プロローグ ㈡
用意されていた湯で浴びた返り血を洗い流す。
湯屋じゃないから手足を伸ばしてなみなみと入ったお湯に身体をつけることは出来ないが、それでも血を洗い流すと流さないとでは大きな違いだ。
ふぅ、と一つ息を吐く。
確かに今日の標的には相当な手練れが護衛についていると聞いていたが、それでも特に苦もなかった。
千影が刀を握るようになってもう七年になるだろうか?
まだ歩くことすらままならないような時から積まされた鍛錬によって彼女の手は同い年の少女に比べたらあまりにも固く、年相応とはとても言えなかった。
「千影ちゃん」
と、つい立ての向こうから思っていた別の少女の小さな声が聞こえてきて、千影の背はビクリと思わず跳ねた。
「お湯加減、どう? 何か必要なものある?」
「ううん、大丈夫」
返事をするとつい立てから一人の少女が顔を出す。そこでようやく、鋭く孤高の雰囲気をたたえていた千影の空気が和らいだ。
「こんばんは、おシノちゃん」
「こんばんは。お役目、お疲れさま」
おシノと呼ばれた少女が小さく微笑み、つい立てを回って千影のそばに寄って来た。
白い肌に、黒髪とわかるも、どこか澄んだ青を思わせる髪。利発そうな顔をしているが、表情はどこか儚げなものを感じさせる。
「なんだかんだで十日ぶりくらいだね」
「たったの十日? 私はなんだかんだでひと月は会ってなかった気がする」
「千影ちゃん、大げさ」
「そのくらいに感じるってこと。お役目も多くて最近バタバタしてたから」
「お役目、大変でしょう? 今日の相手は手ごわいって話だったけど、怪我とかしてない?」
「皮の一枚だって切れてないよ。むしろ手ごわいって聞いてたのに拍子抜けしちゃった」
言って千影が肩を回してみせる。
「それよりおシノちゃんこそ大丈夫? 一昨日くらいまで熱で臥せってたって聞いたけれど……」
「熱ならもう大丈夫。みんな少し大げさだから」
「それなら好いんだけど……あんまり無理しちゃダメだよ?」
「無理はしてない。それに、私だって何かの役に立ちたいよ」
そう言ったシノの語調は少し駄々をこねるようなものだった。
「千影ちゃんも他の人も、みんな徳川さまのために頑張ってる。だけど、私だけ何の役にも立ててない。私も徳川さまのお力になりたいのに……」
「そんな。おシノちゃんだって十分役に立ててるよ」
「本当? そう思う?」
「だって、おシノちゃんの家は根っからの討幕派って噂されてるでしょう?」
「そうだね。長くこの京で商売をやってるからかな? 実は後ろで討幕派の志士に物資を支援してるとか、影で場所を提供してるとか、勝手に噂されてるみたい」
「そんな中、実はおシノちゃんが徳川さまのために裏で動いてるなんて誰も気づかないわ。この間討幕派の連中の宿を襲撃出来たのだって、おシノちゃんが情報を運んだからじゃない? おシノちゃんは徳川さまのための密偵だよ」
そんな千影の言葉に、面白い冗談を聞いたようにシノはクスクスと笑った。
「密偵。そんな風に考えたことはなかった」
「でも、やってることは完全にそうでしょう?」
「そう言われるとそうかも。内緒だよとか、秘密なんだけど、って言いながら、なんだかんだみんな教えてくれるの。討幕派の家の子供だと思って油断してるんだと思う」
「だとしたらおシノちゃんだって立派に徳川さまの役に立ってるよ」
「だったら嬉しいな」
そう言いながらシノは手を湯に入れた。千影が浴びた返り血で僅かに薄赤くなった湯をすくって流す。
それに千影はふと思い立って湯を両手にすくい、ふぅっと息をかけた。途端、水から新芽が出たかと思うと、見る見るうちに青々とした茎や葉が成長し、先端に白い花を咲かせた。
目の前で起こったことにシノは感嘆の息をもらした。
「いつ見てもすごいね、千影ちゃんの陰陽術」
「五行相生、水生木。ご先祖さまに陰陽師だった人がいるから、こんなカラクリが使えるってだけよ」
「カラクリだなんて謙遜が過ぎるよ。お父さまも言っていたもの。千影ちゃんは数百年に一人の才人。立派な剣客だけど、それと同時に大陰陽師になる可能性もあるって」
「大陰陽師なんて仰々しいって」
千影は照れたように言ってから先端の花をそっと摘んだ。そしてその白い花をおもむろにシノの髪に挿す。
「よく似合ってるよ、おシノちゃん」
「そう?」
「うん。なんだか本物のお姫さまみたい」
「お姫さまだなんて、そっちの方が仰々しい」
言いながら二人の少女が声を潜めるようにして笑う。
そしてひとしきり笑うと夜の帳が降りるように沈黙が降ってきた。夜鳥も鳴いておらず、風がそよそよと少女二人の髪を揺らすばかりだ。
「早く、みんなが笑い合える世界になればいいのに……」
ポツリとシノが言った。
「きっとすぐだよ。みんなそのために頑張ってるんだもの。もちろん私だって」
「千影ちゃん……」
「今の日ノ本が良いなんて思えない。亜米利加が土足で日ノ本に入ってきて、それに乗じて今まで平和を築いてきた徳川さまを悪く言う人もたくさん出てきた。こんな状態が続いたら、日ノ本はその内になくなってしまうんじゃないかって思っちゃう」
「それは嫌。私、日ノ本が好き。こうして千影ちゃんがいて、一緒に笑い合える。それが余所者に無茶苦茶にされるなんて、許せない」
「大丈夫。そうならないように私が必ず、みんなが笑顔になれる……ううん、おシノちゃんが笑顔になれる世の中にしてみせる」
「約束……?」
「そう、約束」
そう千影は笑った。
そこに嘘偽りは一片もない。心の底から千影はそんな世を築くことが……自分も一生懸命に頑張ればそんな世が築けると信じていた。
だが、結局その約束が果たされることはなかった。
幕府が政権の返上を明治天皇に申し出て、江戸幕府が終焉を迎えたのはその数年後のことだった。
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