のような何とも言えない感情が流れ込んできた。
状況をしっかりと把握出来る落ち着きに、それを邪魔しない程度の高揚感。
身体の重さを忘れるような身軽さとこんこんと湧いてくる力を感じる。
私は後ずさっていた歩みを止め、すっと前に歩み出た。
「出来れば面倒事にはしたくはないわ。その汚らしい面を今すぐ私たちの視界から消してくれるというのなら命だけは助けてあげる」
挑発めいた言葉におシノちゃんが驚いたように表情を変えた。
「ち、千影さん、一体何を言って――」
「――おシノちゃん、悪いけれど少し下がっていてくれない?」
こんな物の怪どもに私の言葉がわかったとは思えない。
だが、連中はブルルと顔をしかめ「ブモォ!」と大きく鳴くと、似たようなヤツがぞろぞろと村のあちらこちらから集まってきた。
それにおシノちゃんが顔を青くする。
一体二体ですら体躯で圧倒的に劣っているのに、それが八体も出てきたのだ。
絶体絶命。
そんな言葉がおシノちゃんの頭に思い浮かんだのかもしれない。
しかし、私が抱いた感想はまったくの逆のものだった。
「これで全部なの? だとしたら、随分楽な仕事ね」
八体の化け物はそれぞれの手に原始的な武器を持っていた。
石斧に、鈍器。尖った槍らしきものに、刃こぼれしたナタを思わせる刃物。「グフグフッ」と鳴く様は実に不愉快で、腐った卵に何日も溜めこんだ糞尿をかき混ぜたかのような悪臭を放っており、心の底から吐き気をもよおさせる。
「あんなのを斬るといのは少し気が引けるけれど、そうも言ってられないか」
居合いの構えを取る。眼前にいるは八体の大きな化け物。
一般的には一人でやるには難しい人数だが、無想月影流は元より乱戦を想定した流派。相手の体躯はともかく、この程度の人数で怖気づくわけもない。
化け物の一体が動き、手に持った棍棒を私目がけて振り上げた。
「――っ!」
おシノちゃんはその瞬間に顔をそむけたらしかった。脳裏に振り下ろされた棍棒が私を押しつぶす映像が浮かんだのかもしれない。
が……
「……え?」
もちろん、私の姿は変わらずそこにあった。
違ったことと言えば、刀が抜かれていたことだろう。
それはまさに一瞬とも言えないほどの早さの抜刀だった。
化け物はおそらく自身が斬られたことすらわからなかったに違いない。何が起こったのかと、棍棒を振り上げた状態で後ろのやつと顔を見合わせ、「グフフフッ」と笑ったところで上半身が斜めにずれた。
「ブフ?」
後ろのやつを見やったまま、化け物の上半身が下半身から完全に離れて地面に落ちる。血をなみなみと流す下半身は力なく膝を折った。
「ブ、ブミィッ!」
仲間を殺されて頭に血が上ったのか?
それとも単に血を見て興奮しただけなのか?
わからないが、今度は後ろのやつがドスドスと踏みこんできながら斧を振り下ろす。しかしすでにその場所に私はいない。
「鈍間ね。欠伸が出るかと思ったわ」
横からの斬撃。返り血を浴びる前に再びその姿を消す。
残った六体の化け物はすっかり私の姿を見失い、焦ったように左右を忙しく見渡すが、なんとも見当外れだ。
次の瞬間――
<無想月影流――落月‐
一体を脳天から貫く。
高く跳び上がり、完全な死角となった真上からの攻撃。
中枢の器官をやられた化け物は命を手放して白目を向く。
残った奴らがようやくどこから攻撃がきたのか気づいたのか、今まさに崩れ落ちようとしている化け物の肩に乗った私目がけて手に持った武器を振るものの、そんなものに当たれというのは太陽に西から昇れと注文するに等しかった。
刀を引き抜く力を利用して軽やかに身体を舞わせて地面に降り、遠心力で加速させた御刀で別の化け物の頭から股までを一気に斬り裂く。
と同時に自分目がけて振り抜かれた鈍器をかわし、
「――ふっ!」
それを軸として使うように体を回転させ、他の個体に軽く足蹴りを喰らわせる。
今この瞬間、私は京の都にいた頃とは比べ物にならないくらいの力を感じていたが、それは私の勘違いというわけではないらしい。
腹に蹴りを喰らった化け物は醜いうめき声を出すと、激しい勢いで数メートル先の壊れた家に突っ込んだ。
だが、呆気に取られる暇さえ与えるつもりはない。
あまりの出来事に動けずにいた間抜けに下から上に斬り上げる斬撃を喰らわせて絶命させると、地面を蹴って、瓦礫に突っ込んで呻いていたヤツに鋭い突きを放った。
凄まじい勢いのそれはもはや突きという一言で表して良いものかどうかわからなかった。ぶわりと周囲の細かな瓦礫を巻き上げ、眉間に刀を受けた化け物の頭は胴から引き千切られた。主を失くした首から血が止めどなく溢れだす。
刺した感触からすればこの連中は人の体より数倍は固く作られているようだったが、私にとっては豆腐を切るよりも容易かった。
「なるほど……」
貫いた御刀を引き抜くと化け物の首がごろんと地面に転がった。私は感触をかめるように右に左に御刀を遊ばせる。手にぴったりと吸いつくようなそれはもはや体の一部と言っても良い。
「さて、残ったのはあなたたちだけだけど?」
残りは二体。しかし、瞬く間に六体の仲間がやられたのを見て、脳みその少なそうな頭でも勝ち目がないとわかったらしい。僅かにたじろいだかと思うと、身体を反転させて逃げ出していく。しかし――
「一度牙をむいた相手を逃すほど私が優しい存在に見えたのかしら?」
「っ……!」
一瞬の内に二体を追い抜いて立ちふさがる。化け物どもは明らかに動揺していた。
そして、どうにもならないとわかったからか、窮地に追われた獣風情がそうするようにヤケクソになって私に襲い来る。
そこに、上段の構えから一閃。さらに回す刀で最後の一体を仕留める。
私は軽く御刀を振って血を飛ばすと、手布で血をぬぐってから鞘へと戻した。
あっと言う間の制圧。
化け物が見た目に反して貧弱だったというわけじゃない。少なくともあの化け物一体を抑えるのに普通なら大の男四人は必要だっただろう。それで勝てるかどうかだって定かじゃない。
それを私は、瞬時に八体全て葬り去ることが出来た。
「千影さん……」
おシノちゃんが怯えと呆気の混ざったような表情を浮かべて傍に寄ってくる。私はそれに細く長く息を吐き出した。
「化け物が相手でも案外どうにかなるものね」
「今のは……?」
「一応京の都ではそれなりの剣客で名を通していたのよ、私」
言いながらも、私は困ったように眉をハの字にした。
「だけど、まさかあんな化け物にも通用するとは思わなかったわ。身体もいつもより軽かったし、この御刀の力もあるのかもしれないわね」
村を襲った化け物どもは今ので全て。
物音を聞いた村の生き残りたちが徐々に集まってきて、どうやら化け物が屠られたのを理解したらしかった。驚きや安堵の声が周囲からもれ聞こえてくる。
「これだけ大立ち回りをしたら目立っちゃうのはしょうがないか……」
私はそう嘆息気味に呟いた。
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