異変と出逢い

始まり

 京の町にももう江戸の時分とは違う風が流れ始めていた。

 まげを切り、刀を差すのをやめるよう士族は圧をかけられ、空気が一息に入れ替えられるように世界自体が変わろうとしている。

 そして、それは表の世界の話だけではない。

 京の町の少し奥まった所にある小さな剣術道場に正座をし、私は爺と相対していた。

 夜も更けてきた。人々がそろそろ眠りに落ちるかどうかといった時刻である。部屋の中を薄っすらと照らしているのは行燈の灯りだけだ。


「そんなことを言っても、お爺さま」


 静かに、されど我慢ならないと私は爺に食ってかかっていた。

 もう子供ではない。今年で齢十七。特にこの数年間は無邪気に人を斬ってきたわけじゃない。今の私には確かな信念があり、理想がある。だからこそ、私は爺を睨むように言った。


「父上も母上も蝦夷の地……北海道で新政府軍数百人をたった二人で相手取って見事に散ったと聞いております。であるなら、無想月影流を受け継いだ私だって――」

「そう結論を急ぐでない」


 私の言葉を切り、爺はあごにたくわえられた豊かな白ひげを撫でながら言った。

 私が口にした無想月影流というのは道場の表に掲げている流派の名とは全く違うものだ。昔は多少の門下生がいたが、今では京の町でもほとんど知られていない、取るに足らないような流派の看板はもう朽ちかけている。

 しかし、そんな表の看板にこの家――巫家の者は誰ひとりとして囚われていなかった。巫家は常に『影』で動いていた。


「もはや一人の力ではどうしようもないことなのだ。無想月影流の歴史千年あまり……流派始まって以来の異才と呼ばれるお前とて例外ではない」

「だからと言って、このまま新政府に従えというのは……」


 顔を俯かせる。


「私たちの主は徳川さまのみ。その影となり、暗躍するものたちを討つのが私たち巫の定め。それが徳川さまに対する、そして私たちがもっとも尊んできた義というもの。私は昔からずっとそう教わってきました」

「時代は変わったんじゃよ、千影。一人の力でどうこう出来るような時代はもう終わろうとしている」

「それはそうなのかもしれませんが……」

「千影」


 爺が重たく口を開く。


「お前は徳川さまのために今まで何人の人間を斬ってきた?」

「そんなもの、数えたこともありません」


 顔を上げ、吐き捨てるように言った。人斬りが斬った人の数を数えるなんて魚屋が捌いた魚の数を記憶しておくようなものだ。


「ですが、取るに足りない雑兵を加えれば百は下らないと思います」

「確かにそれだけの数は十分に斬ってきただろう。しかし、お前がそれだけ暗躍しても世の流れを変えるまでにはいたらなかった」


 ふぅ、と大きく爺がため息を吐く。その様子に私は口を一文字に結んだ。


「それにだ、千影。お前は浦賀の巨大な黒金の船を斬り伏せられるか?」

「それは……」


 一瞬ためらった。が、すぐに言葉を続ける。


「難しいことかもしれません。しかし、流派の祖である実影さねかげさまに斬れぬものはなかったと聞いております。無想の御刀と共にあれば月影流に勝るものなし。事実、実影さまは数百にも及ぶ未知の魍魎を前にしても退くことなくその全てを討ち破ったと言われているではありませんか? それに比べれば、黒船の一隻や二隻など――」

「それとて所詮は昔の御伽草子。信ずるに値するかどうかはわからん」

「……であるなら」


 瞬刻の抜刀。

 私の抜いた刀は轟々と燃えるような赤い火の刃に変えて爺の首筋にあった。


「黒金の船を斬れというなら、この陰陽の術をもってご覧にいれてみせます」

「陰陽の力。それを用いても良いだろう。だが、それでも所詮は一振りの刀にすぎぬ。本当にあの巨大な船を斬り伏せることが出来ると思っておるのか?」


 首筋に激しい熱を感じているはずなのに爺は一切たじろがなかった。

 すっと向けられた視線。

 逆に私の方が気圧される。


「お前の剣や陰陽の術は見事なものだ。ただ、それでも黒金の船に一太刀浴びせるのが精いっぱいだろう。斬り伏せるなど、夢のまた夢と知れ」

「っ……!」


 その言葉に私はぐっと息んだ。


「いくらお爺さまと言えど、巫の歴史を愚弄するのは許しません!」

「愚弄しているのではない。むしろその逆だ」

「………………」

「日ノ本の者らしからぬ白銀の髪に紅の瞳。その年にしてこの無想月影流の全てを体得した才。そして、それを可能とした陰陽道の力。お前はこの巫の家に生まれた中でも一等特別な子じゃ。きっとこれからの世にて何らかの形で必要とされるはず」

「これからの世に……?」

「そうだ。己の生き方を見つけるその時まで腐るではないぞ」


 そう言うと爺はそっと立ち上がり、私を残して道場を後にした。


「腐るでない、か……」


 一人となった道場で無力に息を吐くと、抜いていた刀が燃えるような赤から金属へと戻った。そっと鞘へと戻して長く息を吐き出す。

 静まり返った空気に行燈の炎が揺らぐ音が聞こえてきそうだった。


「そう言われても、私はもうどうすれば良いのかわからない」


 ポツリと独りごちると、脳裏に一人の少女が思い浮かんだ。


『必ずみんなが笑えるような世の中を作ってみせる』


 そう約束したのに、実態はどうだ?

 幕府を守ることは出来ず、外の国からの圧力は増すばかり。そして、今となっては、もはや約束を交わしたその少女すらこの世にいない。


「おシノちゃん……」


 口にしてゆっくりと立ち上がる。

 もう迷いの類はなくなっていた。

 道場を出て、家の中から提灯を持ち出すとそれを片手に誰にも見つからないようにそっと夜の町に出た。

 まだそこまで深い時間でないからか家のいくつかには行燈の灯りが見えたが、それでも出歩くには不用心すぎる時間である。

 まだ騒乱の中にあると言っていいし、見回りの警らに見つかったら、その腰に差している刀を含めて小言をもらってしまうだろう。噂ではあるが、もうじき士族であっても刀を持つことを本格的に法律で禁じられるという話だった。御刀を失くす。それはもはや士族にとって死にも等しい。

 幸い誰にも出会うことなく――向かっている場所が場所であることもあるが――私は墓地につくことが出来た。

 ここにはまともな灯りの一つもなく、手に持った提灯だけが頼りだが、それでも場所を間違えるはずがなかった。

 もう幾度ここを訪ねてきたかわからない。

 ここに来る度、私は彼女との約束を思い出し自分を奮い立たせていた。

 しかし、今日はその真逆の心持ちと言ってよかった。


「………………」


 墓石に彫られてまだ新しい彼女の名前をそっと指でなぞる。

 元々病弱な彼女であったが、年を重ねるごとに丈夫にもなってきていた。このままなら共に先の世界を歩んでいける。動乱の中に生きる道を見つけられる。

 そう思っていた矢先。


『火事だ!』


 目を閉じれば今でもその光景がありありと思い出せる。

 轟々とうなりを上げながら灼熱を吐き出す家を前に私はなす術がなかった。

 火剋水。

 水は火に勝る。だが、灼熱の業火を消すのは当時まだ未熟だった私の陰陽術では到底無理なことで、私は中へ入ろうとするのを周囲の大人たちに止められ、ただ彼女の名前を叫ぶことしか出来なかった。

 幸い他へと移る大火になるようなことはなかった。

 だが、それでも彼女の一家を全員この世から消してしまった。

 完全に焼け落ちてしまった家で、私は灰にまみれながら必死に探した。

 生きているなんてことはあり得ない。

 わかっていた。

 だけど、彼女がこの世にいたということを……おシノちゃんがここにいたという証だけでも見つけてあげたかった。

 しかし、結局両親のものと思われる遺骸は見つかったが、おシノちゃんの遺骸だけは一片も見つからなかった。一番燃えの激しかった部分が彼女の部屋に近かったこともあり、肉どころか骨さえもわからぬくらいに燃えたのだろうと大人たちは言った。

 なら、せめてこの世界だけでも守ってみせる。

 おシノちゃんの大好きだった日ノ本だけは、なんとしても守ってみせる。

 そう思っていたのに、結局はこの様だ。

 何も守れなかった。

 何一つ約束を果たせなかった。

 今の私には何も残されていないように感じられたし、それが事実だといってさほど間違いではなかっただろう。


「愚か、だよね……」


 それであるなら、せめて貴女の元に。

 約束を守れなかった。それを詫びるために貴女の元に逝く。

 私は懐からゆっくりと短刀を取り出した。

 翌日、この現場を見つけた者は何を思うだろうか?

 幼子の頃から姉妹のように育ってきた幼馴染の墓の前で腹を切った私に、事情を知る者は納得するかもしれない。何も知らぬ者は士族としての誇りに散ったと思うかもしれない。

 介錯人はいない。

 苦しみは相応に続くだろう。

 だがそれも、今まで奪ってきた命の数を考えれば当然のことのように感じられた。

 右から道着を肌脱ぎし、腹を出す。そっと手で場所を確かめてから目を閉じ、ぐっと短刀を構えた、その時だった。


『――助けて!』

「っ!?」


 脳内に響いた声に私は動きをピタリと止め、周囲を見渡した。が、無論誰もいない。

 まさかこの世への未練が故に変な幻聴をしているのかと嘲笑いそうになる。

 しかし、


『助けて!』


 再びの声。

 それは一度目の時よりはっきりと聞こえた。聞き間違い、幻聴の類にはどうにも思えない。

 私は短刀を置いて道着を整えた。


「誰? 誰かいるの?」


 周囲を見渡しながら問うが返答はない。しかし、何者かに呼ばれるような気配がはっきりと不気味なくらいに感じられる。

 提灯を持ち、立ち上がってゆっくりと歩き始めた。その声の気配はどうやら墓場の奥からしているらしい。

 だが、墓場の奥に何かあっただろうか? 寺の本堂は真逆であるし、そこにはただ侘しい景色が広がっているだけだったはずだが……。


「これは……?」


 現れたのは一つの小さな祠だった。本当にぽつんとしたもので、道々にあるものですらもっと立派なのではないかと思えるほど寂れたものだった。

 しかし、そこに一振りの立派な御刀が供えられていた。

 祠の段に無造作に置かれ、札が貼ってある。

 この寺のものだろうと思うが、幾重にも重ねて貼られた札がその刀がただの刀と片づけて良いものでない証のように思えた。

 ただならぬものを感じてその御刀を手に取る。

 途端、貼られた札が不思議と全て落ちた。

 それに少し戸惑いながらも、じっくりと御刀を見やる。

 鞘にはこれといった目立つ装飾はないが質の良いものなのははっきりとわかった。刀身はやや長く、反りが深い。

 今までに見たことのない、どこか妖しいようにも見える刀だった。

 もしかしたら実用ではなく奉納か何かの際に使用するものということも考えられる。

 そんなことを思いながら鞘から刀を抜いてみると、あまりの美しさに私の口から息がもれた。


「すごい……」


 見た瞬間にわかった。

 これは間違いなく日ノ本全てを調べても一振りあるかないかという類の名刀だ。

 月の光を受けて刀身が妖しく光る。刀など今までいくつも見てきたし、私が使っている愛刀だってかなりの業物だ。しかし、それと比べてもなおそれは異様に惹きつける何かを持っていた。

 と、その瞬間だった。


「うっ……」


 強烈な眩暈が私を襲った。

 今までに経験したことのない異様な眩暈に思わず膝をついてしまう。

 地揺れの類か?

 そう周囲を見るが何の変化もない。私だけがまるで小さな箱に入れられて振りまわされているかのような眩暈を感じる。

 このままじゃ不味い。

 そう思って手のひらをついて呼吸を整えようとするが、強烈な揺れに脈は上がり、呼吸は苦しくなるばかり。

 ついには頭にもやがかかっていくように意識が白くぼやけてくる。


「一体、なに、が……?」


 そう口にしたところで私の意識は完全に失われた。

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