第2話 スタディ・ダイオード
義之サイボーグがやってきた時代は、香澄が大学を卒業する少し前だった。
教育実習も終わり、後は赴任先が決まるのを待っている状態だった。香澄は成績もよかったので、教員としてあぶれることはない。少なくとも、非常勤講師くらいにはなれるだろう。
最初に赴任した学校は、沙織の学校だった。最初に赴任した時から、香澄は沙織を意識していたのだが、当の沙織は先生から意識されていることを知らなかったが、なぜか香澄先生に惹かれていた。お互いに惹き合うものがあったことを、その時未来からやってきた義之サイボーグには分かっていたのだ。
香澄は見る人から見れば、明らかに二重人格者だった。香澄から見て、好きな人はあまりいなかったようだが、嫌いな人は結構いた。好きな人であっても、他の人が接するような馴れ馴れしさは香澄にはなかった。相手から話しかけられるのを待っているという性格だったのだ。
それなのに、沙織に対してだけは違っていた。沙織自身は、香澄先生に包み込まれるような優しさを感じていたが、香澄は沙織に対して特別な意識を前面に出しているつもりだったのに、なかなか沙織が気付いてくれないことに半分、業を煮やしていたりした。
そんな時、目の前に現れたのが、義之サイボーグだった。
男に対して、それまで女らしさを表に出したことのなかった香澄が、義之サイボーグにだけは、何か特別な思いを感じていた。
――この人は、他の人とは違う――
ただ、それだけでよかった。その思いがあったおかげで、沙織が気付いてくれなくても、お構いなしになってしまった。
義之サイボーグに対し、他の人とどこが違うのか、分からなかったが、
「私が意識したんだから、それだけで、他の人と違うという感情を持って当然だわ」
と、感じるようになっていた。
義之サイボーグは、香澄の学生時代を「下見」しているので、性格による少々の驚きは、計算されているはずだ。だが、学校を卒業してからの香澄の自分に対する考え方が、さらにパワーアップされていることに気付いていないようだ。
学生時代と実際に社会に出て行く上での心構えの違いは、本人である香澄が一番分かっている。他の人との違いを、過剰に意識してしまっているのも、無理のないことに違いない。
義之サイボーグにも、香澄が他の女性と違っていることは分かっていた。
もっとも、香澄くらいの年齢の女の子の常識はインプットされていて、どこがどう違うのかという詳細までは分からなかったが、じきに頭の中で計算できると思っていた。そのためには、近づく前に少し観察しておく必要があった。香澄にもその視線が分かっていたので、義之サイボーグと最初に知り合った時も違和感を感じることはなかった。
もし、これが他の女の子だったら、義之サイボーグに対して、訝しく思ったに違いない。
――数日前から、おかしな視線を感じるけど、この人じゃないのかしら?
と思うからなのだが、サイボーグである義之は、そのことが悪いことだという意識がなかった。
特に、ストーキング行為に関しては、どこまでが合法で、どこからが犯罪なのかという意識は曖昧で、しかも、それを判断するのは、行う方ではなく、された方である。そのことが分かっていないと、特に相手が女性だというデリケートさを含んだ意識に対応することができないだろう。
義之サイボーグが開発された時代のストーキング行為は、香澄の時代のストーキング行為と処罰に関してはさほど変わらない。だが、圧倒的に違うのは、
「申告者に有利だ」
ということだった。
香澄の時代のストーキング行為に対しては、警察の及ぶ力はさほど強くない。軽く付き纏ったくらいでは、警察は相手を逮捕することはできない、せいぜい注意するしかないのだ。
しかも、部署は生活安全課。
要するに警察も何かなければ、動いてくれないということなのだ。
時代が進んでくると、次第に犯罪が凶悪化してくる。ストーキング行為がそのまま殺人に繋がったり、精神異常者が蔓延ることになってしまったり、精神的に病んだ状態の人間が堂々と表を歩いている時代がやってきた。
そんな時代は一時期だったのだが、それにより、法制度が社会問題となり、特に性犯罪関係は急速に法改正が行われた。
今までは
「疑わしきは罰せず」
だった時代から、
「疑わしくは、徹底的に調べる」
ということになり、グレーゾーンが、急激に狭められた。怪しい人間は、片っ端から「犯罪者」としての目で捜査が行われ、警察の尋問もかなり厳しいものになった。やってもいないのに、
「私がやりました」
と、言わされる時代がやってきて、
「警察力による、恐怖政治」
の時代を迎えることになってきた。
この傾向はあまりいいものではなかった。
誰もがビクビクして暮らしている。下手な行動をすれば、警察に捕まって、厳しい取り調べが待っている。そんな状態が、十年ほどは続いただろうか。さすがに、そんなひどい時代も終焉を迎えるようになり、香澄がいた時代に戻ってきた。
「その間の中間がないんだ」
香澄との時代の間を、義之は予備知識として勉強した、サイボーグにも、その時代の歴史を、「記憶装置」に格納することに成功した。
「思考回路が錯綜しなければいいが」
と一抹の不安もあったが、
「記憶がないよりはマシだろう」
と、あまり深く考えることもなく埋め込んだ。
義之サイボーグは、香澄の性格を埋め込まれ、さらに香澄を見ているうちに、自分の記憶に格納されている、二人の時代の間の記憶が、次第にリアルに頭の中で形成されていくのを感じた。二人の間の時代に横たわる、
「悪しき暗黒の時代」を、
――香澄だったら、どのように生きていくだろうか?
と、考えていたからだ。
「香澄は、生まれる時代が少し早かったのかも知れない」
と、いう発想が義之の中にあり、それは、
――してはいけない発想だ――
ということに気付かなかった。
やはり、そこが生身の人間とは違うところ、香澄を見ていて、どこか自分の中で計算できない部分が存在していることを、ウスウスだが感じ始めていた。
香澄はもちろんのこと、義之サイボーグも義之本人も、気付いていないことがあった。
義之は、自分がサイボーグを送り込む時代のことはある程度調べたつもりだったが、肝心なことを忘れていた。それは、
「美的感覚の違い」
であって、それにともなって、当然一般的に好かれる女性の好みというのも、それぞれの時代で違っている。もちろん、個人差はあって当たり前だが、一般的なところで根本的に違うのだから、個人差というのは、一般的な考えをひっくるめないと、表現できないものだ。
それは比較対象の問題があるからで、一般的な見方に対して自分の好みが「ミーハー」だったり、「オタク」だったりする。この言葉は香澄の時代から言われ続けているもので、義之の時代でも使われている。息が長い言葉と言えるだろう。
言葉や風俗が短い間だけで終わってしまうものを、「流行」という。
「パッと咲いて、パッと散る」
まさしく桜の花のようではないか。
その間に間違いなく華だった時代が存在するだけ、人によっては、「儚さ」を感じるというものだ。特に日本人は昔から、この「儚さ」には弱いところがある。香澄の時代もそうだったようだが、義之の時代には、その問題は切実になっている。
なぜなら、義之の世代のちょうど一つ前の時代に、世の中は荒れ果てていたようだ。
「破壊と殺戮の時代」
と言われていたようで、
「よく地球がなくならなかったものだ」
と、人類の滅亡よりもさらに地球の滅亡の危機の方が先に語られるほど、一歩間違えれば、何もかもが消滅していたことになる。
寸でのところで回避されたようだが、その問題も、過去の歴史を考えれば、
「何か、見えない力が働いているのではないだろうか?」
と思えるほどだった。
考えてみれば、義之の時代は、香澄の時代背景と似ているところが多い。未曾有の大戦争の一つ後の世代であったり、人類の危機を寸でのところ、つまりは紙一重のところで解決できたりと、まるで「神懸かり」だと言ってもいいだろう。
そう思うと、
「歴史は繰り返す」
という言葉も、まんざらではないように思う。
ただ、苦言を呈すれば、
「なぜ、人類はそんな愚かな過ちを何度も繰り返すのだろう?」
と言えなくもない。
香澄も専攻が美術関係だとはいえ、教員になるための勉強をしながら、歴史の勉強をしている時、同じことを感じていた。それも、義之が感じたのと同じようにである……。
実質的な過去の歴史についての勉強は、義之はしていた。風俗習慣についてもある程度研究をしていたつもりだったが、予習していなかった肝心なことというのは、「男女の好み」の問題だった。
歴史の勉強をしていると、どうしても、派手なところに目が行きがちで、義之もすっかり歴史の勉強では、戦争や騒乱、王朝の興亡などの方にしか目がいかず、「男女」の好みに関しての勉強を怠っていた。
逆に香澄であれば、美術を志していることで、「美」に対しては敏感だった。
義之も、古典や歴史の勉強をした時に、紫式部や清少納言などの活躍した平安時代や、浮世絵が一世を風靡した江戸時代などの「写し絵」を見ると、
「今の時代と、好みが違うんだな」
と、感じることだろう。
だが、香澄の時代になると、映像で残っている。
アイドルや女優などは、「動画」として残っているので、写し絵や写真などのように、一瞬の美しさを映し出す、いわゆる「芸術」として見ているわけではない。そのために、今の時代に動いている人と比較して見るという意識が、写し絵に対してほど、持っていないことになる。
そのことを差し引いても、頭の中に、
「今の時代と昔とでは、男女の好みに対して違いがある」
という意識が皆無だったことは、失態だったと言ってもいいだろう。
だが、まさか、後から考えても、
「たったそれだけのこと」
と思うようなことが、大きな影響を与えることになるなど、送りこんですぐに気付くことはなかった。
しかも、送りこんで義之サイボーグと、香澄が知り合っていく段階でも、まだそのことに気付かない。やはりサイボーグに女性に対しての感情を正確に持たせることは無理だったのだろう。
もっとも、ロボット開発の時点で、そこまで重要な問題を孕んでいるなど、考えたことはなかった。人間型ロボット、つまりは意志を持ったロボットを開発しようと思った時点で、そこまで考えられなかったのは、義之自身の性格にあるのかも知れない。
義之は、自分の性格を「真面目」だと思っている。「堅物」と言ってもいいくらいで、本人としても、まわりから「堅物」と言われることを嫌だとは思わなかった。
「それも俺の性格なんだ」
と思うのは、開き直りというわけではない。開き直りというのは、
「自分では完全に納得できないが、勢いでなら納得させることができる」
というものであり、「堅物」という発想には、勢いがなくとも納得させられると思っていた。
真面目で堅物な義之は、香澄の時代でも同じことなのだが、
「女性に対して感情を持つのは、恥かしいこと」
と考えていた。
要するに「ウブ」なのだが、香澄の時代には結構いた「ウブ」な人間も、義之の時代には、「国宝級」に少なくなっていた。
だが、それは間違いで、それには但し書きがある、
「但し、目に見えている部分だけであるが」
というのだが、要するに、
「隠れウブ」
が結構いるのだ。
ウブな人というのは、
「まわりに、自分のことを見られたくない」
という気持ちが一番強い人たちだ。それは今も昔も変わらない。それだけ、義之の時代には、まわりに自分のことを知られたくないと思っている人が増えたということなのか、あるいは、人が増えたわけではなく、知られたくないという思いが、昔の人に比べて強い人が多くなったのかのどちらかなのであろう。
義之は、そんな自分を分析していた。理解していたと言ってもいい。
それでも、その性格を変えようとは思わなかった。結構嫌いなわけではないからだ。
ただ、この思いには若干の開き直りがあったのも事実だった。
「勢いがなければ納得させられることではないからな。理解はできても納得はできない。理解と納得は別のものなんだ」
と、自分に言い聞かせていた。
それは、
「納得できれば、理解できている証拠であるが、理解できていなければ、納得はできない」
という考えに基づいていた。
「勢いというのは大切なんだな」
誰に聞いてもらうわけでもなく、義之はひとりごちた。
その思いを感じたのは一度や二度のことではない。しょっちゅうだと言ってもいいだろう。特にロボット工学の研究を始めて考えるようになった。
ロボット工学の研究は、人間の発想だけに留まるものではない。だから、本当は自分だけの発想では片手落ちになってしまうのだろうが、義之はそれでもいいと思った。
「ロボットにだって個性があってもいいだろう」
要するに、義之の個性の元に作られたロボットがいるというだけである。
他の人が同じようにロボット研究をしていれば、その人の個性を持ったロボットができあがる。だが、これは非常に怖い現象でもあるのだ。
ロボットの数が増えれば増えるほど、同じ性格のロボットが増えてしまう。人間の世界では、
「俺の性格は少数派だ」
と思っている義之だ。それだからこそ、希少価値であることを「個性」として意識して、自分の中では、
「いいことだ」
と思っている。
しかし、逆にロボットの世界では、少数派どころが、主流になってしまう。それを果たして義之はよしとできるだろうか?
心のどこかでは、
「俺の考えが主流になってくれれば嬉しいが」
と、感じているが、実現するはずもなかったので、
「少数派は個性なんだ」
ということで、自分の気持ちをごまかしていたのかも知れない。
だが、主流になるのはロボット世界であれば問題ないが、人間世界では困ったものだと思っている。
元々の考え方が、
「自分は他の人とは違う」
という思いを含んだ「現実主義」であり、さらに女性に対してウブな性格など、普通考えれば、到底他の人に受け入れられる性格であるはずなどない。
義之は、香澄のことを調べた時、
「俺の性格は、彼女から受け継がれたものだ」
と感じた。
つまりは、香澄の血がどこかで交わらなければ、義之の今はない。それが気に入っている気に入っていない、どちらとも言えない性格であったとしてもである。
義之が調べた中では、香澄が義之の先祖であったという証拠はどこにもない。しかも香澄は若くして亡くなっているという事実があった。
お骨から調べた遺伝子と、自分の遺伝子を比較する限り、疑う余地もないほど、香澄は自分の先祖であることは確定している。
「一体どこで変わってしまったのだろう?」
義之は香澄が死んでから、今までの時代をいろいろ調べてみたが、そのどこにも自分と香澄を結びつける過去はない。
「歴史がどこかで変わってしまった?」
存在しないはずの自分が存在しているということ、そして、そのことを知ってしまった自分がいるということは、考えられることは一つしかない。
「俺に歴史を変えさせようとしているんだ」
今まで言われていたことというのは、
「歴史を変えることはできない」
ということであるが、ここまでお膳立てが整っていて、それを黙っているわけにはいかないという性格である義之に、敢えて分かるようにさせたということは、
「歴史が義之に変えさせようとしているとしか思えないじゃないか」
と考えた。
義之は、元々義之サイボーグを開発したのも、過去を視野に入れて見ていたからだった。
ただ、それは近い過去だったりする場合を考えてのことだった。もし、過去に戻って自分に出会った時、どれだけのリスクがあるかということだった。いくら違う時間だとはいえ、同じ次元の自分に会うのだから、何が起こるか分からないと思ったからだ。
「時間が一瞬でも違えば、それは次元が違う世界」
とも言える。
むしろ義之は次元が違うという発想の方をかなり大きく持っている。だが、百パーセントではない。そんな不確かな状態で明言できるほど、義之は自分の研究を信じていなかった。
「科学者は孤独だって言われるけど、その通りだよね」
研究している時は確かに孤独だが、それ以上に、
「百パーセントでなければ、自分の研究を信じられないという発想を持っている限り、自分を信じられないという思いは拭えない。そんな感情は自分のことを孤独だと思っていなければ感じることはないだろう」
というのが、義之の基本的な考え方だった。
義之が孤独だと思っていると、必然的に生まれてくるロボットは孤独感を前面に押し出した性格で形成されるものとなってしまう。そんなロボットが大量生産されると思うとゾッとしてしまう。
義之はロボット研究を個人で行っている。幸いにも、ご先祖からの遺産が、その考えを許すだけ残っていた。もちろん、香澄や沙織の時代には、そんな財産など欠片もなかったが、それだけ時間が経っているということだし、社会的変革も激しかったことを意味している。
義之には、いろいろ企業から、
「大量生産できるロボットの開発を」
と、いうオファーがいくつもあった。
「意志を持たないロボットであればいいです」
という話をしたが、企業側が、
「それでは困る」
と言ってきた。
企業側からすれば、管理者と労働者を一緒にしたロボットを運用し、コストを抑えるのがロボット導入の意義なので、意志を持たないというのは承服できなかった。
「じゃあ、この話はなかったことに」
と、アッサリ答えるその時の義之の表情は冷徹そのものだっただろう。依頼に来た人も、それ以上は何も言えなくなり、すごすごと帰っていくしかなかったのである。
「大量生産なんかしてしまったら、どんな環境になるか、考えただけでも恐ろしい。ここは少々冷徹にしても、相手に引きさがってもらうしかない」
というのが、義之の考え方だった。
「時間が一瞬でも違えば、そこは次元が違う世界」
という考えは、ロボット開発を考える前からあった。
実際には中学時代からあったものであり、SF小説を見て感じたことだったが、そのSF小説には、
「事実なのだが、誰も信じてはもらえないだろう」
と、最後に書かれていた。他の人ならスルーしてしまうのだろうが、義之にはどうしてもスルーできなかった。むしろ、その言葉があったので、印象深く残っていたと言ってもいいだろう。
その小説は、先祖のことが書かれていた。
ご先祖様が病気で亡くなるのだが、ちょうど、その時に脳死した人がいて、その人から、いくつかの臓器移植を受けるという話だった。普通考えられることとしては、拒絶反応の問題があり、適応できるかどうかが大きな問題になるが、恐ろしいくらいに適応した。
そこで研究者の方が二人に興味を持って、本来なら個人情報として守られるはずの、提供する側とされる側とのプライバシーに入り込むかどうかが問題になった。
研究者としては、
「医学の発展のためにどうしても」
というが、しかし、当事者や世間の意見は、
「プライバシーは守られるべき」
と言って、断固として譲らない。
この問題は、社会問題になった。
実際に、未来の教科書に載ったくらいだった。
小説では、その問題を「科学や医学の進歩のためを重視する」と考え、研究は続けられた。
もちろん、反対論者の抵抗も激しかった。研究を妨害しようとして、あの手この手を繰り出してくる。
ここまで読んでくると、普通の小説であれば、善悪がどちらにあるか、そして、誰が主人公なのかということが明らかになってきて、その観点から、小説を読みこんでいくのだが、善悪の所在を考えて読んでしまうと、嫌な気分にさせられる。
義之は、続きは読みたいが、嫌な気分になるのは嫌だと思い、考え方を変えることにした。
そこで生まれてきた発想が「パラレルワールド」だったのだ。
「今同じであっても、次の瞬間には、可能性は無限に広がっているんだ」
という発想、つまりは、中心の点から、四方八方に放射状に広がっていく形が円を描いているように見える。まるで傘を開いた時のような感覚だ。
この発想が、まさかパラドックスの世界で、
「過去に戻った時、そこにいる自分と出会うことで、パラドックスの問題が発生しないだろうか?」
という危険性は、パラレルワールドの発想をすることにより解消させることができる。つまりは、
「次元が違うので、出会うことはない。もし出会ったとしても、決して交わることのない平行線上のニアミスでしかない」
という考え方である。
それでも、あくまで仮設でしかない。もし、それが違っていて、過去に戻って、自分と鉢合わせしてしまえばどうなるのか、発想はそれこそ無限にあるかも知れない。その中の一つだけが本当に真実なのではないかも知れないが、
「真実が複数あるのだとすれば、それこそ、パラレルワールドの信条ではないのだろうか?」
と考えられた。
その本を読んだ時、
「俺はロボット工学の勉強がしたくなった」
と初めて感じた。その本が自分の人生の最初の「バイブル」になったといえなくもないだろう。
ロボット工学の勉強は、最初から機械としてロボットを見ていなかったことから、続いているのかも知れない。最初にロボットに興味を持ったのは、タイムマシンやパラレルワールドというSFの世界からの発想が伴っていたことから発したものだったのだ。
他のロボット工学の研究者に話を聞いていると、ほとんどは、ロボットの形状や、役割についての興味を持ってからの人ばかりであった。義之のように、SF小説の発想から入った人はあまりいない。そんな義之を他の人は、
「純粋な動機で始めたわけではないようだ」
と思っているかも知れない。
それはそれで仕方がないと思った。もし義之が逆の立場なら、同じことを考えたに違いないと思うからだ。
ロボット研究をしていることで、今度は自分がかなり過去のご先祖様を探ることで、今の自分を「助ける」ことになるなど、想像もしていなかったことだった。
実際には、ロボットを送り出すことにも一抹の心配がある。しかし、自分が赴くことで、本当に冷静な判断ができないのではないかと思うのも事実であって、一番いいのは、最初の固定観念を持つ前に、ある程度の情報収集にアンドロイドを使い、その後は、その時に考えればいいという考えだったが、現時点では一番いい考え方だった。
義之は、ロボット開発に対して、甘い認識でいたことを、今さらながらに思い知らされた。それは、「恋愛感情」というものを、まったく考えていなかったことだった。
義之自身、自分が恋愛感情を他の人に抱いたことがなかったからで、それが「ウブ」と考える一番の理由でもあった。
ただ、しいて言えば、義之でなくても、この場面で「恋愛感情」を考える必要などないはずだった。なぜなら、かたや人間、かたやロボットではないか。
「恋愛感情など起こるはずなどない」
と思うのが当然であって、義之も考えなかったのは、
――怪我の功名――
となるはずだった。
しかも、義之サイボーグには、恋愛感情を抱く作用はなかったはずなのだが、どこかぎぎくしゃくした考えが彼にはあった。
表から見た義之には、なぜかそれが恋愛感情であることが分かった。ウブではあったが、「(ロボットといえど)自分のこと」でなければ、気が付くのだ。
しかも、それは香澄の中にも存在した。
義之サイボーグは、自分のことを分かってもらいたくて、
「俺はサイボーグなんだ」
と、嫌われるのを覚悟で告白したのだが、香澄の口から意外な言葉が飛び出して来た。
「サイボーグでもいいの。私はあなたのことが忘れられなくなったの」
その言葉を聞いて、彼は頭の中がショートしそうになった。
人に恋すること自体、どうしてしまったのかと思っているうえに、人間の女性を好きになり、さらに、その女性から『好きだ』と言われたのである。ショートしそうになっても、当然のことではないだろうか。
人間の義之は困惑した。
サイボーグはあくまでも、香澄の性格、そして、どうして自殺する気になったのかを探るために送り込んだ、最初の「偵察」でしかなかったはずだ。それなのに、完全に自分の想定外の展開に、サイボーグがショートしてしまいそうになっているのなら、テンパってしまった義之に、もはや操縦者として、その小さな世界を支配するだけの気力はなくなった。
小さなその世界は、義之にとっては、小宇宙に匹敵するくらいの大きさだった。自分の一生と比較してもできるくらいに大きなものだという考え方だ。
送り込んだサイボーグが、香澄とどのようにして知り合うことができたのか、最初から義之は計算していたわけではない。最初から計算などしてしまうと、きっと知り合うことはできないだろうと思っていた。その理由は、
「ロボットと人間が知り合うのだから、人間と人間が知り合うようなわけにはいかない」
という考えだった。
本当は人間と人間が知り合う方が大きな問題ではあるが、違う意味でロボットと人間は知り合うのは難しい。理由としては、
「ロボットと人間は、構造からして作りが違う」
というものだった。
そして、ロボットは、人間によって作られたものだという決定的な優位性は、自分が創作者でなくても、同じことだった。
義之は、最初義之サイボーグが香澄のことを好きになったことを知らなかった。
サイボーグは、ある程度の意志を持って動くように設計されていたが、感情に対しての意識はあまり感じないようにしておいた。
それなのに、義之サイボーグが彼女のことを好きになったというのは、それだけ彼女が魅力的だったということなのか、それとも義之が女性に対して、好きになったら一直線になってしまう性格なのかのどちらかであろう。
人間の義之は、香澄を見て、
「彼女と同じ時代にいたなら、好きになったかも知れないな」
と思える女性だった。
それは、自分の先祖であるということを差し引いてでもある。もし、自分の先祖でも何でもなければ、好きになった気持ちが膨らみ続けると考えていた。
だが、考えてみれば、先祖と言っても、血の繋がりがあるわけではない。性格だけは確かに香澄は自分の先祖であるのは間違いない。その事実をどう解釈すればいいのか、義之は悩んでいた。
「元々、血の繋がりがあることで、好きになってはいけないという根拠は、一体どこにあるというのだろう?」
日本の歴史を考えてみれば、古代からの日本は、近親相姦の歴史もあるではないか。血の繋がりがあるものから子供が生まれて、どんな弊害があるというのか、それこそ都市伝説や迷信の類ではないかと思うのだった。
ただ、都市伝説の類は、信じられないと思いながらも、
「信じなかったことで、何が起こるか分からない」
という思いも拭い去ることができない。ここが、義之は自分の嫌なところの一つであった。
一番嫌なところだと言っても過言ではないかも知れない。
「人と同じでは嫌だ」
と、思っているくせに、それでも、
「怖いものは怖い」
と考えている。
それがジレンマになって、次第にトラウマに変わってしまうのではないかと恐れている。その恐れを感じること自体、じれったい気がして、余計なことを考えている自分が嫌になる。
余計なことを考えるというのは、そのほとんどは自分以外のことを考えているということだ。自分のことであれば、あまり余計なことだという発想はない。少なくとも、ジレンマに陥る片方は、
――自分を他人と比較して感じることだ――
と思うからだ。
義之のそんな気持ちまでもが移植されたサイボーグにとって、人間の女性を好きになるということは、ジレンマに陥る最大級の苦悩だったに違いない。
もっとも、最初からサイボーグにはジレンマの要素は含まれていた。人間のように意識や意志を持つように設計されながら、感情を判断できる機能を埋め込まれていなかったり、
「お前は人間じゃないんだ。サイボーグなんだ」
という意識を埋め込まれていた。
さらに、ロボット工学基本基準を埋め込まれている中で、義之の脳の考え部分を移植しているのだから、
「自分は他とは違う」
という意識を強く持っている。それこそ人間に対しての「安全装置」であるロボット工学基本基準とのジレンマに陥るのではないだろうか。
ロボット工学基本基準は、人間中心であり、自分を捨ててでも人間の利益のためになることが重要なのだ。
人間も悩みが絶えない人は多いが、突き詰めてみれば、悩みというのは、
「何かと何かのジレンマから発生しているものだ」
と言えるのではないだろうか。
そう思うと、
「サイボーグも人間が作り出したものだ」
と言うことになる。
まるで禅問答のようだが、
「では、人間は一体誰に作られたんだ?」
という発想になるが、一般的に言われているのは、
「神というものが存在していて、神様によって作られた」
と言われるが、
「では神も人間のように悩んだりジレンマに陥ったりするものなのだろうか?」
という考えも成り立つ。そういえば、古代の人間の書いた神話の中では、神も人間と同じ姿形をしていて、神の世界でも、上下関係が存在していて、嫉妬や悩みを抱えている姿が描かれている。
それは、
「神も人間と何ら変わらない存在である」
ということであり、
「神を何かのプロパガンダに使ったのではないか?」
という考えも成り立たないわけではない。
そういう意味では、ロボット工学基本基準を埋め込まれたロボットは、人間から見た神のような存在を人間に抱くのではないだろうか? すべてのロボットが人間に服従し、そして自分を犠牲にしてでも人間を守る。それがロボットなのだと言われてしまえば、ロボットに対しては、嫌でも別の存在に感じられ、そこに恋愛感情など抱くはずもない。
それは、人間側から考えても、ロボット側から考えても同じはずなのに、香澄と義之サイボーグに関しては、相思相愛なのだ。
――きっと相思相愛じゃないと成り立たなかったんじゃないかな?
後になって冷静になった時に、人間の義之が考えたことだ。
人間の義之は、生きている香澄先生を、タイムマシンで見に行ったことがあった。もちろん、会うことがないように細心の注意を払いながら、香澄の時代で言うビデオカメラに収めていた。ある程度の行動パターンを知る必要があったからだ。
香澄の時代と、義之の時代では、明らかに美的感覚が違っていることを感じた。
香澄は、彼女の時代では、それなりに男性好みのする顔だった。表情も豊かで、恋愛感情もさることながら、
「好感が持てる」
と言われる雰囲気を持った女性だった。
だが、ここで二つ、義之に誤算が生じた。
「ロボットの美的感覚は、人間とは違う」
ということだった。
そして、もう一つは、
「香澄が、ロボットでも好きになれる女性である」
ということだった。
この二つの不測の事態は、義之を困惑させ、最初の計画が何であったのかを忘れさせるほどの驚愕を与えてしまった。
だが、それでも最初からそのことに気付いていれば、何とかなったかも知れないが、途中で知ってしまったのでは、どうしようもなかった。
義之は複雑な気分だった。
それは、
「自分がサイボーグに嫉妬した」
という事実を認めなければいけない。
ということ、そして、本当なら自分の中の美的感覚とは違うはずの香澄を好きになってしまっている自分に戸惑っていた。
「これは、サイボーグに対して嫉妬してしまったことによる錯覚に違いない」
と感じたが、本当にそうであろうか?
「人と同じでは嫌だ」
という義之は、他の男性と女性の好みでバッティングすることはなかった。
思い返せば、自分が人と同じでは嫌だと最初に感じた根拠は、
――自分は、人と違うところが多い――
ということに気付いたからだ。それが派生して独り歩きを始めた考えで、行きついた場所が、
「人と同じでは嫌だ」
という発想だったのだ。
その考えの元になったことこそ、中学三年生になって異性に興味を持つようになってから感じた、
「俺は皆とは女性の好みが明らかに違っている」
という感情だった。
その時に好きになった女性は、香澄とは似ても似つかない女性であった。
これは後で知ったことだが、その女性の雰囲気は、実は沙織に似ていたのだ。香澄のように物静かで気が強い女性というよりも、社交的なくせに、どこかいつも寂しそうな雰囲気を醸し出している女性、いわゆる、
「守ってあげたい」
と、感じるような女性だった。
義之が好きになる女性のパターンは、この時に感じた
「守ってあげたい」
という発想が原点になっていた。
義之の時代の男性は、それほど強い存在ではなかった。女性の方がしっかりしていたのだ。
香澄の時代の二世代前くらいからだろうか。徐々に、
「男女平等」
の世界が出来上がって行ったが、まだ男子と女子の立場が逆転するところまでは行っていなかった。
確かに香澄の時代から義之の時代までの間の百年と少しの間に未曾有の大惨事があり、まったく違った世の中が出来上がっていた。それを、
「世の中の浄化だ」
と言っている人がいるが、その根拠として、
「過去からの歴史が証明している」
というものだったが、本当にそうなのだろうか?
香澄の時代には、まだ男性の方の立場が強かった。それでも男性の職場に女性が登場し、メディアへの露出など、女性が目立ってきていた。アナウンサーやキャスターなどがいい例である。
その頃になると、男女同権という状況になってきたのだろう。しかも、さらに輪を描けるように、女性擁護の法律も増えてきた。
もっとも、それまでなかったのが不思議なくらいなのだが、ストーカー防止法など、代表的な例であろう。
ただ、何事も行き過ぎるとロクなことはない。
女性が強くなると、女性に対しての男性の不満が大きくなってくるのも仕方がない。
特に昔の歴史を知っている人は、男性の強さ、女性にない強さを強調しようとする。
香澄の時代から何十年くらい経ってからのことだったか、男性が自分たちを強調し始めると、女性もそれに負けじと反発する。
特に女性は、
「子供を産むことができる」
という強みがある。
確かに男性も、
「男性がいなければ、女性は妊娠しない」
という理論で対抗するが、いささか弱さがある。
もう、そうなってくると、恋愛感情抜きに、異性に対しての恨みや憎悪の問題しか表に出てこない。
しかし、男女が愛し合うという恋愛感情は、人間にとっての欲の一つである「性欲」の問題になってくる。
性欲だけを満たすのであれば、世の中にいくら法律があったとしても、犯罪の絶対数が増えれば、対応できなくなる。事件は未曾有に増え、警察力ではどうにもならない。警察の権威は失墜する。
元々、警察の力などたかが知れていた。
「警察は、どうせ何か起こらないと、何もしてくれない」
という発想は昔からあったではないか。
警察を誰も信用しなくなると、もう世の中は無法地帯であった。
そこで政府が頼りにしたのが軍隊だった。当時の日本にはまだ「自衛隊」という組織があったが、実態ほぼ軍隊に近いものだった。
しかも、アメリカとの安全保障の問題で、兵器は最新鋭。暴動がいくら大きくても、クーデターが成功することはありえなかった。
つまり、自衛隊を出動させることは、滅亡に向かっての「パンドラの匣」を開けるのと同じことを意味していたのだ。
暴動を起こしている連中の中には冷静な人もいて、
「ある程度でやめておかないと、自衛隊が出動してくるぞ」
と、指摘する人がいたが、それでも、大多数の人たちは、警察を一蹴できたことで、
「警察だって俺たちに歯向うことはできなかったんだ。自衛隊がなんぼのものだっていうんだよ」
「君たちは、自衛隊の実力を知らないんだ。今の兵器で自衛隊の統率された組織力に対応できるわけはないんだ。一歩間違えると、全滅させられるぞ」
と声を荒げてみたが、もう引き返すことができないところまで来ていた。
「ここまで来たんだ。やるしかないだろう。ここで引き下がったら、俺たちに未来はないんだぞ」
そう言われると、トーンも下がってきた。
――確かに自衛隊が出てくれば、全滅させられるだろう。だが、彼のいうように、投降してしまえば、自分たちに明日はないんだ――
そう思うと、
「引くも地獄、進むも地獄」
ということだ。
――それなら、玉砕してでも、進むしかないのかも知れない――
投降しても、自分たちの言い分が通るわけがない。それはかつての歴史がすべてを証明している。我々の主張が、メディアに流れてしまえば、鎮圧する方にも意味がなくなってしまう。向こうとしても、
「やるなら、徹底的に壊滅させるしかない」
という「覚悟」を持っていることだろう。
鎮圧する方も、国民から、
「血も涙もない」
と言われることを覚悟しているはずだからである。
結果は見えていた通りの玉砕だった。
ただ、めでたしめでたしとはいかなかった。ここでのクーデターは、これから起こる未曾有の大惨事のプロローグでしかなかったからである。
クーデターは、一分子に限られていた。男性の権威を復活させたいというだけの団体が起こしたクーデターだったものが、自衛隊の軍隊化や、親アメリカ派の連中に嫌気が差していた人たちの結束力の強化に一役買ったのだ。
元々、彼らは個人的には不満を持っていても、つるんでまで行動を起こすようなことはしなかった。勇気がなかったわけではなく、クーデターを起こした連中ほど、熱血ではなかったのだ。
もちろん、水面下でいろいろ活動は行っていた。歴史の認識勉強会や、現在の社会におけるいろいろな立場の人がいるので、彼らからのレクチャーなど、一歩一歩先に進んでいた。
さらに、武器の調達にも余念がなかった。クーデターを起こした連中も、バカではない。当然、武器の準備はできていた。それでも、一国家を敵に回すのである。無謀なのは誰の目にも明らかだった。
クーデターを鎮圧する側も、他にクーデターを企むかも知れない団体があるのは百も承知だった。したがって、クーデターが起こった時に、鎮圧した後で彼らの処分に「情」を感じてはいけなかった。断固とした態度で挑まないと、後が大変なことになるのが分かっていたからである。
「彼らは、『見せしめ』にされたんだ」
と、相手に思わせるのが作戦だった。
ただ、それは、
「俺たちには敵わない」
と、失意に陥れることに成功するか、はたまた、
「彼らの弔い合戦を挑む」
と、却って血気盛んにさせてしまい、火を付けてしまうか。いわゆる、
「諸刃の剣」
でもあった。
しかし、その時の状況で一番いい判断は、
「完全なる鎮圧」
だったのだ。その後どちらに転ぶかというのは、結果論でしかない。悩む余地は、その時の鎮圧側にはなかったのである。
しかし、鎮圧する側の首脳は、過去の歴史をしっかりと勉強していたはずなのに、実際にクーデターが起こると、歴史認識は頭から消えている人が多かったというのも、皮肉なことである。
確かに、
「あの時は、完全な鎮圧しかなかったんだ」
と、分かっていても、今までの歴史から、
「クーデターを完全鎮圧した後、当時の権力が失墜したり、戦争に発展することになったりする可能性が圧倒的に多い」
ということに気付かなかったことは、自分たちに「後悔の念」を植え付けた。
「後悔の念」というのは厄介なもので、一度抱いてしまうと、消えることはない。事態が収束してしまっていればいいのだが、さらにひどくなっていけば、誰もが胸の中に残ってしまった「後悔の念」を忘れることになる。
「後悔の念」は、
「百害あって一利なし」
であった。
消えるどころか、小さくなることもない。忘れられなくなると、これからどんどん緊急の判断力が増してくる時、「後悔の念」という障害が、すべての判断を鈍くする。
判断が間に合わなかったり、間違ったりしてしまう可能性が増えてきて、致命的な事態を招くことになるだろう。
だが、「後悔の念」だけを抱く必要もない。
歴史の中には、クーデターを根絶やしにしなかったことで、将来、自分が滅ぼされてしまう出来事も大きな事実として残っている。
源平合戦における、「平清盛」を考えれば、分かることだった。
情を感じて、敵の息子である源頼朝を島流しというだけで生かしてしまったことで、最後は平家一門の滅亡を迎えるのだ。その後、天下を統一した人が、敵を根絶やしにしたことを考えれば、やはり、
「完全なる鎮圧」
に対して、迷いを生じる必要もないのだ。
「歴史は繰り返す」
と、言われるが、それは二つの考え方がある。
一つは、政治家などが過去を勉強することで、世の中を統治するための、
「現実的にリアルな研究」
であり、もう一つは、科学者がこれからのロボットや人間の特質を知って、新しい生命の誕生に必要不可欠な
「空想的でサイエンスな研究」
と言えるものではないだろうか。
繰り返された歴史は、
「点と点を線で結ぶ」
という作業に結びついてくる。
繰り返されたものは、点と点が点在しているだけで、それを理解するには、歴史の流れを知る必要がある。政治家も、科学者も歴史に背を向けて生きていくことができないのである。
それから起こった未曾有の大戦争に関して、ここで言及することは難しい。生き残った人間によって復興が行なわれ、今の時代に達したのだが、この時代になると、女性の人口が圧倒的に減少していた。
元々女性は減少傾向にあったのだが、復興が行なわなければいけないのに、女性は男性の四人に一人というくらいまで減少していた。
これでは子孫を残すという以前に、目の前の復興すらままならない。ロボット研究が急務になったのもそのためだった。
それでも科学の進歩は目覚ましかった。十年で、すっかり以前の社会に戻った。ここまで復興がうまく行ったのは、大惨事という戦争が起こった時、最後の「パンドラの匣」である核兵器が使われなかったからである。
その代わり、中性子爆弾が使われ、建物はそのままに人間だけ殺傷するということで、軍事施設以外の一般人の住宅などは無傷で残ったところが多かった。
ただ、それでも、中性子爆弾は、
「悪魔の兵器」
と言われたのも事実だった。
「人間だけを抹消するなんて、神をも恐れない仕業だ」
という人もいた。
世間の意見も中性子爆弾に関しては賛否両論だったが、義之は、頭の中で何とも言えない気分になっていた。
「破壊しないだけで、核兵器と同じではないか」
とさえ考えていたほどだった。
復興された社会で女性が少なくなってしまっていたのも、
「自業自得なのではないか」
と、戦争の悲惨さと罪深さを考えさせられた。
とはいえ、そんな時代も義之が生まれる前のことだった。
詳しいことは歴史からしか学んでいない。目の当たりにしたわけではないからだ。
タイムマシンが実用化されたとはいえ、戦争前の時代、戦時中、そして復興の時代を子の目で見ようとは思わない。
「すべては過ぎてしまったことだ。実際を知らない俺なんかが、その時代をリアルに覗こうというのは、罪なのかも知れない」
と、思っていた。
ロボットの研究が急務になっていく中で、義之も元々大企業のロボット研究所に在籍していたのだが、どうも自分と考え方が違っているのを感じ、いずれは独立するつもりだったので、
「少し早くなっただけだ」
という思いの元、思い切って会社を辞めてしまった。
そのまま企業の中にいれば、それなりの地位や名誉も掴めたかも知れないという思いもあったが、
「俺には似合わない」
と、すべてをかなぐり捨てた。
「やっぱり、俺は他の人と一緒では嫌だということだ」
と、苦笑いをしたその時のことを今でも覚えている。退職して最後に会社から表に出て、空を見上げた時に感じたことだった。
眠くもないのにあくびが出てきて、思わず身体を思い切り引っ張り上げるような伸びをした。会社に入ってから、それまでにもしたことがあったかも知れないが、
「こんな気持ち、初めてだな」
と感じたのだ。
ロボット研究をするうちに、
「まずは、自分のコピーロボット。それもサイボーグを作りたい」
というのが、第一目標になっていた。
それが、ちょうど三十歳の頃だった。
義之は自分のサイボーグを三十代の自分にした理由の一つは、この時に感じたことからだった。
だが、それが五十歳になって、香澄に会いに行くために、このサイボーグを使うことになるなど思ってもいなかったので、ある意味、
「怪我の功名」
だったと言えるだろう。
義之は、自分のサイボーグに、
「今の自分のどこまでの考えを移植しよう」
と考えたのだろう。
五十代の今から、三十代の自分を思い返すと、相当昔だった。時間的にもそうなのだが、あの頃に何を考えていたのかというのを思い出すのも困難だった。
「別にあの頃の自分でなくてもいいんだ」
と、思うようになるまで、少し時間が掛かった。そこが、現実的な考え方を持っている義之の性格なのかも知れない。
義之は、ロボットに自分の気持ちを入れ込む段階になって、研究所で、今までに見たことのないものを感じた。
その日は普段よりも少し研究所が暗めであるという思いを抱いていたが、
「疲れているのかも知れないな」
という程度で気にもしていなかった。
今までにも研究室の暗さを感じたことは何度かあったので、それが何かの前兆であるなど、想像もしていなかったのである。
いつもあれば、暗いと思っても、五分もすれば目が慣れてくるのに、十五分経っても、目が慣れてくることはなく、暗さを感じたままだった。
さすがにいつもの三倍も暗さを感じていると、
「おかしいな」
と感じるのも無理のないことである。
目の焦点が合っていないことに気付くと、急に身体から力が抜けてくるのを感じ、軽い頭痛に見舞われているのも分かっていた。
「うわっ」
さっきまで暗いと思っていた部屋の中で、何かが急に光ったのだ。
「何のスパークなんだろう?」
雷のように見えたがそれも違う。スパークが収まっても、すぐには目を開けることができなかったが、しばらくして目を開けると、今度はさっきまで暗いと思っていた部屋が、いつも感じている明るさに戻っていたのに気が付いた。最初は何が起こったのか分からなかったが、考えていくうちに、
「部屋が暗かった間、ひょっとして時間に歪みのようなものがあって、それを元に戻そうと、部屋が暗くなったり、一瞬のスパークを見せたりしたのだろうか? 目の焦点が合っていないように感じたのも、スパークを予感させるための必然の出来事だったのかも知れない」
そう思うと、ロボットに埋め込む自分の意識についての悩みが次第に氷解していくのを感じた。
「余計なことを考える必要なんてないんだ。今思っていることをそのまま、実行すればいいんだ」
言葉では説明できないが、考えていることを実行するだけなら、そんなに難しいことではない。余計なことを考えて、無限ループに入り込んでしまえば、それこそ、ロボットと同じで、
「フレーム問題」
を引き起こしてしまうからだった。
スパークを見た瞬間、何かを忘れてしまったような気がしたが、同時に何か閃いた気がした。
忘れてしまったことを思い出すのには、相当時間が掛かりそうな気がしているが、閃いたことが何であったのかを感じるまでには、少しの時間でいいように思えた。ただ、忘れてしまったことを思い出さないと、閃いたことをすべて引き出すことができない。忘れてしまったことの中にカギが隠されていると思ったからだ。
ただ、一つ感じたのは、これが偶然ではないと思えたことだ。
サイボーグに自分の気持ちを移植するのに生じていた迷いを、今のスパークが解決してくれたと思えたからだ。
「案ずるより産むが易し」
まさしくその言葉通り、スパークが義之の心の奥に持っている本能を引き出したのかも知れない。
本能というものが、そもそも普段はどこにあるなのか分からないが、いざとなると、
「モノをいうのは本能である」
と、言わんばかりに活躍の場を求めているかのようだった。
義之は、自分の本能を意識の中では感じていると思っている。口で説明するのは難しいが、口で説明できないものだからこそ、本能なのかも知れない。
サイボーグの中には、義之自身、意識していないことも入っている。それをすべて本能として片づけることができないかも知れないが、
「他の人との違いを、一番前面に打ち出して行きたい」
という思いがあったのも事実だった。
その本能が、いかんなく発揮されていた。その自信があったからこそ、義之はサイボーグを自分の代わりに送り込むことに抵抗を感じなかったのだ。
だが、計算外に生じた誤算はいかんともしがたく、人間を好きになるなど、想像もしていなかったことだ。確かに三十歳代の頃の義之は、人をすぐに好きになる方だった。
それが自分の人生の大半であるかのように思っていて、惚れっぽいという性格を我ながら好きな性格だった。
この頃は、人と同じであることを好きにはなれかったが、嫌いだというところまでは思っていなかった。それは個性というものを前面に出しながら、人との調和を考えていたからである。
年齢を重ねるごとに、どちらかの選択を迫られてくるのを感じると、迷わず、調和よりも、自分の「個性」を選んだのだ。
三十代というと、その分岐点に当たる頃だったかも知れない。
多感でもあり、個性を望む時代、さらには中途半端なことを嫌う時代でもあった。
それぞれを併せ持つということは、それだけ中途半端な自分を浮き彫りにした時期でもあった。
「いいことよりも悪いことの方がどうしても気になってしまう」
それだけ悩み多き時期であったが、五十歳になった今から考えると、やはり人生の分岐点はそのあたりにあった。
「それまでは、自分は年を取ってきたと思ってきたが、分岐点を通りすぎてからは、年齢を重ねてきたというイメージの方が大きくなってきた」
と、思ってきた。
中途半端ではあったが、一度にいろいろなことを考えてきたおかげで、それまで点と点であったものが、線で結ばれるようになったのだ。
さらに、その頃から自分の中にある本能を意識できるようになった気がした。それまでも本能を意識したことがあったが、本能が自分にどういう影響を与えるかということが分からなかった。漠然として影響があることは分かっていたのに、具体的には何ら分からなかったのだ。
だが、三十歳代を超える頃から、
「本能が影響を与えたのは、自分の意識に対してである」
と感じるようになった。
サイボーグに埋め込まれた義之の意識は、勝手に独り歩きをしないように設計していたが、義之の心の中では、
「それも致し方ないか」
という考えがあった。
いつからそんな気持ちになったのかというと、
「スパークを見た時だ」
と言えるだろう。
「もし、それが神の意志ならば……」
とまるで宗教じみた考えになったが、歴史に足を踏み入れた時点で、
「結局は歴史に逆らうことはできない」
という結論に落ち着くことは覚悟していた。逆にこの結論を自分で納得させるために、歴史に足を踏み入れる気持ちになったとも言える。
大学に在籍していた頃に、教授と話をしたことがあるが、その時の義之は、まだまだ勝気で野望のようなものすら持っていた。だが、そんな「熱い」義之の熱を冷ます効果に一役買ったくれたのが、いつも話をしていた教授だった。
「歴史を変えられないというのは、勉強すればするほど、裏付けられているように思えてならないですね」
というと、
「歴史は変えようとするものではなく、『証明』しようとするものじゃないかって私は思うんだよ」
教授は歴史学者であり、人間心理学者でもあった。当時、ロボットに興味を持ち始めた義之は、心理学の部分で教授の意見をいろいろ参考にしようと思っていたのだが、本格的にロボットのことを考え始めると、歴史に対して興味が深まっていた。
それは、過去から今までロボットについていろいろな学者や研究員が研究を続けてきたが、実際に実用化されるまでには至っていない。
コンピュータなどは、一気に開発が進んだにも関わらず、ロボット開発に関しては、いくら難しいと言っても、あまりにも歳月が立ちすぎている。
ロボット開発に関して義之は、他のことと違った目線で見るようになっていた。最初はそのことに気付かなかったが、気付いてみると、
「この思いが、他の学者にもあるんじゃないかな?」
と思うようになっていた。
ロボット以外の開発に関しては、基本的に前だけを見て研究を始める。
もちろん、研究に当たって開発に障害が出ないように、細部にわたって気にするのは当たり前のことで、
「どこを重点的に大切に見ていくのか?」
と聞かれると、
「全体的に万遍なく見ながら、研究を進めていくうちに判断して行きます」
と答えるだろう。
ただ、ロボット開発に関しては逆だった。重点的に見る部分は、最初から義之の目には見えていた。それだけ他の開発に比べて、先を見据えることができているだけ有利なはずだった。
だが、実際に何を先に見るかがしっかりしているだけに、次の一歩が分からない。二歩目が実質的な第一歩になるからだ。そう思ってくると、他の研究のように前だけを見つめていくわけには行かなくなる。そのことを教授に話すと、教授も考え方としては、おおむね同じことのようで、
「ロボット開発では最初に重点項目が分かっているだけに、万遍なくまわりを見ることができなくなる。それはせっかく分かっている重点項目を見失ってしまうという危惧が自分の中に芽生えてしまうからだよね」
「そうですね。他の開発のように、まわりすべてを見つめることが不可能なんですよ。だから、ロボット開発は途中から霧に包まれたように思えてくるんですよ」
「ロボット開発が思ったように進まないのは、そういうところに原因があるんじゃないかって思うんだ。一歩進んでは、また後ずさりしたり、進んでから確認できたことを、再度戻って確認するような感覚、一進一退を繰り返すような感じだね」
「それがロボットに対して堂々巡りを繰り返すことになるんじゃないかって、僕は思っています」
「そうかも知れないね。ロボットは人間の命令に絶対服従なので、人間以上の意識を持ってはいけない。それは判断力という本能に近いものではなく、他の動物にはない人間臭さを意味しているんだ」
「でも、僕は人間臭さほど、本能に近いものはないような気がしますよ」
「それは人間の目から見たものだよね。もし、ロボットに意識があれば、人間臭さを本能だとは思わないと思うよ」
「それはどういうことですか?」
「私は、本能という言葉を、『動物的な野生の感覚』だと思っているんだ。だから、人間が意識していない部分に近いのではないかとも思っているんだ」
「じゃあ、人間臭さは本能ではないと?」
「ここでいう本能という意味ではね。人間臭さは人間だけが感じている『エゴ』を、都合よく表現するのに、本能という言葉を使っているんじゃないかって思うんだ。君が人間臭さを本能だと思うのなら、自分のことを『人間臭い』と思っている証拠だよ」
「そうかも知れません。僕はいつも『他の人と一緒では嫌だ』と思っているところがありますからね。それを個性だと思っています。個性こそが自分の信条だと思うことで、他の人とちょっとしたトラブルがあった時、個性を人間臭さだと思って、正当化しようとしている自分を感じることがあります」
「それは、悪いことではないと思うんだけど、ロボット開発に関しては、その考えがどこかで自分に壁を作っているんじゃないかい? 私には、それがいずれ『結界』のようなものになるのではないかと思うんだ。そして、そのことできっと君は思い悩むことになる。その時に君が、どこで開き直ることができるかだろうね」
「開き直りなんですか?」
「そう、人間臭さと個性の問題は、開き直って考えることで、何かの答えが出ると思う。その時に、出てきた答えを君が受け入れることができるかどうか。そのことに掛かっているんじゃないかな?」
教授との会話を、まるで昨日のことのように考えていた。
「血気盛んだと思っていたけど、会話を思い出せば、俺も結構冷静に話を聞いて、自分なりの判断をしていたんだな」
と思えてきた。
その思いが、三十歳になった自分に、一つの転機をもたらした。いろいろな意味で発見があったのだが、その中の一つが、
「ロボット研究には一進一退が必ず必要なんだ」
という思いであった。
それは、ロボットが自分の分身であり、ロボットの一部分を一つ開発すれば、その臨床のためには、自分の気持ちを再認識する必要があった。
実際には、ロボットに一石を投じるよりもはるかに難しい。コンピュータ開発のように、「設計した通りに動けばそれでいい」
というそんな簡単なものではない。
「ロボットは心を持ってはいけない」
という考えが、義之の大学時代に、一つの流派として存在していた。
「ロボットはあくまでもロボット。基本基準にしたがって、それ以上の意識を持つことは許されない。それこそ、神への冒涜と同じだ」
という考え方である。
この考えが勢力を持っていたのも当然のことであった。
もし、この考えがなければ、ロボットが意志を持つことに対して制御がなくなり、開発は先に進むかも知れないが、いつかは、どこかで引っかかるはずだからである。
先に行って引っかかるよりも、意志を持つ前に、一つの警鐘を鳴らすという意味でも、反勢力の存在は必然のものだった。
政治にも与党があって野党がある。「抑え」の部分がないと、歯止めが利かないのは、誰にも分かっていたことだろう。
だが、それは理屈で分かっていたわけであって、納得していたわけではない。自分の守護を主張する方は、必死になる。相手も負けじと必死になることで、次第に論争も過熱してくる。
中には過激な連中も出てきて、ロボットに対しての研究というよりも、人間同士での論争が次第に、闘争に変わってくる。
絶えず一触即発であった。さすがに戦争になったりはしなかったのは、
「誰も戦争などしたくない」
という思いと、
「過去の歴史が、闘争からは滅亡しか生まない」
ということを分かっていたからだ。
歴史の勉強が大切なことはそのことでもよく分かる。
ロボット研究が、まだまだこれからだと思っていた頃がまるで昨日のことのように思い出せた。
今では、
「ロボットは心を持ってはいけない」
という考えは残っているが、最初の頃ほどの勢力はなく、ただの少数派に落ち着いた。
彼らの勢力が衰えたのか、それとも、ロボット研究が先に進んだのか、その微妙なところだったように思える。
心を持ってはいけないという団体の力が、抑制力であり、逆にロボットが意志を持つことを研究している連中に力を与えたのも事実だった。もし、反対勢力がなければ、
「自分たちの意見は、間違っていない」
という意志を持ちながらも、一抹の不安は拭いきれなかったに違いない。
義之は、コウモリの特性を思い出していた。
コウモリというのは、自分の目が見えないことで、超音波を飛ばし、その反射によって、まわりに何があるかを察知する。
それと同じで、一つの発想しかなければ、反応も帰ってこない。正しいと思っていることでも、それが本当に正しいのかという判断を下すための材料が存在しないのだ。
そう考えていくと、まるで、
「暖簾に腕押し」
の状態だと、進歩もしなければ、自分が正しいと思っていることに対して、自分で疑いを持つようになる。疑心暗鬼に陥ると、そのうちに自分が信じられなくなる。
人によってはロボット研究というだけではなく、自分自身すべての意味で疑心暗鬼に陥ってしまえば、下手をすると、ある程度立ち直ってきたとしても、それは自分の限界を知ることになり、ロボット開発において、
「再起不能状態」
に陥ってしまうかも知れない。
そういう意味では、自分の限界を知らない人というのは、限界を感じるようになるために、何かの「起爆剤」が必要である。自分の信念を持っている人には、反勢力は恰好の限界を知る意味での存在であり、一歩立ち止まるためには必要なものであることは明らかだった。
義之は、以前から自分の限界に関して、絶えず考えている方だったので、反勢力の存在に、限界という意味での効果はなかったが、それでも、一歩立ち止まって考えるにはいい機会だった。
もし、そんな機会がなければ、一歩立ち止まることもなく、無限に広がっている前の世界に、無謀な行進を続けることになっただろう。
だが、それは本当に無限に前に進んでいるのだろうか?
「堂々巡りを繰り返しているだけなのかも知れない」
と、感じることがあった。
その理由は、夢の中にあった。
今までに見た夢で一番怖かったのは、
「自分の夢に自分が出てきた」
という夢だった。
その時の自分は、五分先を歩いている自分だったのだ。五分先を歩いている自分に追いつけるわけはない。
「もう一人の自分がUターンして戻ってきたら、自分と重なるような状態になった時、どうなるのだろう?」
と、おかしなことを考えた。
「どちらかが透けて、もう一人の自分を通すことになるのだろうが、もし、透けて相手を通すのが、今考えている自分だったら、どうなるのだろう?」
それも、ありかも知れないと思った。
その理由は、
「五分先を歩いている自分も自分なんだ。五分先の自分が今の自分を意識しているとすれば、二人は『夢を共有している』と、言えるのかも知れない」
と感じた。
ただ、そうなると、今の自分が見ている夢も、五分前の自分を気にしていることになる。
「ということは、夢の中で自分を永遠に意識し続けることになるんじゃないか?」
それは、自分の前と後ろに鏡を置いて、自分を映し出す鏡を、さらに自分が見ていて……。要するに、影の無限ループを繰り返すことになるのではないだろうか。
義之は、夢の中で、堂々巡りを感じていた。そして、五分先の自分が、今の自分に気が付いて、後ろを振り向いた時、目が覚めるのを感じた。
夢は一気に覚めた。夢を見ていたという意識が飛んでしまうほどだった。
夢を見ていた自分、そして目を覚ました自分。まったく違う人物になった気がした。
「今の俺は、果たして五分先の俺なのか、五分前の俺なのか、それとも……」
ついつい余計なことを考えてしまう。夢というのは、怖い夢ほど覚えているというが、まさしくその通りだった。
「俺は考えすぎるくせがあるのかな?」
自分のサイボーグに自分の性格を入れ込んだのだから、サイボーグも考えすぎるところがあるかも知れない。理屈を順序立てて考えられればいいが、考えきれないと、やはり堂々巡りだ。
元々、整理整頓ができない性格の義之なので、頭が混乱することもしばしばだった。
「サイボーグだったら、逆に客観的に自分を見れるかも知れないな」
サイボーグは、ロボット並みに謙虚であれば、考えすぎるところがあっても、自分で納得しながら考えるだろう。人間に近ければ近いほど熱くなるのだろうが、義之はサイボーグには客観的に自分を見る装置を埋め込んでいる。考えが深まれば深まるほど客観的に見ることができるという優れモノで、この時代には、すでに商品化されていた。ロボット販売店で、オプションのパーツとして売られている。さすがに安いものではないが、性能から考えれば、さほど高いとも言えないだろう。要は「価値観」の問題だ。
義之サイボーグは、義之のそんな性格をどれほど吸収したのだろうか。少なくとも、
「他の人と同じでは嫌だ」
という性格を、サイボーグに移植させようという気持ちはなかったが、どうやら、移植されてしまったようだ。それが義之には誤算ではあったが、本人は、それが大きな問題になるということは考えていなかった。
「面倒臭がり屋なところがあったが、そこは、移植されていないような気がする」
元々、ロボットやサイボーグは、人間のためになることを理念として作られているのだから、
「面倒臭い」
という概念はないのかも知れない。逆に人間が面号臭がってやりたくないことを率先してするのが、ロボットだという考えを、ロボット自身が持っているのかも知れない。
サイボーグを送り込んだ先にいた香澄先生は、先生をしているわりに、面倒臭いことが嫌いだった。自分の部屋もほとんど整理されているわけではなく、
「少々散らかっている方が、私は落ち着く」
と、考えていたほどだ。
これもまさか、
「人と同じでは嫌だ」
という性格が災いしていたのかも知れない。香澄の場合は個性だと思っていた義之が、最初に香澄に対して抱いた「勘違い」だった。
ただ、義之の時代の女性は、さほど身ぎれいというわけではない。服に関しては、個性がなくなり、人間もサイボーグのような「ボディスーツ」を身につけるようになった。
それには便利勝手がいいというのも最優先であったが、何か事が起こった時の行動のとりやすさと、何よりも身を守るために必要なものが備わっていたからだ。
義之の時代から見て過去に当たる未曾有の大戦争から学んだことであるが、技術に関しては、NASAを中心とした宇宙開発の視点から、ボディスーツは、いかなる場面でも身体を守れるように設計されていた。それだけ宇宙空間を想定しているだけに、丈夫で頑丈なのだ。
女性の場合、外出する時は、頭からかぶるフードのように、髪の毛や耳も隠れる形のスーツを身につけているため、なかなか、表を歩いている人が誰なのか、判断が付きにくい。特に人の顔を覚えるのが苦手な義之には、まったく誰だか分からない。
建物の中にいる時は、フードを外しているので、個性がよく分かる。義之の時代は、香澄の時代と違って社内恋愛が圧倒的に多いのは、そういう理由からだった。
香澄の時代には、社内恋愛というと、
「破局を迎えると、自分の居場所がなくなる」
ということもあって、敬遠されがちだった。
事情を知らない香澄の時代の人が、社内恋愛の多い義之の時代を見れば、羨ましいと思うかも知れない。最初に見た時、
「恋愛に関して、社会は寛大なんだ」
と、感じるからだ。
しかし、実際は未曾有の大戦争の時に減少してしまった人口、つまりは労働力の確保が第一だった。確かにロボット研究は進んではいたが、大量生産ができるほど進んではいない。特にロボットやサイボーグに関しては、どうしても、人間のように、
「越えられない壁」
があるからだった。人間に対しての抑止力が絶対でない限り、ロボットの大量生産は、絶対に無理だった。
まずは、
「意志を持っても安全なロボットの開発」
が急務だったのだ。
社内恋愛が頻繁に行われるようになると、同僚に対しての嫉妬心をあらわにする人も現れる。特に人口比率は男性の方が圧倒的に多いと、女性が優位に感じられるが、そうも行かないところが面白い。
確かにモテる女性は男性から引っ張りだこなのだろうが、どんなに比率が広がろうとも、モテない女の子は、男性から相手にされないのは変わらない。
「私は、世の中がどうなろうとも、孤立してしまうんだわ」
という思いが次第に嫉妬心を煽る。
自分を相手にしてくれない男性に対して、そして、男性をまわりに従える女性に対して、嫉妬心という憎悪を持ってしか見ることのできない自分を最初こそ、浅ましい感覚になっていたが、逃れられない現実や、世の中を斜めに見てしまうと、
「悪いのは自分ではない」
と思えてくる。
自分をどのように正当化しようかと考えてしまう。どのように表現しても正当化などできるわけないのだが、最後は男女の比率がすべてであることに行きつくだけだった。
サイボーグの数は、女性の方が圧倒的に多いのは、仕方がないかも知れない。しかも、サイボーグは人間に従順である。結婚はできるわけではないが、彼女として付き合うことができるだけのサイボーグの開発を望まれているのも事実だった。
かなり高価なものなので、そう簡単に普通の男性に購入できるものではない。それでも、開発が急がれるのは、サイボーグを風俗に使おうという動きもあるからだ。
性処理の相手としてサイボーグを利用するというのは、開発者としては気が引けるものだ。だが、一方では、サイボーグを兵器として使用するよりもいいだろうという考えもある。
「それに比べれば、まだマシだ。これも人助けのための開発なのだと思って、自分を納得させよう」
と義之は考えていた。
義之は女性のサイボーグばかり作っていたので、義之サイボーグは、今まで開発した中でもレアなタイプであった。しかも、若い頃とは言え、自分のコピーを作ろうというのだから、正直勇気がいることだった。
「もしも、サイボーグが意志を持ったら、俺のことをどう感じるんだろうな」
と感じた。
また、それ以上に、ロボットに対して自分がどういう目で見ることになるかということも、まったく想像できることではなかった。
女性のサイボーグをたくさん作ってきたので、男性から女性を見る目というよりも、女性から男性をどのように見るかということを念頭に置いて開発してきた。
もちろん、そんな目を簡単に持てるはずもなく、女性ロボットの中に組み込んだ記憶装置から、ありのままを映し出した自分の姿だけを見つめることのできるチップを開発することで、そこから女性の心理を垣間見れるような形が一番いいと思い、実際にロボットが自分を見た目を研究した時、
「これは無意味なことだ」
と、考えるに至った。
自分が開発したロボットに自分を見させるということは、ロボットにとって生みの親を評価するようなものだ。本当は従順でなければいけない相手である。ロボットは苦悩を繰り返すことになるのだが、そのことを人間には分からない。
いや、相手がロボットだから難しいわけではない。
「ロボットであっても、相手は女性だ」
という意識を持てなかったことが、義之にとって、行き詰った証拠だった。
創造主が行き詰ったのだから、サイボーグも責任を感じてしまう。
「私が、ご主人様を苦しめている」
その時、サイボーグが意志を持ったと言えるのかどうか、ハッキリとは分からない。だが、その時、一番近くにいた自分が分かってあげなければいけない時、義之の頭の中は自分のことしかなかったのだ。
その女性サイボーグは、最後まで義之のそばにいた。サイボーグを「女性ロボット」として見てはいたが、「女性」として見ることはできなかった。
だが、研究を重ねるごとに、そのサイボーグが、
「人を好きになれる要素を備えている」
ということに気が付いた。
しかもその相手は自分である。自分を好きになってくれたロボットとはいえ、女性である。そんなロボットを相手に、研究を続けなければいけない自分に対し、次第にやるせない気持ちが襲ってくる。
「ロボットが人を好きになるなどありえない」
という思いがあることで、ロボットの気持ちを気のせいだということで自分を納得させようとしている自分を見ていると、
「どっちがロボットなのか、分からなくなってきた」
と、感じるのだった。
そんなことがあってから、義之は女性のサイボーグをあまり作らなくなった。一時期女性恐怖症になった時があり、女性を見る目が人間に対してのものなのか、ロボットに対してのものなのか分からなくなった。感覚がマヒしてきたというよりも、まるで女性をバーチャルでしか感じなくなっていた。
「これって数世代前の感覚なのかな?」
本当の女性を相手にすることができなくなってきていた男性が、ゲームやアニメのキャラクターしか相手にできなくなる現象で、生身の人間よりも、フィギアなどのような人形しか相手にできなくなってしまい、社会問題になったということである。
女性もそんな男性が増えたことで、男性を偏見の目でしか見なくなる。そんな状態で、純愛などなかなかありえるはずもなく、純愛などという言葉自体が死語になっていた。
義之の先祖にもそんな時代を乗り越えてきたが、その頃から、
「自分の中にもう一つの人格が存在しているのかも知れない」
という意識を持った人が現れた。
「俺の人格は、その人から始まったんだ」
と、ずっと思ってきたが、どうやらそうではなかったようだ。
それは、沙織の日記を解析した時に分かったもので、過去を何とかしないといけないと思ったのも、その日記のおかげだった。
その日記に出てきた香澄先生の元に、三十代の自分を送りこもうと思ったことは、今でも間違っていないと思う。
「ミイラ取りがミイラになったのだ」
まさか自分の作ったサイボーグが人間を好きになるなんて、想像もしていなかった。
義之自身、サイボーグを創作する立場でしかサイボーグを見ていない。もちろん、女性サイボーグの設計は、自分好みの女性に仕上げることを基本としているのだが、やはり相手はサイボーグ。分かってしまえば恋愛感情など浮かぶはずはない。そういう意味で、サイボーグに対して恋愛感情を持つことはないということを再認識した。
しかし、それはただの再認識だけではなかった。
「人間がサイボーグを好きになるなんてことはないんだ」
という意識は、最初から持っていた。その思いに立ち戻っただけのはずなのに、どこかが違っていた。
最初は何が違うのか分からなかった。
サイボーグを好きになることはないという再認識をしてから、女性サイボーグを作ることを止めてしまった。製作したサイボーグを本当は壊してしまえばよかったのだろうが、どうしてもそこまではできなかった。十数体はあるだろうサイボーグは、研究室にある地下室に眠らせている。
「何かのショックで息を吹き返すかも知れない」
という思いは、恐怖でもあり、どこか期待しているところもあった。
「いや、俺は彼女たちを封印したんだ」
その十数体は、それぞれ顔も違う。そして、性格的な感覚を持つことができるかも知れないと思い、組み込んだ「学習能力チップ」、いわゆる「スタディ・ダイオード」と呼ばれるものも、それぞれのロボットで微妙に違っていた。
もっちも「スタディ・ダイオード」は開発経緯の中で、使用用途が違う目的で作っているので、それも当然のことであっただろう。
そんな彼女たちの中の一人に、義之は恋をしてしまったのだ。
サイボーグは、最初から恋愛感情を持つことはなかったはずだ。だが、恋愛感情を持つに十分な仕様に「スタディ・ダイオード」は設計されていたことで、彼女も次第に義之に惹かれていった。
サイボーグはまるで幼女だった。元々感情のなかったものに、感情が芽生えたのだ。生まれたての子供と同じではないか。しかも、元々義之の好みに合わせて「スタディ・ダイオード」を設計しているので、ミイラ取りがミイラになってもそれは無理もないことだった。
だが、自分がミイラになってしまっては、二進も三進もいかなくなる。すべては自分が創作し、作り上げようとした世界。その世界のコンダクターであり、プロデューサーなのだ。そんな自分が本来を忘れて、舞台に上がってしまっては、収拾がつかなくなる。
義之は悩んだ。
義之が悩むと、まわりはもっと混乱する。何しろ、人間は義之一人、まわりはすべて義之によって作られたサイボーグなのだ。
その時、義之は言い知れぬ孤独感に包まれていた。
「暖かい血が通っているのは俺だけなんだ」
自分を好きになってくれたサイボーグに罪はない。自分が好きにならなければ相手も何も考えないはずだったからだ。
自責の念に捉われながら、次第に孤立する自分を感じる。今まで生きてきて、こんな感覚は初めてだった。
若い頃、人間の女性を好きになって結婚しようと思ったこともあったが、ロボットへの情熱の強さを悟った相手の女性は、自ら身を引いていった。
いや、そんなきれいごとではなかった。
「あなたには、女性ロボットがお似合いよ」
痛烈な捨て台詞を吐いて、その女性は義之の前から去っていった。
別に悲しいとは思わなかった。
「これも仕方がないことだ」
と思った。
義之は性格的に、自分に訪れた不幸に対して、
「すべて原因は自分にある」
と考え、それ以上考えないように、すぐに諦めるようにしていた。一見、潔く見えるが、実は、
「面倒臭いことは嫌い」
という性格が頭を擡げるからだった。
要するに、自分を悪者にして自分で勝手に納得することが一番楽だからである。その考えは、
「俺は勝手な言い訳をでっち上げて、逃げているだけなんだ」
と、思うようにさせた。
その思いは間違いではない。むしろ一番的を得ている考えだろう。
的を得ているだけに、
「自分で的を得ているということを感じたくない」
という思いが心の中にあるのを、さらに封印し、意識しないようにしていることまでは、本人には分かっていなかった。
義之は、それから女性に対して、人間とロボットの区別がつかなくなってきた。
ロボット研究者としては、外観を見ただけでそれがロボットなのか人間なのかの区別はついてしまう。ついてしまうだけに、その能力自体に自信がなくなってきた。
アリの穴のようなちょっとした綻びから、次第に大きくなってくるというのは、人間の習性のようなもので、悩みなどもその一つであろう。
ロボットに対しての自信をなくしたくないという思いが優先順位としては一番強い。そのために犠牲にするのは、自分が感じる人間と、ロボットの境界線しかなかった。
意識はしていたが、それが自分の意志によるものなのかどうか、後から考えても分からない。
――他の人やロボットの心理に関しては研究しているのに、自分のこととなると、まったく分からなくなるもんなんだ――
と、今さらのように、分かっていたはずのことを頭に描いていた。
人間とロボットに対しての感覚がマヒしてしまうまでは簡単なことだった。
――自分を忘れてしまえばいいんだ――
と自分に言い聞かせればいいだけのことだった。
だが、基本は自分中心の生き方をしてきた義之に、自分を忘れるということは難しいことだった。
その時に感じたのが、
「俺の中にもう一人の人格がいる」
と、いうことだった。
これも今さらのように思い出したことであったが、このことに関しては、完全に自分の中から忘れていた。記憶の中に封印していたと言ってもいい。
このことを忘れていたということが、今回の苦悩を引き起こし、人間とロボットの境界に対しての意識をマヒさせる必要に迫られたのだという理屈に行きつくまで、義之は五年という歳月を費やした。
つまりは、五十歳になった義之にとって、五年前という月日は、
――消し去ってしまいたい記憶の一つ――
になってしまったのだ。
五年前というと微妙な時期である。ついこの間のように思えるが、かなり昔のようにも感じる。
特に三十歳代を思い出すと、
「まるで昨日のことのようだ」
と思うことはあっても、五年前のことに対して、昨日のことのように思うことは不可能だった。やはり、自分の中で記憶の中に封印しようとしている意識が働いているからなのだろうが、昨日のことのように思うのが不可能なのは、完全に封印できていない証拠に違いなかった。
「もし、この思いを完全に封印できていれば、自分のサイボーグが人を好きになることもできただろうに」
と、三十歳の自分で作ったサイボーグに憐みすら感じていた。
しかし、三十歳というのは外観だけで、考え方や意識は今の自分を移植したと思っていたが、これがそもそもの間違いだった。
三十歳代の自分のことをまるで昨日のことのように思い出せるという感覚があるのだから、記憶の奥に封印しているわけではなかった。
「身体に合わせた精神を注入しよう」
という考えが無意識な中ではあったが、本能的に働いたのかも知れない。
三十歳代の自分は、まだまだ血気盛んで、女性に対しても普通に好きになれた。もちろんそれはロボットに対してではなく、
「人間の女性」
に対してであった。
自分のサイボーグを作るのは、他のサイボーグを作るのとでは、おのずと思い入れも違ってくる。
「他とは違うんだ」
これは、他人とは違うという感覚と似てはいるが、若干違っていた。ただ、
「他人とは違う自分を作ろうとすると、必然的に人間の自分となるべく同じに作ってしまわなければいけない」
という思いが頭の中にあった。義之サイボーグは、そういう意味では、
「実によくできたサイボーグ」
だった。
だが、
「自分のこととは、自分が一番よく分かっているようで、実は一番知らないところが多い」
という考えもあった。
それは、分かっているところが多い反面、分かっているだけに、嫌なところは認めたくないという思いから、本能的に「自己否定」に入ってしまう。
「自己否定」は、元々スポット的な一部分に集中するはずだが、その一点を否定して自分の中から削除すると、悪いなりに、それまで保たれていた均衡が崩れてくる。そうなると、一か所から空いてしまった綻びから、いろいろな場所も否定しないといけない感覚に陥ってしまう。
そこで、一旦立ち止まることができればいいのだが、悪循環に気付かずに「自己否定」を繰り返していくと、自分のすべてを否定する方向に向かっていることにいずれは気付くだろう。
しかし、気付いた時にはすでに遅く、自分の何も信じられなくなる。そんな「心の病」が義之の中にもあった。
ただ、義之は自分の中にもう一つの人格があることを自覚していた。そのもう一つの人格が救ってくれたおかげで、寸でのところで、「心の病」に落ち込まずに済んだのだ。
だが、もう一つの人格が、その時すぐに表に出てきてくれたわけではなかった。入院までしなければいけない状態になる一歩手前で自分が救われたのだ。
「どうして、すぐに出てきてくれなかったんだ?」
ともう一つの人格に問い詰めてみた。しかし、もう一つの人格は答えない。もう一つの人格は意識することができても、自分が表にいる以上、彼が表に出てくることはなかった。
「そんなことはないはずだが」
と、義之には疑問だった。
そう思って、先祖の日記を見たことを思い出した。
再度日記を読み返すことで、
「この時代に行って、何とかしないといけないんだ」
と思った。
もう一つの人格が最初から出てきてくれなかった原因がそこにあると悟ったのは、日記からだというのが一番の理由だが、
「何かが狂い始めているのかも知れない」
と、感じたからだ。
自分が過去に行くことで、さらに狂いを生じさせる危険性があると思った。
「それならば」
と、自分のサイボーグを作った。
そのサイボーグには、
「決して誰かを好きになってはいけない」
という、「スタディ・ダイオード」を組み込んでいた。ロボット工学基本基準に匹敵するくらいの強さにするつもりだったが、どうしてもそこまではできなかった。
理論的には可能なはずなのに、どうしても義之にはそれを埋め込むことができなかったのだ。
それでも、かなり強力な「スタディ・ダイオード」なので、サイボーグが人を好きになるとすれば、
「未完成のダイオード」
だったとしか思えない。
「だが、逆に三十歳代の自分の意識が、『ダイオード』に優先しているのかも知れない」
と思うと、分からないことない。ミイラ取りがミイラになるのも、無理のないことだった。
「自分のサイボーグが、女性を好きになった」
という事実にばかり目が行っていたが、実際にはそれだけではなかった。
一番ビックリしたのは、
「サイボーグの性格が変わってしまった」
ということだったのだ……。
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