アパートに戻り、ポケットから取り出した鍵をドアノブに差し込んでいると、隣の部屋の扉が開いて、茜さんがひょこっと顔を出した。今さっきまで昼寝をしていたのか、目が充血し、頬に布団の痕が残っている。

「おかえり、ヒイラギ」

「…こんにちは、茜さん」

 茜さんは扉を半分開けた状態で、半身をこちらに突き出して、この前貸した新作小説の原稿を僕に寄越した。

「これ、返すよ」

「…いや、茜さんにあげます」

「…いいのかい?」

「要らなかったら捨ててください」

「こんな傑作、捨てるなんてもったいね。キミが賞を取ったら、『生原稿です!』って言って、オークションに出すことにするよ」

「うん、売るな」

 茜さんは一度引っ込むと、また顔を出して、手には原稿の代わりに缶ビールを持っていた。

「今晩、呑もうじゃないか。キミの最終選考に残ったお祝いだ」

「よしてくださいよ」

 僕はドアノブに差した鍵を捻って笑った。

「物欲センサーってやつです。期待したらダメです」

 いや、僕の場合、「期待しなくてもダメ」だった。僕が、「受賞する未来」を売ってしまったばかりに、「落選する未来」は、確定しているのだ。

 茜さんは少し目をきょとんとさせて、また微笑んだ。

「そうかい。じゃあ、『寂しい女を慰める会』で呑もうじゃないか」

「…そうですね」

 僕は力なく笑った。

 ドアノブを捻って開けた瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。

 俊敏な動きでスマホを取り出す。

 茜さんが「おっと! 編集部からの電話かな?」という。

 液晶を見て、僕は首を横に振った。

「母さんからです」

「なんだ」

 茜さんは自分のことのように、残念そうな顔になった。

 僕は「そう簡単にいきませんよ」と笑いながら、スマホをポケットに入れた。

「あれ? 出ないの?」

「はい」苦笑する。「どうせ、金の相談ですよ」

 自分の「未来」を売ってしまったことに後悔する理由の一つとして挙げられるのが、母さんのことだった。

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