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それから、十年が経った。
「ありがとうございましたー」
店員の快活な声に背中を押され、僕はコンビニから出た。買い物袋を腕に引っかけ、脇に挟んだ財布に、さっきのお釣りと、ATMの残高証明を入れる。
昼間は墨汁を広げたみたいに黒かった空だったが、今は子供がめちゃくちゃに塗ったように青かった。サイダーの瓶を傾けたみたいに、入道雲がもくもくと立ち上り、夏の「空の高さ」ってやつを強調している。
湿って黒く染まった路地には、粘っこい湿気が充満し、少し歩くだけで、僕の頬に纏わりついてきた。
僕は買い物袋から、ミネラルウォーターを取り出すと、くいっと傾けた。
ATMの残高は、九十六万だった。家賃、スマホ料金、ガス代、電気代、水道代…、あと生活費で、母さんに渡す分で、あとどれくらいもつだろうか?
そう空を仰いで考えていると、ポケットの中のスマホが震えた。
僕は脱兎のごとき動きでスマホを取り出すと、耳に押し当てた。
「……もしもし」
『あ、もしもし? ヒイラギ?』
「…なんだ、茜さんか」
『なんだとはなんだ。みんなのアイドル茜さんに向かって』
相手は、今住んでいるアパートの隣に住んでいる、「桜木茜」という女性からだった。年齢は教えてくれていないが、二十代後半か、三十代前半。近くの書店に努めていて、よく飲みに誘われる。喋り方や仕草に何処か哀愁がある人だった。
「なんですか? 茜さん?」
『いや、前に借りていた小説、読み終わったから、返そうと思ったんだけど、いなかったから』
「ああ、適当にポストに突っ込んで置いてください」
なんだ、そんなことのために電話してきたのか。
マイクの向こうで、鼻で笑う声がした。
『なに? 感想、聞かないの?』
「聞くまでもないですよ。どうせ、『つまらない駄作』なんだから」僕はそう吐き捨てた。「ってか、駄作だから、捨てておいてください。何なら、チリ紙に使ってもいいですよ」
『なんでそう君はひねくれているのかね』
茜さんのため息。
『面白かったよ』
そう言われて、思わず立ち止まった。
後方から走ってきた自転車がブレーキ音を響かせながら僕を躱し、「くそが!」と吐き捨てて走り去っていく。僕は震える声で聞いた。
「お、面白かったですか?」
『うん、面白かったよ』
茜さんはそう言った。
『こう…、おどろおどろしい描写の中にも、ちゃんと繊細な心の動きがあって、読んでいてキュンキュンしちゃう。主人公の行動に一貫性があるし、ラストもうまく着地できているね』
「……そう、ですか」
『なに? 嬉しいの?』
「ま、まあ…」
『安心しなよ。私、辛口だけど、褒めるときは褒めるからね』
スマホの向こうの茜さんが笑う。
『これ、小説賞に応募しているんでしょ? 残ってんの?』
「あ、はい、四次審査には残っています」
『すごいじゃん。いつ発表?』
「発表は九月ですけど…、もし最終選考に残っていたら、多分、前々に連絡が入っていると思います」
『へえ…』意味深な笑い声。『まあ、とりあえず祈っておくわ。このクオリティなら、多分最終選考にも残るよ』
「そ、そうですかね?」
そう言ってくれると、救われるようだった。
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